汐音は唇を強く結び、この二日間の努力が報われますようにと心の中で祈った。
その瞬間、司が動きを止め、身を起こして陰りのある目で汐音を睨んだ。
「どうしたの?」
男は突然ベッドから離れ、縁に腰掛けながらゆっくりと浴衣の帯を締めると、ナイトテーブルから煙草を抜き出し火をつけた。
煙の中から判読不能な視線が向けられる。
汐音の心がじわじわと沈んでいく。
この光景はあまりにも見覚えがあった。
あの日、明里から電話がかかってきた時とそっくりだった。
「司、私を馬鹿にしているの?」
「馬鹿にされているのはこっちだろう」
司は灰をはらい、逆に問いを投げ返した。
「……何よ?」
「堂々の心臓外科医が、自分の生理期すら分からないってのか?」
汐音の表情が三秒間固まった。
ハッと気づき、下を見る。
なるほどさっき下腹部がうずいていたのは、キスの時に熱いものが流れ出たのも、情熱のせいじゃなく、生理が始まったからだった!
頬が一気に熱くなり、汐音は逃げるように浴室へ駆け込んだ。
浴室には必要なものがすべて揃っていた。
慌てて生理用ナプキンと使い捨てパンツを取り替え、何度か深呼吸してようやく落ち着いた。
出てくると、司はベッドにもたれてスマホをいじり、汐音の姿を見るなり鋭い眼差しを向けた。
「先週、排卵日だって言ったじゃない。戻ってこなかったのはあなたでしょう?」
排卵後の生理は常識だ。
司は無駄口を嫌い、ドアを叩きつけて出て行った。
汐音は彼がかなり辛いだろうと推測した。
—今夜二度も中断されれば誰だって参ってしまう。
他人なら申し訳なく思うところだが、相手が司だとむしろ当然だと思えた。
今頃どこへ行った?
まさか他の女を探しに?
このクラスのホテルにまでそういうサービスがあるのか?
下腹部が突然締めつけられるように痛んだ。
生理痛は汐音の持病で、司に漢方を飲まされていた時期だけ和らいでいた。
疲れと痛みでベッドに倒れ込み、次回の休みに東京の野村先生を訪ねようとぼんやり考えた。
自分の体なのだから、無理する必要はない。
うとうとしていると、ドアが突然開いた。
「どうしたの?できなかったから追い出すの?」と、戻ってきた男を見ながら汐音は言った。
「俺を子供作りの道具だと思ってるのか?」司は冷笑した。
……もう出て行ったと思っていたのに。
「飲め」
男はベッドに近づき、魔法瓶を差し出した。
「何これ?」
蓋を開けると、生姜と蜂蜜の甘い香りが漂った。
「毒薬だ。象一頭殺せる量だ」
つまり彼は生姜湯を作りに行っていたのか?
汐音が少しずつ飲むと、温度は丁度良かった。
司は彼女の青ざめた顔を見て言った。
「フロントに痛み止めを要求したがなかった。この症状、治す気あるのか?」
奇妙なことに、腹痛は和らいでいるようだった。
「あるよ」
「来週東京の野村先生に連れて行く。あの先生もう九十手前だ。今行かなければ今後治したくても機会がない」
生姜湯を飲み終えると、司は横になるよう合図した。
「楽になったか?」温かい掌が汐音の下腹部に触れ、程よい力加減で揉み始めた。
意外にも手際が良かった。
「これまで何人の女に揉んであげたの?」汐音は思わず尋ねた。
「数え切れないな」司はだるそうに答えた。
「フランスにいた時マッサージ店を開いて、生理痛専門で別荘一軒買ったんだ——これで満足か?」
「まともに答えられないの?」
「お前、何でも女の話に結びつけるの止められるか?」
「だってあなたにはたくさん女がいるのは事実じゃない」と汐音がぼそりと言った。
病人だからと大目に見て、司は揉む手を続けながらもう片方でスマホを操作した。
次第に襲う眠気の中、汐音は一年前の雨の夜をふと思い出した。
あの時も今のようにしてくれていたら、あんなことにはならなかったかもしれないと。
……
朝日がレースのカーテンを通す頃には、腹痛は引いていた。
初日を乗り切れば楽になるのだった。
司は部屋にいない。
「御堂様はレストランにおります」
着替えて外に出ると、従業員が恭しく告げた。
朝日を浴びて紅茶を飲む男の輪郭がくっきりと浮かび上がる。
汐音の姿を見て司は顔を上げた。
「昼にクライアントと会う予定だ。臨機応変に対応してくれ」ふと汐音の空っぽの薬指を見て言った。
「結婚指輪、またなくしたか?」
「手術の時に邪魔なの」
本当に着ける気があれば、手術の時外せばいいだけのこと。
つまり着けたくなかったのだ。
「敷地内に新しい乗馬場ができた。見に行くか?」と司は追求せず、代わりに提案した。
この温泉旅館は広大な敷地に様々な施設が揃っていた。
乗馬、アーチェリー、射撃、ゴルフ……裕福層のスポーツは汐音も一通りの経験がある。
育ての父に教わったものもあれば、御堂家に入ってから覚えたものも多かった。
実の親は失ったけれど、御堂涼子に出会えたのは不幸中の幸いだったと、汐音は時折思うのだった。