汐音はその時になって周囲の緊張した空気に気づいた。
だが、汐音は気にしなかった。
口にするからには、聞かれても恐くはない。
「お邪魔して悪かったわ。先に失礼する」彼女は涼しい顔で藤原凛に言った。
振り返ると、やはり司が背後に立っていた。
白いワイシャツ一枚にネクタイも緩めた姿は、だらりとした倦怠感を漂わせている。
「俺と一緒にいると寿命が縮むって?」司は言葉を引き伸ばし、いつもの無造作な口調の中に、凍りつくような冷たさを潜ませていた。
「知らない者は、俺がとんでもない大罪でも犯したかと思うだろうな」
「ある人にとっては、結婚中に次々と浮気をしても、妻に申し訳ないことにはならないらしいわね」と汐音は淡々と言い返した。
「次々と?」司はその言葉を噛みしめるように繰り返し、目に一瞬の凶光が走った。
「俺のベッドの下にでも潜り込んでいたのか?そんなに物語を紡ぐのが上手なら、医者なんてやめて小説家にでも転向したらどうだ?」
「私の言葉のどこが間違っているの?」汐音は問い詰めた。
「俺が誰かにネックレスや花を贈ったって噂を聞いただろう。しかし、お前は一言も確かめずに信じるのか?もしお前が直接聞いてくれれば――」司は汐音を睨んだ。
「いいわ、今聞く。小野奈々にダイヤのネックレスを贈った?明里に青いバラを贈った?」汐音は遮るように言った。
「……」
司は舌で頬肉を押し上げ、ふいに笑った。
しかし笑みはどこか偽物ように見えた。
「ああ、贈ったよ」
「だから、私があなたを冤罪にかけてないわね?」
「お前の言う通りだ」司は嘲笑を込めて言った。「そんなものは要らないって言ってなかったか?今さら過去の話を蒸し返すなんて、どういうつもり?」
「離婚の時の財産分与をスムーズにするために、前もって清算しておくのよ」
司の表情が一瞬で凍りついた。
それ以上言葉を続けず、汐音は彼の横をすり抜けた。
レストランを出た時、背後からライターの軽い音が聞こえた。
「本当に小野さんに数千万のネックレスを贈ったのか?」
藤原凛がタバコを差し出しながら、我慢できずに尋ねた。
「これからは信之丞に、つまらない集まりはもうやめてくれ」司は苛立ったように煙の輪を吐いた。
汐音が路肩でタクシーを待っていると、真っ赤なフェラーリが目の前に停まった。
「汐音さん、送っていこうか?」窓が下り、佐藤毅の脂ぎった顔が見えた。
「結構です」汐音は半歩後退した。
「タクシーなんて不便だよ」佐藤毅は薄笑いを浮かべた。
「俺は信之丞とも親しいんだ。これからよく遊びに出れば仲良くなれるさ」
「どうしたの?御堂家から追い出されそうな私に、拾いに行こうってわけ?」汐音は突然悟ったように、冷笑した。
「友達になろうよ。一人じゃ寂しくないか?」
佐藤毅も否定せず、露骨な目つきで凛子を舐めるように見た。
「あんたが?」汐音の目つきが鋭く研がれた刃のようになった。
「奥様でなくなっても、私は御堂涼子様の養女であり、千島家の令嬢よ。信之丞さんでさえ私に礼儀正しいのに、あんたなんて何様のつもり?」
「冗談だよ」佐藤毅の顔が青ざめ、悔しそうに言った。
車が遠ざかったが、曲がり角で停まった。
佐藤毅は車窓から、貪欲に彼女の後ろ姿を眺め、舌で唇を舐めた。
この女が離婚したら、御堂家の若様の元妻の味をぜひとも味わってやる。
「雪丸を私に売ってよ!」澪がサモエドを抱えたまま離そうとしない。
「いいわよ。金相場で計算して、1グラム千円、5キロなら――」
汐音はにっこり笑った。
「早く行ってよ!行かなかったらぶつわよ!」 と澪は即座に手を離した。
散歩中、雪丸が芝生にうんちをした。
汐音が慣れた手つきで片付けていると、突然笑いを帯びた声が背後から聞こえた。
「潔癖症だったのに、今は犬の糞拾いもお手のものだな?」
高杉蓮が楓町の木の下に立っていた。
スーツはきちんとしていて、優しく気品を漂わせている。
「兄さん!」汐音は驚喜して振り返った。
「どうしてここに?」
「月見亭で食事してたら、君が見えたんだ」蓮が近づき、雪丸の頭を撫でた。「どこかでゆっくり話そうか?」
カフェのパラソルの下、雪丸は大人しく伏せていた。
「この数年、兄さんはどこにいたの?」
汐音は長い間胸にしまっていた疑問をようやく口にした。