九条直樹の声は落ち着いていて、どこか安心感を与えてくれる力強さがあった。
「早坂家は確かに穏やかな場所じゃない。でも、君と結婚できて本当に良かったと思っているよ。」
九条莉子はどう返事をすればいいのか分からず、そっと彼を見上げた。彼は静かに食事を続けており、横顔の輪郭はまるで彫刻のように整っていて、日常のささいな仕草ですら、どこか凛とした上品さが漂っていた。
ふと、「目の保養」という言葉が頭をよぎる。
ぼんやりと彼に見とれていると、突然、直樹が顔を上げ、莉子の視線とぴたりと重なった。
心臓がどきりと跳ね、慌てて視線をそらす。頬が熱くなり、恥ずかしさでその場から消えてしまいたくなる。
そんな莉子の小さな反応を、直樹はしっかりと見逃さず、目の奥にわずかな笑みを浮かべた。
彼女といると、思いがけない面白さがある——そう感じていた。
夕食が終わると、莉子の前に新たな悩みが現れた。
自宅のバスルームにはシャワーしかなく、今の足では立って浴びるのが難しい。しかし、何日もお風呂に入らずにいるなんて、絶対に我慢できない。
浴槽を急きょ設置しようか悩んでいたその時、チャイムが鳴った。
中山優樹が二人の作業員と一緒に、新品のバスタブを運んで現れた。
「九条さん、足の具合はいかがですか? 旦那様からお怪我のことを聞いて、急いでバスタブを用意しました。」
中山はうっかり「旦那様」と言いかけて言葉を飲み込み、ちょうどその時、直樹がキッチンから出てきた。手にはまだ水滴が残っている。
気取らない部屋着に、袖を無造作にまくり上げているその姿は、普段のビジネスモードとはまるで別人だ。
中山は驚きのあまり目を見開いた——あの家事とは無縁のはずの社長が、まさか皿洗いまでしているのか?
漂う料理の匂いがそれを雄弁に物語っていた。中山の顔には「信じられない」と書いてある。
「本当にありがとうございます。この数日、何かとご迷惑をおかけして…」莉子はソファに座ったまま感謝を伝えたが、中山の視線はずっと直樹に向けられていた。
「いえいえ、当然のことです。」中山は直樹の無表情なまなざしに慌てて顔を戻し、少しぎこちなく微笑んだ。社長がここまでやるなんて、まるでスクープだ。
中山と作業員は手際よく浴室にバスタブを設置し、すぐに気を利かせて帰っていった。
「ありがとう。まさかここまで気を配ってくれるとは思わなかった。」莉子は改めて礼を言った。自分が困っていることを、彼はすでに察して手を打ってくれていたのだ。
「気にしないで。何かあれば、いつでも呼んで。」直樹はそう言うと、浴室に入りお湯の温度を調整し始めた。
「抱えていこうか?」と自然に尋ねる。
彼の世話にはもう慣れている莉子は、そっと腕を伸ばして彼の首に手を回した。
洗面道具もすでに彼が手の届く場所に用意している。新品のバスタブを前にしながらも、莉子は思わず彼のシャツの袖を掴んだ。
お湯に入ったあとで服を脱げばいいとしても、出るときはどうしたらいい? 彼に体を拭いてもらったり、服を着せてもらうのだろうか? 想像しただけで頬がまた熱くなる。
「その…」ためらいがちに声をかける。「少し…服を手伝ってもらえますか? それと、あとで…」 最後まで言いきれず、顔がますます赤くなる。
直樹は彼女を抱きかかえながら、腕の中の温度が上がっていくのをはっきり感じていた。
「分かった。心配しないで、できるだけ気をつけるよ。」低い声で静かに応じる。
彼女をベッドの縁にそっと下ろし、緊張しているのに気づくと、寝室のメインライトを消した。
カーテンは閉めていないため、淡い月明かりが部屋に差し込み、室内は優しい薄明かりに包まれる。
直樹は背を向けた。莉子は大きく深呼吸して、ゆっくりとボタンを外していく。動きはぎこちなく、彼の前だとどうしても緊張してしまう。最後の一枚を脱ぎ終え、シーツをぎゅっと握りしめ、まつげが小さく震える。
「…できました。」
直樹は振り返り、やさしく彼女を抱き上げた。薄い衣服越しに伝わる肌のぬくもりに、二人とも思わず体がこわばる。指先が時折彼女の肌に触れるたび、莉子の小さな震えが伝わってくる。
最大限に自制していても、その一瞬一瞬に胸がざわつく。莉子は呼吸を止めて、彼の腕の中で小さく身を寄せていた。
たった数歩の距離が、まるで永遠のように感じられる。
ようやく体が温かいお湯に包まれたとき、莉子はほっと息をつき、張り詰めていた心がふっと緩んだ。
「すぐそばにいるから、何かあったら呼んで。」直樹はそう言い、浴室の電気をつけてから静かにドアを閉めた。
莉子は両手で火照る頬をそっと撫でた。温かいお湯に包まれる心地よさに、思わずため息がこぼれる。
湯気に包まれると、思考は次第に浮遊し始める。直樹が近くにいるだけで、不思議なスイッチが入ったみたいに、いろいろな感情が湧き上がってくる。首を振って自分に言い聞かせる。私たちは夫婦なのだから、これからこんな時間も増えるはず、慣れていけばいい。
リラックスすると、たまっていた疲れも流れていくようだった。
正直に言うと、中山が選んだバスタブはサイズもデザインも絶妙で、足を怪我していても無理なく使える。
ぼんやりしているうちに、ふとアイデアがひらめいた。長い間悩んでいた「十二の花の女神」シリーズ、特にザクロの花のデザインに、思いがけず突破口が見えたのだ。
急いで体を洗い終え、再び直樹に抱き上げられたとき、心はもうずいぶん落ち着いていた。
髪を乾かすと、莉子はすぐにタブレットを抱えてデザインのスケッチを始めた。
直樹は洗面に入って身支度を整え始める。莉子は創作に夢中で、彼の気配にも気付かない。
浴室には彼女が入浴したあとのやわらかな花の香りと、温かく湿った空気、そしてさっきまで指先に残っていた柔らかな感触とぬくもりが、無言のまま彼の胸をかき立てる。冷たいシャワーを浴びて、ようやくその高ぶる気持ちを落ち着かせる。
ふと外を見ると、夢中で仕事に打ち込む彼女の横顔が見える。直樹のまなざしは深く静かだ。
彼女と同じ部屋で過ごす時間は、まるで甘美な試練のようだった。
莉子は本当は会社に行きたかったが、佐々木部長が怪我を知ると、気遣って自宅療養を勧め、コムデギャルソン担当者の連絡先まで教えてくれた。相手も親切で、締め切りさえ守れば問題ないと言ってくれた。
こうして、莉子は心置きなく在宅勤務モードに。直樹の書斎も隣にあり、彼はときどき温かいお茶を運んでくれる。
申し訳なさを感じる莉子。怪我をしてからというもの、生活のすべてを直樹に頼りきりだ。生まれながらの上品さが、家事とは縁遠いように思えてならない。悩んだ末、家事代行サービスに連絡し、手伝いをお願いすることにした。
会社の対応は早く、午後には面接のためスタッフが自宅にやって来た。
莉子は中山からもらった杖をつきながら、足を引きずって玄関へ向かう。ドアを開けると、思わず驚きの表情を浮かべる。