九条莉子は、もっと年配のベテラン女性が来るものだと思い込んでいたが、玄関のドアを開けて少し驚いた。そこに立っていたのは、二十歳そこそこの若い女性で、見た目も自分と同じくらいの年齢に思えた。
「こんにちは。吉田麻衣と申します。家事代行サービスの会社から面接に参りました。ご依頼主様でいらっしゃいますか?」
麻衣は半袖のオーバーオールで、笑顔になると両頬にえくぼが浮かぶ、愛らしい雰囲気だった。
「はい、どうぞお入りください。」莉子はドアを開けて招き入れた。
麻衣は室内のインテリアをさりげなく観察した。グランドハイツ霞ヶ関は横浜市でも有名な高級マンション。この仕事に応募したのも、条件の良さに惹かれてのことだ。目の前の女性は自分より若く見えるのに、このマンションに住んでいるなんて、きっと裕福な家の人なのだろう。ひと月働いてみて、何かチャンスがあれば……と思っていた。
莉子はお茶を淹れながら、麻衣の様子を観察した。頭の回転が早そうだし、同年代なら会話もしやすい。きっと働きやすいだろうと感じた。
「私、九条莉子。これからあなたの雇い主になります。待遇の話は会社から聞いていると思います。仕事内容は主に三食の用意と掃除。朝8時から夕方5時まで、土日はお休みで、それ以外の時間は自由に使ってもらって大丈夫です。」
麻衣はにっこりと笑い、「お任せください。家事の経験は豊富ですし、きっとご満足いただけると思います」と自信ありげに答えた。
話はスムーズに進み、翌日から仕事を始めることになった。
麻衣を玄関まで見送ろうとしたその時、書斎のドアが開いた。
九条直樹が水の入ったグラスを片手に現れた。シャツの袖をラフにまくり、スラックス姿がすらりとしている。全身からどこか冷たく近寄りがたい雰囲気が漂っていた。リビングに見知らぬ女性がいるのを見て、眉をひそめる。
「こちら、家事をお願いする吉田麻衣さん。これから食事や掃除をお願いするわ。食事の時間にだけ来てもらうから、仕事の邪魔にはならないと思う。」莉子はとっさに説明した。本当は夜に話すつもりだったのだ。
直樹の眉はさらに深く寄った。家政婦を雇うなんて、自分の世話が足りないとでも思っているのか?
「あなたも忙しいし、私も足を怪我してしまって……」莉子は彼が黙ったままなので、気を悪くしたのかと慌てて補足した。
「君が決めたんなら、それでいい。」直樹はそれだけ言うと、麻衣を一瞥もしないまま水を注いで書斎へ戻った。
その様子に麻衣は目を丸くした。今まであんなに雰囲気のある男性を見たことがない。あの顔は、今どきのアイドルよりもずっとカッコいい!
「さっきの方……ご主人様ですか?」麻衣は我慢できずに聞いてしまった。内心、こっそり写真でも撮っておけばよかったと悔しがっている。
「違うわ。」莉子は少し間を置いて答えた。「夫よ。」
「そうなんですね……」麻衣はがっかりした表情を隠せなかった。ちらりと莉子を見てから、閉まった書斎のドアに目をやり、心の中でつぶやく。なーんだ、裕福な家の娘じゃなくて、旦那さんに養われて住んでるのか。しかも、あの冷たい態度、夫婦仲もあまり良さそうに見えないし……自分もまだ若いし、もしかしたらチャンスがあるかも?
