「ドン!」
汐音が猛然と立ち上がる。
「汐音さん、ごめんなさい。心愛がうっかり落としてしまって」
明里は慌てて心愛を抱きかかえ、申し訳なさそうに言った。
その場にいた全員がはっきり見ていた。
心愛がわざとケーキをひっくり返したのは明らかで、決して「うっかり」なんかじゃない。
一同は顔を見合わせ、視線は自然と司に向かう。
「やめたほうがいいって言っただろう」司は冷ややか顔つきで言った。
「心愛に直接手渡させれば、気持ちが伝わるかと思って……」と明里は優しい声で説明した。
汐音がティッシュを取り出して拭うが、ケーキのジャムはもう白いドレスに染みつき、目を刺すような赤いシミに広がっていた。
「ちょっと洗いに行くわ」
「悪い女!悪女!」
振り返ろうとしたその時、背後の心愛が幼い声で叫んだ。
汐音の足が止まる。
「心愛! 何を言ってるの!」と明里はすぐに娘の口を押さえ、厳しい声で叱った。
突然の母親の怖い顔に驚いた心愛は、唇を震わせ、「わあっ」と泣き出した。
「パパ……パパ……うう……」司に小さな手を伸ばし、すすり泣きながら叫ぶ。
「悪いことしたのにパパを呼ぶ? ちゃんと謝りなさい! パパがかばっても、ママは甘やかさないからね!」明里は娘の手首を掴み、手の甲を叩くふりをしながら、真顔で叱責した。
「パパ……パパ……」3歳の心愛にそんなことが理解できるはずもなく、ますます泣きじゃくり、必死に司の方へ手を伸ばす。
場の空気は一気に凍りついた。
隠し子が公然と本妻を侮辱し、「パパ」を盾に叫び続ける。
愛人が見せしめに子供を叱るが、誰の目にも明らかだ。
三歳児が誰かに教えられずに「悪い女」なんて言葉を口にできるはずがない。
これは明らかに明里の、汐音への示威行為だ!
だが、皆が薄々気づいていても、最終的には司の態度次第。
司が明里の言葉に乗り、軽く流せば、それは汐音への公然の侮辱。
逆に明里の子育ての過失を追求すれば、汐音の側につくことになる……だが、果たして司にそれができるのか?
───絶対に無理だ。
もし本当に妻を大切に思っているなら、妻を愛人にいじめられるままになるはずがない。
汐音はとっくに見抜いていた。
司に恥をかかされる前に、自ら振り返り、冷たい眼差しで明里をまっすぐに見据えた。
「汐音さん、子供の言うことですから、気にしないでいただけますか……」明里はか弱げに言った。
「三歳児が『悪女』なんて言葉を理解してると思う? 誰かに教えられなければ、そんなにすらすら言えるはずがないわ。明里さんが教える勇気があるなら、今さら取り繕わなくてもいいじゃない?」
汐音は嘲笑した。
「誤解です、本当に教えてなんて……テレビで覚えたのかもしれません……」明里の表情が強張り、すぐに悲しげな顔になる。
「テレビ?」汐音はうなずいた。「確かにね。でも他の人には言わず、『パパを奪った女』にだけ言うなんて……本当に賢い子ね」
「汐音さん……」明里は唇を噛んだ。
汐音の目が冷たくなる。
「子供をしつけるのは犬の調教と似てるの。理屈だけじゃダメで、覚えさせないと」
そう言うが早いか、汐音は突然ケーキを取り、心愛の頭にぐしゃりと押し付けた!
「何をしているの!?」明里の友達が立ち上がった。
汐音は無表情で、心愛の頭の上でケーキをぐりぐりと擦りつけ、髪の毛一本一本にクリームを塗り込んでいく。
心愛は二秒間呆け、その後は裂けるような悲鳴をあげて泣き叫んだ。
「ま3歳だぞ! しかも心臓病持ちだ! 医者としてあるまじき行為だ!」三井信之丞が非難した。
「本当に医者失格なら、今頃彼女はまだ集中治療室(ICU)にいるよ」汐音は手を払いながら言った。
「てめえー!」信之丞が怒りを爆発させようとしたその時、ガラステーブルが激しく蹴られた!
「ギィィー!」という耳障りな音と共に、テーブル全体が信之丞の足に激突し、酒や飲み物がひっくり返り、めちゃくちゃになった。
信之丞が顔を上げると、司の目に渦巻く怒りが飛び込んできた。
信之丞はすぐに口をつぐんだ。
明里は涙を浮かべているが、汐音は一瞥もせず、一言だけ残した。
「これで、余計なことを言うとどうなるか覚えたはず」と。
そう言うと、そのまま去っていった。
藤原凛は司を一瞥し、素早く後を追った。
「司……」と泣きすぎてしゃっくりを繰り返す娘を抱きかかえた明里が、涙で濡れた顔で司を見つめる。
司は立ち上がると、一つのチェリーを無造作に心愛の頭の上にのせて、「3歳でもうこうなっているか。これ以上大きくなったらどうなる? お前、本当にちゃんと躾けるべきだな」と嘲笑った。
そう言い残し、颯爽と立ち去った。
******
トイレで、汐音は必死にスカートのジャムのシミをこすったが、無駄だった。
諦めて手を拭い、ドアを出ると、そこで待っていた藤原凛にばったり出くわした。
「汐音、今日の件は……」藤原凛は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「僕たちは明里とは昔からの知り合いで、心愛の手術も終わったばかりだし、誕生会を開きたいと言われて、断りづらくて……」
「司が隠し子の誕生会に来てるんだから、あなたが謝ることじゃないでしょ?」汐音は遮った。
もし司が大目に見ていなければ、あの親子があそこまで図々しく振る舞えるはずがない。
「君が先に手を出さなかったとしても、司の性格なら、決して明里を好き勝手にはさせなかった」と藤原凛は真剣な表情で言った。
「司が善悪をわきまえてるのは当然よ」汐音は嘲笑った。「誰よりも、誰を守るべきか分かってる――私が抵抗しなければ、明日には東京の社交界の笑いものになってたわ」
汐音は少し間を置いた。
「いや、とっくにそうなっているけどね」
「昔は楓葉通に隠してたのに、今は連れ回す……明里には花を贈って、私には一本たりとも贈ったことない。もちろん、欲しくなんてないわ」汐音は皮肉な笑みを浮かべた。
「司の中で、この妻は愛人以下なのよ。小野奈々にはダイヤのネックレスを贈ってる。数千万円するもの。だから、彼の弁護はやめて」
「汐音……」藤原凛はため息をつき、顔を上げた瞬間、突然表情を強張らせた。
汐音は聞こえていないふりをして、続けた。
「私から見れば、司はただのクズだ。彼が離婚を引き延ばしていなければ、もうとっくに解放されてるわ。今は彼を一目見るだけで寿命が縮む気がする」
「……」
「よ、司」
藤原凛は眉間を揉みながら、諦めたように言った。