早坂清佳の心は一瞬で奈落の底へと落ち、恐怖が全身を支配した。自分は決して薬なんて使っていないのに、採血して検査だなんて、まるで自分から罠に飛び込むようなものだ。
必死に母・雅子の服の裾を掴み、泣き声混じりに叫ぶ。
「お母さん、行きたくない!恥ずかしすぎるよ!莉子、なんでそんなことして病院まで巻き込むの?行くくらいなら……死んだ方がマシ!」
壁に頭を打ちつけようとする清佳を、西尾夏樹が慌ててしっかりと抱きとめる。
「清佳!やめて!僕は君を信じているよ。夏樹は君の味方だ!」
そのまま彼の胸に顔を埋めて泣き続ける清佳。雅子も慌ててなだめた。
「わかった、行かなくていいのよ。お母さんも信じてるから。もう、泣かないの。」
莉子はこの光景を見て、心の底まで冷え切った。同じ娘なのに、清佳はただ少し涙を見せるだけで、何もかも自分の思い通りになる。自分がどんなに訴えたところで、何の意味も持たないのだ。
莉子は九条直樹のしっかりした胸元に顔をうずめ、鼻声で、どこか祈るような気持ちを込めてつぶやいた。
「直樹……私を連れて行って。お願い。」
九条直樹は目を伏せ、腕の中の莉子を見つめる。さっきまで熱を帯びていたその瞳は、今は傷ついた小動物のように赤く潤んでいた。
「わかった。」低い声でそう答えると、莉子を自分のジャケットで包み込むようにしっかりと抱きしめ、周囲の視線をものともせず、大股で廊下を歩き去った。
まだ帰っていなかった客たちがざわつく。
「えっ、何あれ?」
「あれって九条さんじゃない?なんで莉子さんを抱きかかえてるの?服も乱れて…」
「何かあったらしいよ。莉子さんが薬を使って義兄のベッドに忍び込んだとか。成功したってこと?」
「うわ、最低。四年前に誘拐されて、変なところに売られたって話もあったけど……やっぱりね。」
「早坂家の恥さらしだよ!」
耳をふさぎたくなるような噂話が莉子の耳に飛び込む。彼女は目を固く閉じ、さらに直樹の胸に顔を埋めた。もはや反論する力も気力も残っていなかった。
ホテルの外では、九条直樹の秘書・中山優樹が待機していた。ボスが莉子を抱えて出てくると、すぐに車から降りて駆け寄る。
「九条……」
その一言で、九条直樹の圧倒的な冷気に言葉を飲み込む。莉子を一瞥することもできず、黙って黒のベンツ・マイバッハの後部ドアを開けた。
九条直樹は莉子を丁寧に後部座席へ乗せ、自分も隣に座る。
中山はドアを閉め、運転席へ戻ると、気配を殺して小さく尋ねた。
「九条社長、行き先は……?」
直樹は隣の莉子に視線を向ける。彼女はジャケットをしっかりと体に巻き、小さな声で答えた。
「家に帰りたい。」
「早坂家か?」と直樹が眉を上げる。
莉子は首を横に振る。
「違う。自分の家。私の家に。」
直樹は頷き、莉子は「グランハイツ霞ヶ関」と住所を告げる。中山はすぐにエンジンをかけ、黒のベンツ・マイバッハが静かに発進した。「品川88わ88」のナンバーが夜の空気を切り裂く。
その様子を窓から見ていた雅子は、眉をひそめた。
「おかしいわね。九条直樹って横浜に縁もゆかりもなくて、貧乏だって話だったのに。どうしてあんな高級車に乗ってるのかしら、それもあんなナンバーで?」
客を見送って戻ってきた清佳は、軽く口をとがらせた。
「偽のエンブレムなんじゃない?それかレンタカーとか。そんな実力があるわけないじゃない。」
母が以前調べた通り、九条直樹は横浜出身でもなく、家柄もなし、帰国したばかりで、まともな仕事もない。
清佳にとって、九条直樹はただの貧乏人。そのせいで、あれこれ手を尽くし、自分の身を犠牲にしてまで彼との結婚を避け、西尾家に嫁ごうとしたのだ。
「そうね。」と雅子もすぐに納得し、満足げに微笑んだ。
「莉子はバカね。自分を犠牲にしてまで見栄を張るなんて。おかげで清佳が西尾家に入れるわ。」
そう言って清佳の頬を優しくなでる。清佳は母に寄り添い、穏やかに微笑んだ。そう、彼女の勝ちだったのだ。
車内は静寂に包まれていた。
莉子はシートに寄りかかり、直樹のジャケットをまとっている。目の腫れもだいぶ引き、気持ちも少し落ち着いたようだった。彼女はそっと顔を向け、小さな声で言った。
「今日のこと……ありがとう。」
九条直樹は少し驚いたように指先を止め、彼女を見た。
「俺に礼を言うのか?」
自分が彼女の人生を壊したのに、恨まれるのが当然だと思っていた。
莉子は一瞬、頬を赤らめ、すぐに彼の誤解に気づいた。
「ち、違う……あのことじゃなくて、あなたのせいじゃないから。」
慌てて目を伏せ、ジャケットから漂う清潔な香りに包まれる。今朝の混乱した記憶が断片的によみがえり、耳まで熱くなる。
深呼吸して顔を上げ、真剣なまなざしで言う。
「私が言いたいのは……信じてくれて、味方してくれて、ありがとう。」
早坂家では、誰一人として自分の味方になったことはなかったから。
苦い記憶が心の奥底から溢れ出す。四年前の、あの冷たい雨の夜。清佳とともに誘拐され、一人一億円の身代金を要求された。あの日は自分の誕生日、成人式だった。
家族の助けをどれほど待ち望んだか。しかし、待っていたのは冷たい現実。
「お嬢様を先に解放してください。」
「もう一人は?」
「金が足りないし、必要ないので、どうぞご自由に。」
一億円など、早坂家にとっては大した額ではない。それでも、彼らは迷いなく自分を切り捨てた。自分は「始末」され、海へと投げ込まれ、四年間も行方知れずとなったのだ――
見捨てられることに、もう慣れてしまった。
そのとき、九条直樹の低く確かな声が静寂を破る。
「俺は君を妻に迎えると約束した。だから、守るのは当然だ。」
莉子の胸に、今まで感じたことのない温かさが広がる。長年冷え切っていた心が、彼の言葉で少しずつ溶けていく。直樹の深い瞳を見つめ、思わず口をついて出た。
「じゃあ……今すぐ婚姻届、出しに行こう。」