九条莉子はソファに身を預け、のんびりとドラマを見ていた。そこへ九条直樹がドアを開けて入ってくる。彼女のくつろいだ様子を一目で見て取った。
「おかえり。冷蔵庫に和菓子を取っておいたから、よかったら食べてみて。なかなか美味しかったよ」と莉子が声をかける。
直樹は相変わらずスーツ姿で、外のひんやりとした空気をまとっている。表情はいつものようにクールで、どこか距離感があった。
彼の視線がリビングを横切り、テーブルの上に積まれた贈り物に気づいた。見れば、佐藤竜也が来ていたことはすぐに分かった。まあ、空気は読めているようだ。
莉子は立ち上がろうとしたが、動きが急だったせいでテーブルにぶつかり、思わず声を漏らした。
「怪我してるんだから、無理するなよ」と直樹はため息混じりに言い、莉子の腰に手を回して、そっとソファに戻した。
莉子は彼の気遣いにすっかり慣れていて、素直に座り直して直樹が来るのを待った。
「そうだ、今日ね、佐藤竜也が来たの。数日前にぶつかったあの金髪の人。こんなにたくさん差し入れを持ってきてくれて、見てみて。何か必要なものある?」と言いながらテーブルの贈り物を指した。「まあ、どれも栄養ドリンクとかで、あなたには必要なさそうだけど。」
「それから、これ!」と思い出したように、横にあった宅配の箱を手に取った。「昨日注文したやつ、今日届いたの。あなたに似合いそうなネクタイを選んでみたんだけど、どうかな?初めて人にプレゼントするから、気に入ってくれるといいな。」
直樹は莉子の手にあるネクタイを見つめ、そして期待に満ちた彼女の瞳を見た。その静かな目元にふっと微笑みが浮かび、口元がわずかに緩む。
「せっかくだから、君が結んでくれないか?」
そう言って、突然身を乗り出してきた。
ひんやりとした香りに包まれ、莉子の心臓はドキリと跳ねた。少し頬が熱くなる。気を取り直してネクタイを取り出すと、直樹もちょうど白いシャツを着ていて、よく似合っていた。彼は莉子に合わせて身をかがめ、腕をソファの肘掛けについた。
この体勢は、どこか親密な空気を生んでいた。
莉子は余計なことを考えないようにしながらネクタイを結ぼうとしたが、やはり慣れていない手つきになってしまう。
その時、直樹の長い指がそっと彼女の手に重なった。
「難しい?教えてあげるよ」と低く落ち着いた声が耳元に響いた。
莉子の指先がわずかに震え、されるがままに直樹の手に導かれて、ゆっくりとネクタイを結んでいった。シンプルで洗練されたデザインは直樹によく似合う。もともと彼の整った顔立ちとスタイルは、モデルよりも魅力的だった。
完璧なフェイスラインが間近にあり、莉子は思わず見とれて、ゴクリと喉を鳴らしてしまった。
「いいセンスだね。とても気に入ったよ」と直樹は微笑み、低く響く声でそう言った。
「気に入ってもらえてよかった」と莉子は小さく咳払いをして視線を外し、もうひとつの小箱を取り出した。「これは中山くんへのプレゼント。このところ色々手伝ってくれてたから、渡してもらえる?」
その言葉を聞いた途端、直樹の笑みは一気に消えた。部屋の空気がひやりとした。
「ああ、分かった」とだけ短く答え、中山くんへの箱にちらりと目をやった。自分のより小さくて、包装も簡素だ。
どこか微妙な不満が、少しだけ和らいだ気がした。
彼の視線はテーブルの和菓子に移った。莉子は怪我をしているし、作ったのは新しく来た家政婦だろう。
直樹は軽く見ただけで、すぐに目をそらす。「甘いものは苦手だ。君が食べな。」
「そうだ!」と莉子は何か思い出し、テーブルの下からメモ帳とペンを取り出して真剣な顔つきになる。「何か苦手なものや食べられないものある?これから一緒に暮らすし、メモしておきたいの。」
彼女の真面目な様子に、直樹は少し心を動かされた。「辛いものは食べないし、甘過ぎるのも苦手。ショウガやニンニクもあまり好きじゃない。」
莉子は丁寧にメモする。甘いものが苦手なところ以外、味の好みが自分と結構似ている……案外お似合いかも?
