目次
ブックマーク
応援する
22
コメント
シェア
通報

第30話

司が不在でも、汐音の日常に変わりはなかった。


いつも通り仕事をこなし、むしろ定時退社を徹底するようになった。


ある日、澪の食事の誘いを断ると、彼女は訝しげに尋ねた。


「最近は御堂様と仲睦まじいの?毎日のように帰宅を急いで、まるで一年前みたいね」


確かに一年前の司は、聖路加国際病院まで汐音を迎えに来ることすらあった。


控えめに離れた場所に車を停めるものの、澪は何度かその姿を目撃している。


ある時、手術の相談で車に近づいた澪は、スモークガラス越しに二人が絡み合う姿を偶然見てしまったのだ。


司の手が汐音のシャツの裾から滑り込む様子に顔を赤らめ、思わず目を覆いながら去ったものだった。


普段は冷たく無精な御堂様が、まさかこんなに熱烈だなんて…と、今思い出しても頬がほてる。


澪が今何を考えているかを知らない汐音は書類をまとめながら、

「犬の散歩があるの」と言った。


「…犬?」


「サモエドよ、名前は雪丸。可愛いでしょ?」」

汐音がスマホで見せた写真には、ふわふわの白い犬が映っていた。


澪は呆然とした。まさか本当の犬だとは。てっきり司のことを仄めかしていたと…


「急に飼い始めたの?」


「捨て犬だったの。縁があったから」


「本当に雪玉みたいで可愛いわね」


一週間で丸々と育った雪丸は、ますます愛らしくなっていた。


澪は目を輝かせて提案した。


「明日のランチ、連れてきてよ」


翌日、汐音はペット可のレストランに雪丸を連れて現れた。


澪は一目で雪丸にメロメロになり、食事中もずっと膝に抱き続ける。


人懐っこい雪丸は舌を出して嬉しそうだ。


澪が撮影を頼むと、汐音はスマホでパシャリ。


そのまま送信した瞬間、SNSに三井信之丞の投稿が流れた。


〈三歳のプリンセス、苦労の日々は終わり!これからは幸せだけ!誕生日おめでとう!東京一の美女になりますように!〉


写真に、誕生日ケーキと酒やお菓子が映っている。


特に気にする要素はないのに、なぜか「プリンセス」が心愛を指している気がして汐音のまぶたがピクッと動いた。


「トイレに少し」


澪に告げて席を立った。


洗面所で手を洗いながら、藤原凛や三井信之丞は司の幼なじみで、よく行動を共にしていて、司がレースをすれば二人も付いていくと思い出した。


顔を上げて通路に出ると、そこに人影が立っていた。


東京は狭い。


そう思った次の瞬間、黒いドレスに身を包んだ明里と目が合った。


何かのイベント帰りらしい装いだ。


「汐音さん、お会いするなんて奇遇ですね」


明里は一瞬目を見開いたが、すぐに笑顔を浮かべた。


汐音が無愛想に会釈して過ぎ去ろうとすると、明里はさっと腕を組んできた。


「今日は心愛の三歳のお祝いをしているんです。命の恩人であるあなたにも、ケーキを食べていただきたい」


「結構です」


「遠慮なさらないで。心愛だってあなたの名前を覚えていますよ。喜びますわ!」


無理やり引っ張られるまま、廊下の突き当たりの個室へ。


「 明里さん、どこ行ったんだ?酒は全部司が代わりに飲んでるんだぞ?」中から三井の声が聞こえた。


汐音が振りほどこうとした手が止まった。


「トイレに寄ったが、御堂先生にあって、連れてきた」


明里が室内へ押し込むと、ざわめいていた空間が水を打ったように静かになった。


「奥様…なぜここに?」三井が慌てて立ち上がる。


汐音の視線は、子供を抱いた男に向けられた。


わざと探したわけではない。


どこにいても司は目立つ存在なのだ。


司は眉をひそめた。


先週の日曜、司は「一週間の出張」と言っていた。


明日までがその期間だ。


つまり、娘の誕生日のために前倒しで戻ってきたのか?


いや、違う。


今日この場に遭遇しなければ、誕生日を終えた後、明里と楓通りで夜を明かし、明日鎌倉の邸宅に帰るつもりだったのだろう。


そうすれば汐音の前では「一週間」が成立する。


「ケーキを頂戴しようと。お邪魔でしょうか?」


汐音の声は冷静だった。


「とんでもない!奥様どうぞこちらへ」


三井が司の隣の席を勧め、司は心愛を彼に預けた。


汐音は澪に【友達の誕生日会に遭遇したから先に雪丸を連れて帰って】とメール。


本当の事情を言えば、澪が飛び込んで騒ぎそうだからだ。


室内の面々は顔見知りだが、彼らは明里の大学仲間。


司が沈黙すれば、どちらに味方するか分からない。


自ら恥を晒すつもりはなかった。


【雪丸を家まで送るわ!】と即答した澪が店を出るのを確認し、汐音は飲み物に口をつけた。


隅の方で囁き合う声が聞こえる。


「さすが御堂様、妻と愛人が同席する誕生日会とは」


「妻と愛人が仲良く過ごせるとは!」


「で、どちらが本物なんだ?」


佐藤が顎に手を当て、汐音と明里を交互に見比べた。


清楚な白いロングドレスと、柔らかな印象の黒のドレス。


対照的な二人だ。


「正式な妻なら白薔薇だけど、歴史を考えれば黒薔

薇が正妻扱いだろ」


白薔薇とは、魚の尾ひれのようなシルエットの白いドレスを着た汐音を指す。


腰をかがめた時、ドレスに密着した腰とヒップの曲線がくっきり浮かんだ。


「…たまらないな」佐藤は唇を舐め、後ろから抱けば最高だろうと妄想した。


「二股の極みだな」


「とんでもない。明里さんが正面から挑発してる。正妻の座は彼女のもの。汐音さんはそのうち離婚よ」


佐藤は眉を上げた。


「御堂涼子様が承知するわけないだろう?」


「御堂家の両親も高齢だし、結局は息子の意向次第だよ」


佐藤は納得し、邪な考えが頭をよぎった。


周知の通り、汐音に身寄りはない。


唯一のよりどころは御堂家だ。


もし追い出されれば、無防備な野花のように誰にでも摘み取られる存在になる。


そうなれば…彼の思いのままにできるかもしれない。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?