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第32話

「ドン!」


汐音が猛然と立ち上がる。


「汐音さん、ごめんなさい。心愛がうっかり落としてしまって」

明里は慌てて心愛を抱きかかえ、申し訳なさそうに言った。


その場にいた全員がはっきり見ていた。


心愛がわざとケーキをひっくり返したのは明らかで、決して「うっかり」なんかじゃない。


一同は顔を見合わせ、視線は自然と司に向かう。


「やめたほうがいいって言っただろう」司は冷ややか顔つきで言った。


「心愛に直接手渡させれば、気持ちが伝わるかと思って……」と明里は優しい声で説明した。


汐音がティッシュを取り出して拭うが、ケーキのジャムはもう白いドレスに染みつき、目を刺すような赤いシミに広がっていた。


「ちょっと洗いに行くわ」


「悪い女!悪女!」

振り返ろうとしたその時、背後の心愛が幼い声で叫んだ。


汐音の足が止まる。


「心愛! 何を言ってるの!」と明里はすぐに娘の口を押さえ、厳しい声で叱った。


突然の母親の怖い顔に驚いた心愛は、唇を震わせ、「わあっ」と泣き出した。


「パパ……パパ……うう……」司に小さな手を伸ばし、すすり泣きながら叫ぶ。


「悪いことしたのにパパを呼ぶ? ちゃんと謝りなさい! パパがかばっても、ママは甘やかさないからね!」明里は娘の手首を掴み、手の甲を叩くふりをしながら、真顔で叱責した。


「パパ……パパ……」3歳の心愛にそんなことが理解できるはずもなく、ますます泣きじゃくり、必死に司の方へ手を伸ばす。


場の空気は一気に凍りついた。


隠し子が公然と本妻を侮辱し、「パパ」を盾に叫び続ける。


愛人が見せしめに子供を叱るが、誰の目にも明らかだ。


三歳児が誰かに教えられずに「悪い女」なんて言葉を口にできるはずがない。


これは明らかに明里の、汐音への示威行為だ!


だが、皆が薄々気づいていても、最終的には司の態度次第。


司が明里の言葉に乗り、軽く流せば、それは汐音への公然の侮辱。


逆に明里の子育ての過失を追求すれば、汐音の側につくことになる……だが、果たして司にそれができるのか?


───絶対に無理だ。


もし本当に妻を大切に思っているなら、妻を愛人にいじめられるままになるはずがない。


汐音はとっくに見抜いていた。


司に恥をかかされる前に、自ら振り返り、冷たい眼差しで明里をまっすぐに見据えた。


「汐音さん、子供の言うことですから、気にしないでいただけますか……」明里はか弱げに言った。


「三歳児が『悪女』なんて言葉を理解してると思う? 誰かに教えられなければ、そんなにすらすら言えるはずがないわ。明里さんが教える勇気があるなら、今さら取り繕わなくてもいいじゃない?」

汐音は嘲笑した。


「誤解です、本当に教えてなんて……テレビで覚えたのかもしれません……」明里の表情が強張り、すぐに悲しげな顔になる。


「テレビ?」汐音はうなずいた。「確かにね。でも他の人には言わず、『パパを奪った女』にだけ言うなんて……本当に賢い子ね」


「汐音さん……」明里は唇を噛んだ。


汐音の目が冷たくなる。


「子供をしつけるのは犬の調教と似てるの。理屈だけじゃダメで、覚えさせないと」


そう言うが早いか、汐音は突然ケーキを取り、心愛の頭にぐしゃりと押し付けた!


「何をしているの!?」明里の友達が立ち上がった。


汐音は無表情で、心愛の頭の上でケーキをぐりぐりと擦りつけ、髪の毛一本一本にクリームを塗り込んでいく。


心愛は二秒間呆け、その後は裂けるような悲鳴をあげて泣き叫んだ。


「ま3歳だぞ! しかも心臓病持ちだ! 医者としてあるまじき行為だ!」三井信之丞が非難した。


「本当に医者失格なら、今頃彼女はまだ集中治療室(ICU)にいるよ」汐音は手を払いながら言った。

「てめえー!」信之丞が怒りを爆発させようとしたその時、ガラステーブルが激しく蹴られた!


「ギィィー!」という耳障りな音と共に、テーブル全体が信之丞の足に激突し、酒や飲み物がひっくり返り、めちゃくちゃになった。


信之丞が顔を上げると、司の目に渦巻く怒りが飛び込んできた。


信之丞はすぐに口をつぐんだ。


明里は涙を浮かべているが、汐音は一瞥もせず、一言だけ残した。


「これで、余計なことを言うとどうなるか覚えたはず」と。


そう言うと、そのまま去っていった。


藤原凛は司を一瞥し、素早く後を追った。


「司……」と泣きすぎてしゃっくりを繰り返す娘を抱きかかえた明里が、涙で濡れた顔で司を見つめる。


司は立ち上がると、一つのチェリーを無造作に心愛の頭の上にのせて、「3歳でもうこうなっているか。これ以上大きくなったらどうなる? お前、本当にちゃんと躾けるべきだな」と嘲笑った。


そう言い残し、颯爽と立ち去った。


******


トイレで、汐音は必死にスカートのジャムのシミをこすったが、無駄だった。


諦めて手を拭い、ドアを出ると、そこで待っていた藤原凛にばったり出くわした。


「汐音、今日の件は……」藤原凛は申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「僕たちは明里とは昔からの知り合いで、心愛の手術も終わったばかりだし、誕生会を開きたいと言われて、断りづらくて……」


「司が隠し子の誕生会に来てるんだから、あなたが謝ることじゃないでしょ?」汐音は遮った。


もし司が大目に見ていなければ、あの親子があそこまで図々しく振る舞えるはずがない。


「君が先に手を出さなかったとしても、司の性格なら、決して明里を好き勝手にはさせなかった」と藤原凛は真剣な表情で言った。


「司が善悪をわきまえてるのは当然よ」汐音は嘲笑った。「誰よりも、誰を守るべきか分かってる――私が抵抗しなければ、明日には東京の社交界の笑いものになってたわ」


汐音は少し間を置いた。


「いや、とっくにそうなっているけどね」


「昔は楓葉通に隠してたのに、今は連れ回す……明里には花を贈って、私には一本たりとも贈ったことない。もちろん、欲しくなんてないわ」汐音は皮肉な笑みを浮かべた。


「司の中で、この妻は愛人以下なのよ。小野奈々にはダイヤのネックレスを贈ってる。数千万円するもの。だから、彼の弁護はやめて」


「汐音……」藤原凛はため息をつき、顔を上げた瞬間、突然表情を強張らせた。


汐音は聞こえていないふりをして、続けた。


「私から見れば、司はただのクズだ。彼が離婚を引き延ばしていなければ、もうとっくに解放されてるわ。今は彼を一目見るだけで寿命が縮む気がする」


「……」


「よ、司」


藤原凛は眉間を揉みながら、諦めたように言った。

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