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第5話 説明

 学者寮を飛び出して、雨宮とイリナは敷地の中を走る。学者寮はカラーニン科学学院の敷地内にあり、走れば5分で近くの研究棟に到着する。

 その間に、雨宮は現在のホイターの情報を思い出していた。


(レオニダス・ホイター、コラオル暦1692年生まれの18歳。1710年現在の研究内容は、師匠であり同僚のアルバス・ヌルベーイ先生と一緒に、水の特性を調べている。数学を専攻する前は哲学を学んでおり、多少宗教関係の知識も存在する……)


 こう考えると、雨宮とホイターの歳はかなり近いが、立場は全く真逆と言っても過言ではない。雨宮は学生、ホイターは学者だ。


(学者という役割を全うできるだろうか……?)


 雨宮は不安になる。しかし何とかしないといけないのは事実だ。


(俺がなんとかしないと、人類史がひっくり返る……)


 あの老人の言葉である。


(脅しでもなんでもなかった。ただ事実を述べたような、単調な口調だった)


 そして雨宮は前方の空を見上げる。


(俺に出来るか……?)


 一抹どころではない不安が押し寄せる。それはもはや恐怖であった。


(怖い。もし人類史がひっくり返ったら。俺のいた未来が書き変わっていたら。そう思うと何も考えられなくなる)


 思わず足を止めてしまいそうになるくらいの恐怖だった。

 そんな雨宮の手を、イリナが引っ張る。


「ホイター、急ぐわよ!」


 その様子を見て、雨宮はどこか安心感を抱く。これからの不安を和らげてくれるような、柔らかな温もりだ。


(……俺は、一人じゃない)


 その安心感が、雨宮にとってはとても心地よかった。

 二人は数学研究棟に到着する。階段を上がり、3階にあるヌルベーイ研究室の扉の前に立つ。

 イリナが研究室の扉をノックする。


「ヌルベーイ先生、いらっしゃいますか?」

「開いてますよー」


 中から声が聞こえてくる。イリナが扉を開けると、中は資料の紙で一杯だった。どこからがテーブルで、椅子があるのかすら分からないほどである。

 その資料の中に動く影が見えた。イリナの金髪とは異なる、少しくすんだ白髪のような髪だ。

 その影が、資料の山からのっそりと現れる。


「あぁ、ホイター君にイリナ君か。今日は早いね」


 顔に深いシワがあり、外見上は50歳くらいに見えるだろう。だがホイターの記憶によれば、彼はまだ30代であったはずだ。


「ヌルベーイ先生。実は緊急の事件が発生しまして……」

「緊急の事件? 一体それはなんだい?」

「実は、ホイターが変わってしまって……」

「……? ホイター君はいつも変わっているじゃないか」

「えっ、先生はそう思っていたんですか!?」


 突然の暴言に、雨宮は思わずツッコんでしまう。

 とにかく、雨宮とイリナはヌルベーイに事情を説明する。


「ふむ……。ホイター君の中に別人格が生まれ、その人格は未来からやってきたと話しているんだね?」

「そんな感じです」

「これは参ったな。一旦学院の教会に行って、牧師様と相談したほうがいいかもしれない」

「俺のこと悪魔か何かだと思ってます?」

「冗談だよ。しかし、未来からやってきたとは、正直驚いている。しかも今から300年も先の未来から……」


 ヌルベーイはホイターのことをじっくり見る。


「確かに瞳の色が変わっているようにも見える……。それ以外の変化は見られない……。ふぅむ、なんとも奇妙な話だ」

「先生、どうしましょう?」


 イリナは本気で心配してくれているようだ。


「少し、試験をしてみよう」

「試験ですか?」

「そう。この辺りにある資料はなんだったっけな……?」


 そういって一枚の紙を引っ張り出す。


「これ、解けるかい?」


 受け取った紙には、微分の問題が書かれていた。高校で習う程度の初歩的な微分の問題である。


「えぇと……。3x+5です」

「ほう、暗算で計算したのか。なかなかやるね。じゃあこの問題は?」


 次の紙が渡される。内容は積分の問題のようだ。ただし習ったものとは少し表記が違う。


「んー……。これは積分の問題っぽいですね……。x^3-2x^2+Cですかね……?」

「Cというのは?」

「積分定数ですね。微分の逆をする時に消えていた整数部分が出てくるので、それをCとして代入しているようなものです」

「これは……、フライミニッツが提唱していた方法だね。未来ではこれが主流になっているのかな?」

「おそらく……」


 それを聞いたヌルベーイは、顎に手をやって少し考える。


「うぅむ。確かに未来の知識は本物のようだね……。微分と積分の関係もしっかりと出来上がっている」

「それじゃあ……」

「君は未来から来た極東の人間であることを認めよう」

「良かった……」


 雨宮とイリナは安堵する。


「ところで、未来の君はなんていう名前なんだ?」

「自分は雨宮根治と言います。雨宮が苗字で、根治が名前です」

「アマミヤ……。うーん、言いなれないから普通に呼ばせてくれないか?」

「どちらでも構いませんが……」

「よし。とにかく、これからこれからも一緒に研究を頑張っていこう、ホイター君」

「は、はい」


 ヌルベーイが右手を差し出したので、雨宮は同じく右手を差し出し握手する。

 そしてその時に、雨宮は思い出した。


(10個の発見を再現しないといけないんだっけ……。改めて考えても、無理難題を押し付けてくれるなぁ……)


 しかし、自分がやらなければ未来が書き変わってしまう。とにかく、無理やりにでも前向きになる必要がありそうだ。

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