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第14話 ほのかな嫉妬

九条直樹の視線は莉子の足首に止まった。彼女は杖をついて現れ、腫れもかなり引いて、青あざも薄くなっている。


「もう大丈夫よ、見てて」と莉子は首を振り、足を床につけて二歩ほど歩いてみせた。「歩けるようになったし、ちょっと痛むだけ。気をつければ平気よ。」家のこともほとんど自分でできるようになり、もう家政婦に頼る必要もなさそうだ。


「そうだ、」莉子は顔を上げて言った。「明日会社に行かなきゃいけなくて、自転車はまだ無理そうなの。送ってもらえる?」


明日はコムデギャルソンの最終打ち合わせの日。多少足を痛めていても、絶対に外せない。


「分かった。今夜は用事があって帰れないけど、明日の朝迎えに行くよ」と直樹。


莉子はうなずいたが、彼のプライベートなことはいつも深く聞かない。


お風呂も自分で入れるようになり、”心身ともに解放される”思いで、ゆっくり湯船につかった。


翌朝、莉子は丁寧にメイクをし、品のあるベージュのスーツに身を包み、履きやすいフラットシューズを選んだ。少し迷ったが、念のため杖も持って出かける。


直樹の車はすでにマンションの下に停まっている。いつものマイバッハだ。今日は自分で運転している。黒いスーツに、彼女が贈ったあのネクタイを締めている。


すらりとした指がハンドルに添えられ、時計に朝の光が反射している。陽射しが彼の横顔を際立たせていた。


杖の音を聞きつけて、直樹は車を降り、助手席のドアを開けてくれた。


莉子は助手席か後部座席か少し迷ったが、彼が自然に助手席を開けてくれたので、小さく礼を言って素直に座った。


シートベルトを締めようとしたとき、指先に何か硬いものが触れた。


取り出してみると、それは口紅だった。どうやら誰かがうっかり置き忘れたものらしい。


車内の空気が一瞬凍りつく。莉子は口紅を手にし、どうしていいか分からず、咳払いして直樹を見る。「これ……」


もともと偶然のような結婚。彼に他の女性がいても気にならないと思っていたはずなのに、心の奥底に小さなもやもやが生まれていた。ほんの少し、独占したい気持ちが芽生えたような。


直樹は彼女の手元を見ると、目つきが一瞬鋭くなり、口紅をさっと取り上げて、窓の外のゴミ箱に正確に投げ捨てた。


「君以外、この車に乗せたことはないよ。」静かな口調だが、内心は嵐のようだ。実際、直樹自身は誰も乗せていないが、昨日だけ中山が運転していた。


「なら良かった。」彼の表情は嘘をついているようには見えず、莉子はほっとした。けれど自分がなぜこんなに気にしているのか、戸惑いが残った。私たち、ただの形式だけの夫婦なのに……考えがまとまらず、莉子は車窓の外に視線を向けたまま黙っていた。


直樹は運転しながらも、時々莉子の様子を窺っていた。彼女の気持ちの変化に気づき、内心で考え込む。


タサキのオフィスまでは車で十数分。あっという間に到着した。


莉子は杖をついて車を降りる。アシスタントの藤井あかりがすでに駐車場で待っていて、マイバッハから降りてくる莉子を何度も驚いたように見つめていた。


「莉子さんのご主人がマイバッハに乗ってるなんて…しかも品川88わ88のナンバー!ただ者じゃない……。」藤井はタサキで二年働き、いろんな富裕層を見てきたが、この車の価値はすぐに分かった。


莉子が車の中の人に別れを告げるまで、藤井は呆然としていたが、すぐに駆け寄った。「莉子さん!私が支えます!」足の怪我に気づいて、「えっ、こんなにひどかったんですか?知ってたら絶対お見舞いに行ったのに!」


藤井は少し残念そうにした。莉子が怪我をしたことを知ったのは、彼女が会社を休んだ翌日だったし、忙しいプロジェクトもあって、なかなか会いに行けなかったのだ。


「大したことないわ。捻挫だから、しばらくしたら治るよ。迎えに来てくれてありがとう。」莉子は優しく微笑み、心の中で感謝した。


本当はあかりを煩わせたくなかったが、彼女がどうしてもと言うので甘えることにした。


「何言ってるんですか!私、莉子さんのアシスタントですし、早く元気になってもらわないと、チームの効率も上がりませんから!」藤井はあっけらかんとしながら、莉子を支えつつ、もう一度運転席の方をちらりと見た。


一瞬で見惚れてしまうほどのイケメンだった。芸能人好きの藤井は、これまで見てきたどんな男性タレントよりも、さっきの人の素顔が素敵だったと思った。


もちろん、莉子も芸能界にいてもおかしくない美しさ。藤井は心の中で「本当にお似合い、まさに美男美女カップルだわ」と感心しつつ、彼が莉子のことを大切にしている様子もうかがえた。


「莉子さん、ご主人本当に優しいですね!早くお二人の結婚パーティーしたいな~」と、からかうように言った。


莉子は去っていく車を見送りながら、彼のさっきの一言を思い出し、ほんのりと心が温かくなった。でも、もう籍は入れているし、あの混乱で結婚式もできなかった。パーティーに呼ぶこともできなさそう。莉子はただ微笑み、返事はしなかった。


藤井の声は大きく、まだ車を離れていない直樹の耳にも届いた。


莉子が返事しなかったことで、直樹は確信した。「彼女は怒っている。」


【妻が怒った時の対処法:この車はもう使わない。今後は誰にも貸さない。今月のボーナスはナシ。】


短く冷たいメッセージ。中山はすぐに気づき、弁解する。


【社長、誤解です!昨日、帝国ホテルの王さんの車が故障して、急きょ迎えに行っただけです!何か落とし物でもありましたか?】


数分後、「ボーナス没収」の通知が取り消された。


中山は胸をなで下ろし、無事ボーナスを守れたことに安堵した。

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