そんな考えが浮かび、思わず書き損じそうになった。
自分がなぜこんなことを考えているのか――。
それでも、ふと横を見ると、真剣な横顔にまた視線が引き寄せられてしまう。この気持ちは、しょうがないのかもしれない。
毎日、こんなに格好よくて優しくて、しかも自分と正式に夫婦の男性と一緒にいたら、誰でも平常心ではいられないだろう。
しかも、彼はいつも自分を大切にしてくれる。
莉子はしばしぼんやりしつつ、自分でも気づかないうちに心が動いていることを感じていた。まるで心の湖に小さな石が投げ込まれ、静かに波紋が広がっていくようだった。
寝る前、莉子はいつも通り一時間デザイン画を描き、満足してベッドに入った。
一方、書斎では灯りが消えていない。直樹は中山くんから送られてきた資料を見て、眉をひそめていた。
「社長、奥様の過去があんなに辛いものだったなんて……見ていて胸が痛みます!早坂家の人間は本当にひどいです!あの年齢でどうしてそんな目に……?実の娘なのに!」
中山くんが送ってきたのは、九条莉子の過去を調べた詳細な資料だった。
彼女は三歳の頃から早坂家の祖父に育てられ、高校に入る十五歳の時にようやく早坂家に迎えられた。しかし、そこでも父にも母にも愛されず、学校でも孤立し、いじめられても誰も助けてくれなかった。
四年前の誘拐事件では、早坂家は清佳だけを助けることを選んだ。
後に犯人が逮捕され真実が明らかになったが、あの時、身代金を受け取った犯人が莉子に危害を加えたこと、そして父親と母親の冷酷な選択は、紛れもない事実だった。
四年も……奥様は十八歳でひとりで生きてきたなんて、どうやって耐えてきたんでしょう。早坂国雄と雅子は本当に最低です!社長、どうか奥様を大切にしてください!
次々に届くメッセージの文面から、中山くんの怒りがにじんでいた。
直樹は資料を机に投げ出し、目には冷たい怒りが宿っていた。
結婚式の時のことも、彼女自身は追及せず、これまでの痛みも彼には一切語ってこなかった。明るく見える彼女が、こんな裏切りと傷を抱えていたとは思いもしなかった。
早坂家のプロジェクトは、もう取ったのか?
早坂家は、間もなく横浜から消えることになる。
莉子は家で三日間静養し、そのほとんどをデザイン画に集中して過ごした。直樹も日中は外出が多かった。
吉田麻衣は毎日念入りに身なりを整えていたが、直樹にはもう「偶然」会えず、落ち込んでいたが、まだ諦めてはいなかった。
週末、チャンスが訪れる。
出かけようとしていた時、ちょうど直樹が帰宅し、そのまま書斎に入っていった。
麻衣は心の中でガッツポーズをし、すぐさまキッチンでフレッシュジュースを用意した。
さらに洗面所に駆け込み、鏡の前で念入りにメイクとヘアスタイルを直し、できるだけ魅力的に見えるように工夫した。わざと襟元を下げ、胸のラインも強調してみる。
莉子の部屋はドアが閉まっている。麻衣はジュースを手に、甘えた声で書斎のドアをノックした。
「直樹さん、いらっしゃいますか?フレッシュジュースを作ったので、どうぞ。」
腰をくねらせながら、期待に胸をふくらませてドアを開けた。
その瞬間――ドアの隙間から、コップが勢いよく飛んできて、目の前に「ガン!」とぶつかった。
「きゃあ――!」