前夜の経験もあり、九条莉子はもう最初のようにお風呂で緊張することはなかった。あたたかい湯船に浸かりながらショッピングアプリを眺めていると、ふと九条直樹にプレゼントを贈ろうと思い立つ。
何しろ彼は名目上とはいえ夫であり、この数日間はとても丁寧に世話をしてくれている。そして中山優樹も何かと手を貸してくれた。九条直樹の友人とはいえ、何度も頼ってばかりで申し訳なく感じていた。
直樹は普段あまり香水を使わないようだし、悩んだ末、シンプルで上品な黒のストライプ柄の高級ブランドのネクタイを選んだ。これならきっと外さないだろう。優樹には、以前彼のバッグにアニメキャラのキーホルダーがついていたのを思い出し、同じシリーズのフィギュアを注文した。
ちょうど買い物画面を閉じたところで、スマートフォンが鳴った。表示された名前は早坂雅子。
莉子は眉をひそめたが、結局電話に出た。
「莉子、最近忙しい?直樹とはうまくやってる?」雅子の声は、上辺だけの丁寧さがにじむ。
「忙しいです。用件だけ言ってください。なければ切ります。」莉子は時間を無駄にしたくなかった。
「待って!」雅子が慌てて声を和らげる。「四年前のこと、あなたが私たちを恨むのも分かるわ。でも、あのとき早坂家は大きなトラブルに巻き込まれて、仕方がなかったの。あなたのお姉さんは体が弱くて、あの人たちの手に渡ったら耐えられなかったはずよ。」家族の情を持ち出し、莉子の心を揺さぶろうとする。
「私もお父さんも、ずっとあなたのことを気にかけていたのよ。でもなかなか見つけられなかった……。戻ってきてからは、それなりに大事にしているでしょう?結婚式でもあなたのことは責めていないし、お姉さんも許してくれたわ。あの日、お母さんは感情的になってきついことを言ったけど、気にしないで。」雅子の声は横浜の上流社会で評判の優雅さそのものだが、莉子の耳には空虚に響くだけだった。
四年前、電話越しに雅子が冷たく発した「清佳を助けて」という三文字は、今も忘れられない。結婚式当日、清佳が泣き叫びながら自殺を図ろうとしたとき、雅子が見せたあの鬼のような表情も――。
「お母さん、本当に私を家族として見ていたの?」胸につかえていた大きな石が、少しだけ軽くなった気がした。もうどうでもいい、むしろはっきり見える。早坂国雄と雅子にとって、娘は清佳だけ。九条莉子は、最初から部外者だった。
「何てこと言うの。小さい頃から一緒にいなかったから、お姉さんのことを気にかけるのは仕方がないわ。お父さんも、口は悪いけど本当はあなたのことを大切に思っているのよ。」雅子は笑みを作り、あくまで取り繕う。
「決まりね。戻ってこないなら、お父さんと一緒に直接会いに行くしかないわね。」莉子の返事も待たず、一方的に電話を切った。どうせ従うしかないと信じているのだろう。
莉子は携帯を強く握りしめ、目を閉じた。最後のひと言は、明らかな脅しだ。ここまで関係が壊れたのに、早坂家はなぜ今さら自分に執着するのか分からなかった。
二ヶ月前、早坂家は祖父の遺言があると涙ながらに莉子を「見つけ」出した。四年前に誘拐された当時、祖父は重病だった。助け出された後は記憶を失い、一年後にすべて思い出したときには、祖父はすでにこの世にいなかった。
悲しみの中、莉子は海城に残り、松本氏の孫娘として暮らすことを選んだ。もし早坂家があの理由で迎えに来なければ、横浜に戻ることはなかっただろう。
だが早坂家に戻ってから、雅子は遺言の話を一切しなくなり、莉子をさまざまな名家の集まりに連れ回すだけ。清佳もやけに優しく接してきた。もしあの結婚式の騒動がなければ、本気で家族だと信じてしまったかもしれない。
皮肉なものだ。四年前、命さえ顧みなかった人たちが、今さら家族のふりをするなんて。
早坂家とは、もう二度と関わりたくない。この不幸な血縁さえなければ、一生接点を持たずに済んだのに。莉子は気持ちを振り払い、雅子に住所を知られていないことを思い出す。横浜は広いし、そう簡単には見つからない。どうしても逃げられなくなったら、そのとき考えればいい。
翌朝、莉子が起きると、吉田麻衣がやって来た。
昨日とは別人のように、完璧なメイクにキャミソールのミニワンピ、黒いロングソックスで、抜群のスタイルを強調している。その姿に、莉子はどこか違和感を覚えた。
「莉子さん、朝早くてお腹が空くかと思って、早めに来たんです。」約束は八時だったが、昨日会ったあの男性にどうしてもまた会いたくて、気合を入れて早朝から支度してきたのだ。
「ありがとう。食材は冷蔵庫にあるから、好きに使って。私は特にこだわりないから。」莉子は特に気にも留めなかった。
麻衣の視線は書斎の方をちらり。「ご主人は今日はご在宅じゃないんですか?」
「うん、朝から用事があって出かけたよ。」莉子は水を飲みながら答える。
麻衣は落胆を隠せず、それでも手際よく朝食を作り、更に和風の焼き菓子を二つ焼き上げた。
「莉子さん、冷蔵庫に生クリームがあったので、小さな焼き菓子を作ってみました。よかったら味見してみてください。」にこやかに差し出しつつ、心の中では勝算を弾いている。麻衣はお菓子作りに自信があり、店のより美味しいと思っている。
男の心を掴むには、まず胃袋から——こんな手は慣れっこだ。
莉子が一口食べると、目が輝いた。「すごくおいしい。ありがとう。」甘いもの好きだが、朝からだと少し重い気もした。
「気に入ってもらえて何よりです!」麻衣はさらに笑顔を深め、わざとらしくたずねた。「そういえば、ご主人は普段どんな味がお好きですか?これから買い物は私が担当しますし、お二人の好みに合わせて準備したいので。」
莉子は少し考えてから答えた。「あまり辛いものは食べないみたい。ほかは……夜に聞いておくね。」この数日、直樹の料理はどれも薄味だったので、あまり濃い味は好まないのだろう。その他は思い当たらなかった。
麻衣は心の中で軽蔑を隠せない。自分の夫の好みも分からないなんて。こんな素敵な人には、細やかで美しい自分こそふさわしいはず。
この女、顔以外にどこがいいの?あの洗練された男性が彼女のどこに惹かれたのか理解できない。
しかし表情は崩さず、やさしく微笑んだまま。「分かりました。明日教えていただければ十分です。」
後片付けをわざとゆっくり進め、九時まで粘ったが、結局直樹は帰ってこなかった。麻衣はがっかりしながら部屋を出た。
ちょうどエレベーターの前で、だらしない口調で誰かが怒鳴る声が聞こえた。「さっさと動け!莉子さんの邪魔したら許さないぞ!」
莉子さん?もしかして九条莉子のこと?
麻衣はすぐにスマホを取り出し、金髪で二人の作業員に指示している若い男を素早く撮影した。エレベーターのドアが閉まる直前、すかさず送信ボタンを押した。