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第33話

汐音はその時になって周囲の緊張した空気に気づいた。


だが、汐音は気にしなかった。


口にするからには、聞かれても恐くはない。


「お邪魔して悪かったわ。先に失礼する」彼女は涼しい顔で藤原凛に言った。


振り返ると、やはり司が背後に立っていた。


白いワイシャツ一枚にネクタイも緩めた姿は、だらりとした倦怠感を漂わせている。


「俺と一緒にいると寿命が縮むって?」司は言葉を引き伸ばし、いつもの無造作な口調の中に、凍りつくような冷たさを潜ませていた。


「知らない者は、俺がとんでもない大罪でも犯したかと思うだろうな」


「ある人にとっては、結婚中に次々と浮気をしても、妻に申し訳ないことにはならないらしいわね」と汐音は淡々と言い返した。


「次々と?」司はその言葉を噛みしめるように繰り返し、目に一瞬の凶光が走った。


「俺のベッドの下にでも潜り込んでいたのか?そんなに物語を紡ぐのが上手なら、医者なんてやめて小説家にでも転向したらどうだ?」


「私の言葉のどこが間違っているの?」汐音は問い詰めた。


「俺が誰かにネックレスや花を贈ったって噂を聞いただろう。しかし、お前は一言も確かめずに信じるのか?もしお前が直接聞いてくれれば――」司は汐音を睨んだ。


「いいわ、今聞く。小野奈々にダイヤのネックレスを贈った?明里に青いバラを贈った?」汐音は遮るように言った。


「……」


司は舌で頬肉を押し上げ、ふいに笑った。


しかし笑みはどこか偽物ように見えた。


「ああ、贈ったよ」


「だから、私があなたを冤罪にかけてないわね?」


「お前の言う通りだ」司は嘲笑を込めて言った。「そんなものは要らないって言ってなかったか?今さら過去の話を蒸し返すなんて、どういうつもり?」


「離婚の時の財産分与をスムーズにするために、前もって清算しておくのよ」


司の表情が一瞬で凍りついた。


それ以上言葉を続けず、汐音は彼の横をすり抜けた。


レストランを出た時、背後からライターの軽い音が聞こえた。


「本当に小野さんに数千万のネックレスを贈ったのか?」

藤原凛がタバコを差し出しながら、我慢できずに尋ねた。


「これからは信之丞に、つまらない集まりはもうやめてくれ」司は苛立ったように煙の輪を吐いた。


汐音が路肩でタクシーを待っていると、真っ赤なフェラーリが目の前に停まった。


「汐音さん、送っていこうか?」窓が下り、佐藤毅の脂ぎった顔が見えた。


「結構です」汐音は半歩後退した。


「タクシーなんて不便だよ」佐藤毅は薄笑いを浮かべた。


「俺は信之丞とも親しいんだ。これからよく遊びに出れば仲良くなれるさ」


「どうしたの?御堂家から追い出されそうな私に、拾いに行こうってわけ?」汐音は突然悟ったように、冷笑した。


「友達になろうよ。一人じゃ寂しくないか?」

佐藤毅も否定せず、露骨な目つきで凛子を舐めるように見た。


「あんたが?」汐音の目つきが鋭く研がれた刃のようになった。

「奥様でなくなっても、私は御堂涼子様の養女であり、千島家の令嬢よ。信之丞さんでさえ私に礼儀正しいのに、あんたなんて何様のつもり?」


「冗談だよ」佐藤毅の顔が青ざめ、悔しそうに言った。

車が遠ざかったが、曲がり角で停まった。


佐藤毅は車窓から、貪欲に彼女の後ろ姿を眺め、舌で唇を舐めた。


この女が離婚したら、御堂家の若様の元妻の味をぜひとも味わってやる。


「雪丸を私に売ってよ!」澪がサモエドを抱えたまま離そうとしない。


「いいわよ。金相場で計算して、1グラム千円、5キロなら――」

汐音はにっこり笑った。


「早く行ってよ!行かなかったらぶつわよ!」 と澪は即座に手を離した。

散歩中、雪丸が芝生にうんちをした。


汐音が慣れた手つきで片付けていると、突然笑いを帯びた声が背後から聞こえた。


「潔癖症だったのに、今は犬の糞拾いもお手のものだな?」


高杉蓮が楓町の木の下に立っていた。


スーツはきちんとしていて、優しく気品を漂わせている。


「兄さん!」汐音は驚喜して振り返った。


「どうしてここに?」


「月見亭で食事してたら、君が見えたんだ」蓮が近づき、雪丸の頭を撫でた。「どこかでゆっくり話そうか?」


カフェのパラソルの下、雪丸は大人しく伏せていた。


「この数年、兄さんはどこにいたの?」

汐音は長い間胸にしまっていた疑問をようやく口にした。

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