「では、また明日、時間通りに伺います。」麻衣はにこやかに挨拶して帰っていった。
麻衣を見送った後、莉子は杖をついて書斎のドアをノックした。
「どうぞ。」静かで冷たい声が返ってくる。
ドアを開けると、直樹がちょうど視線を上げた。目が合った瞬間、その冷たさが少し柔らいだ気がした。
「さっきのこと、事前に相談できなくてごめんなさい。あなたが忙しそうだったから、夜に話そうと思ってたんだけど、家事会社の対応が早くて……」
直樹は椅子にもたれ、長い指でカップの取っ手を軽く持ったまま、莉子の話を静かに聞いていた。
「普段から、誰に対してもそんなに丁寧なのか?」ふいに直樹が尋ねる。
「えっ?」
パジャマ姿で、ドア枠にもたれ杖を持ったまま、頭の上の髪がぴょこんと跳ねている。すっぴんで、どこかぼんやりした顔だった。
直樹は思わず考える。こんなに控えめで素直だと、外では損ばかりしているんじゃないか。だが、自分がいる限り、もう誰にも傷つけさせない。
「ううん……癖なの。」莉子はどう答えればいいか分からずに、ぽつりと言った。
子供のころから早坂家であまり大事にされず、いつも周りの顔色をうかがってきた。早坂雅子や国雄に嫌われないようにと、無意識に人に丁寧に接するようになってしまった。おじいさまと松本先生以外、心を許せる人も少なかった。
直樹はふいに立ち上がり、莉子の方へ歩み寄ると、そっと屈みこんだ。莉子の頭の上に、彼の温かな大きな手がぽんと乗る。
「これからは一緒に暮らすんだから、毎日“ありがとう”や“ごめんなさい”ばかり言うのはやめてくれ。」直樹は莉子のほっぺを軽くつまみながら、まるで小さなウサギをからかうような口調で優しく言った。「莉子、俺たちは夫婦だよ。もっと楽にしてくれていい。」
ウサギみたいに見上げる莉子は、素直にうなずく。「うん、じゃあこれからは……あなたには遠慮しない。」
莉子が部屋へ戻ってドアを閉めるのを見送りながら、直樹の目元にうっすらと笑みが浮かんだ。
その時、スマートフォンの画面が光り、九条ご老夫人からメッセージが届いた。莉子を早く家に連れて帰るようにとの催促だった。
「お嫁さんが怪我しているので、もう少し良くなってから連れて帰ります。」
すると、ご老夫人からすぐに返事が来た。
「何ですって?お嫁さんが怪我?どこを怪我したの?ひどくないの?ちゃんと病院に行ったの?女の子は体が大事なんだから、跡が残ったら大変よ!明日、最高のお医者さんを呼ぶから!」
直樹はため息をつきつつ返信した。
「大丈夫です。ただの捻挫なので、少し休めば治ります。僕がちゃんと見てますから、ご心配なく。」
一方その頃、九条家の本家では、ご老夫人がぷんぷんしながらスマホを置いた。
「まったく、あの子ったら!せっかく用意した新居に住まないし、嫁も連れて帰らない。今度は怪我までさせて……心配が絶えないわ!明日、滋養のあるものをたくさん持っていって、お嫁さんにきちんと栄養をつけてもらわなくちゃ!」
ソファで新聞を読んでいた祖父を見つけると、さらに苛立ちをあらわにした。
「あなたも何か考えてくれないの?私は一日も早くひ孫の顔が見たいのに!」
祖父は穏やかに笑った。
「子供や孫には子供や孫の人生があるさ。あまり口を出しすぎても良くないよ。」
「あなたは本当にのん気ね!家で子供がいないのは直樹だけなのよ?私が毎日せっつかなければ、結婚だってしてなかったはず!心配しないわけがないじゃない!」
ご老夫人はやきもきしていた。あの直樹の性格では、せっかく嫁をもらっても、ほったらかしにしそうで心配なのだ。
その時、そばで家政婦がぽつりと提案した。
「ご子息はお嫁さんを連れてきませんでしたけど、ご老夫人ご自身が様子を見に行かれるのはいかがですか?」
ご老夫人の目がぱっと輝いた。そうだ、自分からふたりの様子を見に行けばいい!でも、急に押しかけても逆効果かもしれない……じっくりタイミングを見て考えよう、と心の中で計画を立て始めた。