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第4話 新婚の発表と彼のもう一つの顔

中山優樹が「追い出される」ようにして部屋を出た後、マンションには新婚の二人だけが残った。九条直樹はキャリーバッグをセカンドベッドルームに運び入れると、振り返って丁寧に尋ねた。


「後でシャワーをお借りしてもいいですか?」


早坂莉子は羽織っていたジャケットをぎゅっと締め直し、うなずいた。


「どうぞ。ただ……私が先に使わせてほしいの。」


朝の出来事の痕跡と混乱を一刻も早く洗い流したかった。その場面を思い出しただけで、耳の先がほんのり桜色に染まる。


九条直樹は彼女の小さく愛らしい耳元に目をやり、ほんのわずかに目を細めた。紳士的にうなずいて言う。


「もちろん。ここはあなたの家ですから、お好きなように。終わったら知らせてください。」


その余裕ある態度がかえって早坂莉子を一層気まずい気持ちにさせ、まるで驚いた子うさぎのようにコクリとうなずくと、すぐさま主寝室へと逃げ込んだ。「カチャリ」と鍵をかける音が響く。


鍵の音を聞きながら、九条直樹は少しだけ眉を上げ、意味深に口元をゆるめた。セカンドベッドルームに戻ると、婚姻届の受理証明書を取り出し、その写真を撮って【九条家ファミリーグループ】のチャットに送信した。


[直樹]:結婚しました。


メッセージが送られるや否や、グループは大騒ぎとなった。


[えっ、本当に入籍したの?!]

[まさか、そんな日が来るなんて!]

[やっと目が覚めたのね、うちの孫!]

[重要なのは曾孫よ!曾孫を抱きたい!]

[え、この子って早坂家の長女じゃなくて、莉子の方?]

[どっちでもいいじゃない。うちの孫のお嫁さん、なんて可愛いの!直樹が元気なお嫁さんを迎えられたのはご先祖様のおかげよ。]

[お嫁さん、美人すぎ!直樹、あなたじゃ釣り合わないかも!]

[息子よ、できるだけ早くお嫁さんを家に連れて来なさい!]


九条直樹はグループのざわつきを気にすることなく、スマートフォンを横に置いた。手際よく荷物を整理し、ノートパソコンを取り出す。早坂莉子がシャワーを使い終わる頃を見計らい、ちょうど30分後に予定されていた大事な国際会議の準備を始めた。パソコンを持って、隣の書斎へと向かう。


温かなシャワーに包まれ、少しずつ疲れや気まずさも和らいでいく。早坂莉子はバスローブをまとい鏡の前に立つと、首元の赤い痕を見て頬をさらに赤らめた。


深呼吸してから、引き出しの奥にしまっていた、ほとんど市場に出回らない高級な傷跡治療クリームを慎重に塗る。髪を乾かし、露出の少ない部屋着に着替えたところで、ようやく次の部屋のドアをノックする勇気が出た。


「コンコン……」


返事はない。


「直樹?いる?お風呂、空きましたよ。」


ドア越しに呼びかけても返事はなく、そっとドアを押し開けると、部屋には誰もいない。だが、荷物はすでに片付けられていた。


どこにいるんだろう?莉子が不思議に思っていると、書斎から低く落ち着いた男性の声が聞こえてきた。まるでチェロのような響きのある声で、流暢な英語を話している。そこには全てを掌握しているような余裕と、生まれつきの気品が漂っていた。


「……半導体の原材料は国内の重要な課題です。第一段階の投資は100億円。詳細はそちらで詰めてください。」


莉子には、彼が何百億もの国際ビジネスを指揮しているとは知る由もない。彼女の目には「貧乏」な新婚夫が、ただ普通の仕事をしているようにしか映らなかった。彼女は気にせず、書斎のドアをノックした。


「コンコン!」


中では、九条直樹が静かに視線を上げ、会議の参加者たちに手で「少し待って」と合図してから、マイクを切った。


「どうぞ。」


莉子はおそるおそるドアを開ける。シャワーを浴びたばかりで、肌はみずみずしく、髪もまだ少し濡れている。澄んだ瞳で直樹を見つめて言った。


「直樹、お風呂空きましたよ。」


九条直樹はデスクの後ろで静かに座っていた。いつの間にか、完璧に仕立てられたダークスーツに身を包み、広い肩と細い腰が一層際立っている。黒いシャツの襟元も袖口もピシッと整えられ、その冷ややかな白い肌がさらに気高く、まるで高嶺の花のようだ。


強烈なオーラと美しさに、莉子は一瞬目を奪われた。まさか自分が“隠れ大富豪”を拾ったんじゃ……と、ふと馬鹿げた想像が頭をよぎる。


デスクのパソコン画面や、あまりにも“ビジネス感”の強い装いを見て、ようやく莉子は気づいた。


あ、彼にもちゃんと仕事があるんだ――。


ちょっと気まずそうにおそるおそる聞く。


「……会議中だった?邪魔しちゃったかな?」


“怒られてないかな、上司に……”と心配になる。


「大丈夫です。」九条直樹の声は意外なほど穏やかで、どこか優しさも感じられた。マイクは切ったが、会議自体は退出していない。


画面の向こう側では重役たちが顔を見合わせて唖然としていた――プライベートのことで会議を中断する直樹を見るのは初めてだったからだ。


さらに驚くべきは、普段は近寄りがたい彼の鋭い雰囲気が、ドアを開けた途端にすっと消え、今まで見たこともないような穏やかな表情を浮かべていたことだった。


九条直樹は何事もなかったかのようにパソコンを閉じる。


「少し用事を済ませてから行きます。」


「うん、わかった。」莉子はうなずいて、書斎を出る。


ドアが閉まった瞬間、九条直樹の表情は一変し、パソコンを再び開いていつもの冷静なトーンで言った。


「会議を続けましょう。」


重役たちは沈黙したまま心の中で叫んでいた――

(さっきのは一体誰だったんだ?!この切り替えの早さ、怖すぎる……!)


莉子は特に気にすることもなく、書斎が使われているため主寝室に隣接する小さなバルコニーへ向かった。そこは、彼女が心を落ち着けるために作った、日差しあふれるワークスペースだった。


莉子はジュエリーデザイナーである。四年前、誘拐事件で家族に見捨てられ、“処分”されて海に投げ込まれたが、幸運にも海外で独り暮らしの松本老人に救われた。老人は生涯ジュエリーデザインに情熱を注いだ人で、子どもがいなかった。莉子の才能と努力に感心し、全てを教えてくれた。


感謝と本当の情熱から、帰国後は日本屈指のジュエリーブランド・Tasakiに就職した。


結婚休暇で仕事がたまっていた彼女は、急いで遅れを取り戻そうとしていた。一度デザインに集中し始めると、周囲の音も気にならない。直樹が会議を終えて主寝室に入り、そのままシャワーを浴びている間も、水音さえ全く耳に入らなかった。

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