デザイン案を仕上げた九条莉子は、目の疲れをほぐしながら大きくあくびをした。毎晩少なくとも一時間は仕事するのが習慣だが、今日はあまりにも色々なことがあり、心身ともにぐったりしていた。こめかみを揉みながら、何かやり残したことがないか思い返していると、バスルームのドアが「カチャリ」と音を立てて開いた。
莉子は反射的に振り返った。
湯気が立ちこめる中、九条直樹が現れた。腰にバスタオル一枚だけを巻き、広い肩と引き締まったウエスト、無駄のない筋肉のラインがあらわになっている。水滴が胸板をつたってバスタオルの中へ消えていく。
あまりの光景に莉子は息を飲み、無意識に唾を飲み込んだ。
「もう仕事は終わった?」直樹は濡れた黒髪をタオルで拭きながら、少し眉を上げて彼女を見た。「バスローブが見当たらなかったから、仕方なくこれで出てきたよ。」低く落ち着いた声に莉子は我に返った。
自分の態度を思い出し、莉子の頬は一気に赤く染まった。「ご、ごめんなさい!私が準備してなくて……明日ちゃんと買ってきます!」慌てて視線を窓の外にそらすが、耳まで真っ赤になっているのは隠せない。
直樹は口元にかすかな笑みを浮かべ、彼女の反応が新鮮だった。「気にしなくていいよ。手配しておくから。それより、集中してたみたいだから邪魔しなかった。もう遅いし、ゆっくり休んで。おやすみ。」彼女の困惑を察して、優しく部屋を出て行った。
莉子はようやく大きく息をつき、火照った顔を両手で覆いながらベッドに飛び込んだ。うそ……あんなに見つめてしまうなんて!普段、男性とこんなに近くで接することはめったにない。ましてや、あんな出来事の後では……。
朝の出来事が断片的に頭をよぎり、さっきよりもさらに動揺した。心に決める——早くゲスト用バスルームに給湯器をつけなきゃ!毎日こんな刺激を受けていたら、身が持たない……。
「もう寝た?」ドアをノックする音が響く。
莉子は裸足のまま慌ててドアを開けた。直樹はすでに黒いルームウェアに着替えていた。「冷蔵庫に牛乳があったから、温めてきた。眠りやすくなるよ。」温かいグラスを手渡しながら、彼の視線が彼女の素足に止まる。「裸足は冷えるから、気をつけて。」
「ありがとう……」莉子はグラスを受け取り、手のひらからじんわりと温もりが広がる。指摘されて、思わず足の指を縮めた。「今度から気をつけます。」
ドアを閉め、温かな牛乳を抱えていると、久しぶりに心の奥がふんわりと温かくなった。こんな風に細やかに気遣ってくれる人は、もう長い間いなかった。牛乳を飲み干すと、優しい温かさが全身に広がった。
洗面所でふとスマホを見ると、画面には早坂国雄と早坂雅子からの非難と文句が大量に届いていた。莉子はうんざりして髪をかきあげ、思い切って電源を切った——今夜は休もう。明日は明日の風が吹く。
一方、もう一つの部屋では、まだ灯りが消えていない。
直樹のスマホに、中山優樹からのメッセージが次々と届いていた。
「社長、奥様を新居にお連れしませんか?今のワンルームじゃ奥様がかわいそうですよ!」
「九条家のご婦人も奥様に早くお会いしたいそうです……」
「早坂家でつらい思いをされた奥様に、社長が優しくすれば、きっと奥様も心を開いてくれると思います!」
優樹は方向転換し、さらにメッセージを送る。
直樹は淡々と返信した。「既婚だ。」
優樹は一瞬戸惑う。「?」
すぐにまたメッセージが飛ぶ。「これからは“奥様”と呼ぶように。」
優樹はすぐに理解し、今までの「早坂さん」を全て「奥様」に訂正して再送した。「奥様!九条家のご婦人の件ですが……」
「こちらで対処する。君は自分の仕事をしっかり頼む。」直樹が返すと、ようやく優樹は大人しくなった。
「それと社長、ホテルの件ですが、監視カメラの映像が一部消されていましたが、技術者が復元しました……薬を盛ったのは早坂清佳でした。」
直樹の目に冷たい光がよぎる。自分を陥れようと?
「早坂家は最近、南横浜リゾートのプロジェクトを狙っているとか?」と直樹が尋ねる。
「はい、社長。こちらで何か……?」優樹も察した。
「必要ない。」直樹は意味深な笑みを浮かべる。「好きにさせておけばいい。」
こんな小さなプロジェクト、わざわざ手を下すまでもない。ただ、早坂家の手で台無しにされた時の代償は、決して小さくないだろう。
莉子は規則正しい生活を送っているため、翌朝も早く目を覚ました。リビングは静かで、直樹はまだ寝ているようだった。彼女はスポーツウェアに着替えてジョギングに出かけ、帰り道で評判の良い小籠包を買って帰る。
ドアを開けると、部屋中に食欲をそそる香りが広がっていた。驚いて見ると、直樹が二人分の熱々のうどんをテーブルに並べていた。
「おかえり。」直樹は彼女の手に朝食の袋があるのに気付き、少し微笑む。「どうやら、考えることが一緒だったみたいだね。」
朝の光の中、莉子は淡いグレーのスポーツウェアに高いポニーテール、額にうっすら汗をにじませ、素顔のままでも昨日よりずっと生き生きとした雰囲気をまとっていた。
「料理、できるんだ?」莉子は意外そうに聞いた。直樹の品のある雰囲気と、キッチンがどうしても結び付かなかったのだ。
「簡単なものだけね。」直樹は彼女に座るよう手で示す。「食べてみる?」
莉子は笑顔で小籠包もテーブルに並べ、直樹にひとつ手渡した。「ここの小籠包、ほんとに美味しいの!引っ越してきてから、ほぼ毎日買ってるんだ。」彼女も麺を一口食べて、目を輝かせた。「美味しい!直樹さん、料理上手なんだね!私もいくつか得意料理があるから、今度作ってあげる!」