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第17話 専属の助手席

田中美雨は憤然とその場を去った。外で様子をうかがっていた人たちも、彼女の怒りに気圧されたようにさっと散っていく。タサキに入社して六年、これほどみじめな思いをするのは初めてだ。しかも相手は新人――その屈辱は簡単には飲み込めない。悔しさを隠しきれず、九条莉子に鋭い視線を投げつけ、高いヒールを鳴らして立ち去った。


藤井あかりはすれ違いざま、わざと田中美雨の肩にぶつかり、そのままうれしそうに九条莉子のオフィスに駆け込んだ。「莉子先輩!さっきのすごくかっこよかったです!」ガラス越しでも外まで声が響くほどの興奮ぶりだ。最初は九条莉子がやり込められないかと心配していたが、予想外の堂々たる反撃に、すっかりファンになってしまった。


「向こうから仕掛けてこない限り、私からは何もしないわ。」九条莉子はあくまで冷静に答えた。そのとき、佐々木部長からメッセージが届く。「田中美雨の会社への損害については厳しく対処する」とのことだった。


その日の午後、九条莉子はデザイン部の同僚たちにタピオカドリンクをおごった。みんな喜んで受け取り、お礼を言う。田中美雨だけは、ドリンクを手にしても悔しさを隠しきれず、九条莉子のささやかな「ご褒美」にさらに敵意を強めたようだった。


イッセイミヤケのプロジェクトが終わり、九条莉子の仕事にも余裕ができる。長い間温めていた「十二花神」シリーズの下絵を、ようやくじっくり描くことができた。退社時、藤井あかりが心配して会社の入口まで見送りについてきた。


九条莉子は上機嫌で直樹を待っていた。そこへ、真新しい黒のメルセデス・マイバッハが会社の前に静かに停まる。注目を集めるその車から、運転席の窓が開き、完璧な顔立ちの直樹が現れる。


「車、変えたの?」と九条莉子が驚く。前の車より明らかに高級そうだ。一体どんな仕事をしているのだろう。毎日高級車をレンタルしてるの?


思案する間もなく、直樹は車から降りて莉子のもとへ。藤井あかりに軽く会釈し、莉子をそっと抱き上げて助手席へと運んだ。


「自分で歩けるのに……」と莉子は小さく抗議するが、ここは会社の前。恥ずかしさから、思わず直樹の胸元に顔をうずめる。同僚たちの視線が痛い。


高級車と直樹の端正な容姿は、それだけでも十分に目を引く。しかも今は、彼が女性を抱きかかえているのだから、見ていた女子社員たちのハートは一瞬で砕け散った。後ろで見守っていた藤井あかりも、思わず心の中で叫ぶ。「莉子先輩の彼氏力、半端ない!」この広い肩、引き締まった腰、長い脚。アイドルなんかよりずっと頼もしい!


車内に入っても、九条莉子はまだ現実味がなかった。贅沢な内装、最高級のレザーシート、洗練された香り――どれもが特別感を醸し出している。この車、本当に新品なのかもしれない。


不思議そうな莉子の視線に気づき、直樹は身を寄せてシートベルトを締めてくれる。「前のは汚れてしまったから、替えただけ」と、まるで服でも取り替えるかのように淡々と言う。


思わずもう一度、莉子は彼の横顔を見つめてしまう。街灯の光がくっきりとした輪郭を際立たせ、より一層魅力的に見えた。


「どうした?」と直樹が静かに尋ねる。


「ううん、ちょっと気になっただけ……」莉子は慌てて視線を外す。


「何が気になるんだ?」と彼はさらに続ける。


莉子はとっさに、「今朝の私の一言が原因で、車を替えたのかなって……」と口にしてしまった。言った途端、顔が熱くなる。今朝、口紅のことを少し気にしたが、まさかここまで気にするなんて思っていなかった。


直樹は落ち着いた声で「うん」とだけ答える。


「もちろん。これからは、この車には君以外は乗せない」と、莉子の唇に目を落とし、低くはっきりと告げた。


莉子は呆然とし、慌てて手を振る。「今朝はそんなつもりじゃ……」


「君は僕の妻だ。正式な。」深い瞳で莉子を見つめ、「もう二度と同じことはしない」と静かに言う。


莉子が言葉を失っているのを見て、彼は少し微笑んだ。「さあ、食事に行こう。」


まだ頬の熱が引かないまま、莉子は窓の外に目を向けた。あの「正式な妻」という言葉が胸の奥に残り、密かにうれしく思う自分がいる。でも、その一方で、彼がここまでするのは、愛情からなのか、それとも「夫」としての義務感だけなのか――そんな不安も浮かぶ。


車が向かったのは、神奈川県でも指折りの高級ホテル、帝国ホテルだった。煌びやかな宴会場、入口にそびえる大きな天使の像が水辺で輝いている。


地下駐車場に車を停めると、莉子は自分で歩こうとするが、直樹は当然のようにまた抱き上げる。「足はまだ治ってない。大事にしないと。」と強引に。莉子も最近は彼の世話に慣れてきて、誰も見ていないこともあり、抵抗せず身を任せた。


エレベーターで最上階のテラスへ。ここはインペリアル・トップ、県内でもっとも予約が難しいレストランだ。四年前、早坂清佳が成人式をここで開きたいと騒いだが、早坂家でも二ヶ月前からの予約でさえ取れなかったことを、莉子は思い出す。


高級車、最高級のレストラン……ふと、莉子の頭をよぎる。「もしかして、彼は隠れた大富豪?家同士の約束で私と結婚したの?」と。しかし、すぐに打ち消す。もし本当に一流の名家なら、ネットで調べても何の情報も出てこないはずがない。早坂家は県内でも中堅どころ、そんな縁談が舞い込むとは考えにくい。


疑念を胸にしまい、周囲を見渡す。広々としたテラスには高級な草花が美しく手入れされ、虫一匹寄せ付けない。今夜はこの場所が、二人だけのものだった。


直樹は莉子をテーブルまで運び、スタッフが丁寧にメニューを差し出す。莉子は遠慮がちに二品だけ注文し、値段を見て思わず息を呑む。一皿で自分の何日分もの給料だ……。彼は一体、どんな仕事をしているのだろう。イッセイミヤケのプロジェクトでボーナスが入ったら、今度こそ心を込めてプレゼントを贈ろうと決める莉子だった。


彼女の緊張を察し、直樹はスタッフに静かに何かを伝え、莉子に向き直る。「今日はご機嫌そうだね?」

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