司が不在でも、汐音の日常に変わりはなかった。
いつも通り仕事をこなし、むしろ定時退社を徹底するようになった。
ある日、澪の食事の誘いを断ると、彼女は訝しげに尋ねた。
「最近は御堂様と仲睦まじいの?毎日のように帰宅を急いで、まるで一年前みたいね」
確かに一年前の司は、聖路加国際病院まで汐音を迎えに来ることすらあった。
控えめに離れた場所に車を停めるものの、澪は何度かその姿を目撃している。
ある時、手術の相談で車に近づいた澪は、スモークガラス越しに二人が絡み合う姿を偶然見てしまったのだ。
司の手が汐音のシャツの裾から滑り込む様子に顔を赤らめ、思わず目を覆いながら去ったものだった。
普段は冷たく無精な御堂様が、まさかこんなに熱烈だなんて…と、今思い出しても頬がほてる。
澪が今何を考えているかを知らない汐音は書類をまとめながら、
「犬の散歩があるの」と言った。
「…犬?」
「サモエドよ、名前は雪丸。可愛いでしょ?」」
汐音がスマホで見せた写真には、ふわふわの白い犬が映っていた。
澪は呆然とした。まさか本当の犬だとは。てっきり司のことを仄めかしていたと…
「急に飼い始めたの?」
「捨て犬だったの。縁があったから」
「本当に雪玉みたいで可愛いわね」
一週間で丸々と育った雪丸は、ますます愛らしくなっていた。
澪は目を輝かせて提案した。
「明日のランチ、連れてきてよ」
翌日、汐音はペット可のレストランに雪丸を連れて現れた。
澪は一目で雪丸にメロメロになり、食事中もずっと膝に抱き続ける。
人懐っこい雪丸は舌を出して嬉しそうだ。
澪が撮影を頼むと、汐音はスマホでパシャリ。
そのまま送信した瞬間、SNSに三井信之丞の投稿が流れた。
〈三歳のプリンセス、苦労の日々は終わり!これからは幸せだけ!誕生日おめでとう!東京一の美女になりますように!〉
写真に、誕生日ケーキと酒やお菓子が映っている。
特に気にする要素はないのに、なぜか「プリンセス」が心愛を指している気がして汐音のまぶたがピクッと動いた。
「トイレに少し」
澪に告げて席を立った。
洗面所で手を洗いながら、藤原凛や三井信之丞は司の幼なじみで、よく行動を共にしていて、司がレースをすれば二人も付いていくと思い出した。
顔を上げて通路に出ると、そこに人影が立っていた。
東京は狭い。
そう思った次の瞬間、黒いドレスに身を包んだ明里と目が合った。
何かのイベント帰りらしい装いだ。
「汐音さん、お会いするなんて奇遇ですね」
明里は一瞬目を見開いたが、すぐに笑顔を浮かべた。
汐音が無愛想に会釈して過ぎ去ろうとすると、明里はさっと腕を組んできた。
「今日は心愛の三歳のお祝いをしているんです。命の恩人であるあなたにも、ケーキを食べていただきたい」
「結構です」
「遠慮なさらないで。心愛だってあなたの名前を覚えていますよ。喜びますわ!」
無理やり引っ張られるまま、廊下の突き当たりの個室へ。
「 明里さん、どこ行ったんだ?酒は全部司が代わりに飲んでるんだぞ?」中から三井の声が聞こえた。
汐音が振りほどこうとした手が止まった。
「トイレに寄ったが、御堂先生にあって、連れてきた」
明里が室内へ押し込むと、ざわめいていた空間が水を打ったように静かになった。
「奥様…なぜここに?」三井が慌てて立ち上がる。
汐音の視線は、子供を抱いた男に向けられた。
わざと探したわけではない。
どこにいても司は目立つ存在なのだ。
司は眉をひそめた。
先週の日曜、司は「一週間の出張」と言っていた。
明日までがその期間だ。
つまり、娘の誕生日のために前倒しで戻ってきたのか?
いや、違う。
今日この場に遭遇しなければ、誕生日を終えた後、明里と楓通りで夜を明かし、明日鎌倉の邸宅に帰るつもりだったのだろう。
そうすれば汐音の前では「一週間」が成立する。
「ケーキを頂戴しようと。お邪魔でしょうか?」
汐音の声は冷静だった。
「とんでもない!奥様どうぞこちらへ」
三井が司の隣の席を勧め、司は心愛を彼に預けた。
汐音は澪に【友達の誕生日会に遭遇したから先に雪丸を連れて帰って】とメール。
本当の事情を言えば、澪が飛び込んで騒ぎそうだからだ。
室内の面々は顔見知りだが、彼らは明里の大学仲間。
司が沈黙すれば、どちらに味方するか分からない。
自ら恥を晒すつもりはなかった。
【雪丸を家まで送るわ!】と即答した澪が店を出るのを確認し、汐音は飲み物に口をつけた。
隅の方で囁き合う声が聞こえる。
「さすが御堂様、妻と愛人が同席する誕生日会とは」
「妻と愛人が仲良く過ごせるとは!」
「で、どちらが本物なんだ?」
佐藤が顎に手を当て、汐音と明里を交互に見比べた。
清楚な白いロングドレスと、柔らかな印象の黒のドレス。
対照的な二人だ。
「正式な妻なら白薔薇だけど、歴史を考えれば黒薔
薇が正妻扱いだろ」
白薔薇とは、魚の尾ひれのようなシルエットの白いドレスを着た汐音を指す。
腰をかがめた時、ドレスに密着した腰とヒップの曲線がくっきり浮かんだ。
「…たまらないな」佐藤は唇を舐め、後ろから抱けば最高だろうと妄想した。
「二股の極みだな」
「とんでもない。明里さんが正面から挑発してる。正妻の座は彼女のもの。汐音さんはそのうち離婚よ」
佐藤は眉を上げた。
「御堂涼子様が承知するわけないだろう?」
「御堂家の両親も高齢だし、結局は息子の意向次第だよ」
佐藤は納得し、邪な考えが頭をよぎった。
周知の通り、汐音に身寄りはない。
唯一のよりどころは御堂家だ。
もし追い出されれば、無防備な野花のように誰にでも摘み取られる存在になる。
そうなれば…彼の思いのままにできるかもしれない。