汐音は後輩医師に回診を続けるよう指示すると、自身は廊下に残り、白衣のポケットに手を突っ込みながら小野奈々を冷ややかに見つめた。
ブランドバッグを提げた奈々が嘲笑気味に近づく。
「御堂様のご令嬢が入院なさったとか。それも汐音さんが主治医だなんて。奥様の座を守るためなら、そこまで恥を忍べるなんて、本当に感心しますわ」
「これ以上業務を妨げるなら、警備員を呼びますよ」汐音は微動だにせず。
「御堂様に子どもを産んだあの女を見て、本当に嫉妬しないの?」奈々は悔しさで歯を食いしばった。
汐音の表情は変わらない。
「あの女の素性、知りたくない?教えてあげるわ」逆に奈々は弱みを握ったように声を潜めて唆した。
「興味なし」夫と愛人の情事など聞く気になれるはずがない。
「気取ってらっしゃいでしょ!」奈々は嗤いながら、さっと名刺を汐音のポケットに押し込んだ。
「お昼にレストランで待ってる。真実を教えてあげるよ、無料でね」
腰をくねらせて去っていく奈々を背に、汐音は名刺を一瞥するなり丸めてゴミ箱へ投げ入れ、診察に戻った。
昼時、澪から食事に誘うメールが届く。
【約束があるからまた今度でね】と返信した汐音は白衣を脱ぎ、そのレストランへ向かう。
「興味ないって言ったくせに」
入口近くの席で待っていた奈々は汐音を見るなり嗤いた。
「タダの昼食なら、食べないわけはないでしょ」汐音は平然と着席し、メニューを手に取った。
高級店の目玉料理を三品も注文した。
「食べられるの、そんなに頼んで!」と奈々が目を見張る。
「司から貰ったあのダイヤのネックレス、共同財産だからいつでも返還請求できるわよ。食事一回ごちそうすることで済むから、あなたにとってはお得だよ」汐音が顔を上げる。
奈々は青ざめたが、二度と口答えできなかった。
「明里さんは御堂様の大学の同級生よ」料理が揃うと、奈々は性急に口を開いた。
汐音が口にしたミニトマトの酸味に顔をしかめる。
「元々そこそこのお家のお嬢様だったけど、四年前に実家から縁を切られたの。御堂様の愛人になったのに身分が認められなくて、家族が恥だと感じたらしいわ」奈々は悪意を込めて言葉を引き延ばした。
「御堂様の責任感からして、生涯あの母子を見捨てたりしないでしょうね」
「レモンティーに変更お願いします」
ウエイターがワインを運んできたが、汐音は穏やかに断った。
「御堂様が明里さんと結婚しなかったのは、すべては汐音、あなたのせいよ。あなたが御堂涼子に『司と結婚したい』と言ったから、御堂涼子が御堂様にあなたとの結婚を強いたの。要するに、あなたこそその二人を引き裂いた悪女よ」奈々の火種はさらに燃え上がる。
一つ一つの言葉が痛いところを突く。
だが汐音は意外なほど平静で、むしろ「雪丸の散歩どうしよう。犬は外で用を足すのが好きらしいから、早く帰らなきゃ」と考えを巡らせていた。
「……汐音さん!聞いてるの!?」奈々がテーブルを叩く。
「気取ってらしゃって!明里さんが現れた時から、あなたは東京一の馬鹿になったよ!」全く動じない汐音に、奈々はついに感情を爆発させた。
「美味しかったわ。ご馳走様」汐音は口元を拭い、立ち上がった。
本当に食事だけが目的だったかのように。
「汐音さん!厚かましい!しつこく絡んで他人の家庭を壊して!」
奈々はその背中に向かって金切り声をあげた。
「まさかの愛人だったのか……」周囲の客がささやく。
汐音は淡々とした表情で病院へ戻る。
信号待ちの間、ふと思った。
大学時代の同級生だったのか、と。
司は学生時代からレースに熱中し、バイクやスポーツカーを乗り回していた。
彼がスピードを競う写真を見たことがある。
革ジャンに包まれた颯爽とした姿、風に乱れる前髪、誇り高く笑う口元。
彼を最も愛した頃、あの姿を直接見られなかったことを悔やんだものだ。
ならば、明里は見ているのか?
並んで疾走したこともあるかもしれない。
だってあの写真には、司の周りにはいつも男女が群がっていた。
その中に彼女もいたのだろう。
……
週末は平穏に過ぎた。
日曜の夕暮れ、雪丸の散歩から帰った汐音は、ちょうどスーツケースを持って出てくる司の秘書とすれ違った。
「奥様」秘書が恭しく頭を下げる。
汐音が軽く会釈すると、その奥から現れた男を見上げた。
黒のスーツが逆三角形の体格を際立たせる。
このエリートの外見からは、命知らずのレーサーの魂を宿しているとは誰も想像できないだろう。
「出張で一週間留守にする。契約の例の任務は帰ってから果たすよ」司はポケットに手を突っ込み、汐音の前に立った。
低い声に笑いが混じり、仄かな色気を帯びている。
契約書には出張中は「週二回」の義務免除と明記されていた。
「ええ」
「残念と思わないか?
雪丸を連れて玄関に入り、犬の足を拭こうとしゃがみ込んだ瞬間、頭上から声が降りかかった。
「夫婦の義務が果たせなくて、がっかりしないのか?」
汐音がびっくりして振り向くと、戻ってきた司が腰をかがめて、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「……」
わざわざ戻ってきて、そんなことを聞くのか?
「がっかり過ぎて死にそう。行かないで」汐音は無表情で言った。
「戻ったらたっぷり仕返ししてやる」
その適当な返しに、司は口元を歪めると彼女の髪をぐしゃぐしゃと乱した。