翌朝、私は用意された簡素な馬車に揺られ、エーレンフリート公爵邸へと向かった。ラヴェンダー伯爵家とは比べ物にならないほど立派なその屋敷は、高い石造りの壁に囲まれ、重厚な扉が静かに私を迎えた。伯爵家の質素な暮らしに慣れた目には、その威容はまるで別世界のようだった。
出迎えてくれたのは上品な老齢の執事だった。彼の名はセバスチャンというらしい。丁寧な物腰ながらもどこか鋭い視線が私を観察しているように感じたのは、きっと気のせいではないだろう。
「アリア・ラヴェンダー様、ようこそ公爵邸へ。公爵様は執務室にてお待ちでございます」
セバスチャンの案内に従い、私は広大な廊下を歩いた。磨き上げられた床、歴史を感じさせる絵画、そして豪華な調度品。全てが伯爵家とはかけ離れており、場違いな場所に迷い込んだような心持ちになる。
公爵の執務室に通されると、昨日の冷たい印象とは打って変わって、ディートリヒ公爵は柔和な表情で立ち上がった。……いや、もしかしたら、これが彼の精一杯の「柔和」なのかもしれない。相変わらず、その黒曜石のような瞳は深く、底が見えない。
「アリア嬢、よく来てくれた。今日から、ここが貴女の新たな住まいとなる」
「は、ありがとうございます。公爵閣下」
私はぎこちなく頭を下げた。今日から、か。実感が湧かない。
「まずは、貴女の部屋を用意した。体調を考慮し、陽当たりの良い静かな部屋を選んだつもりだ。何か不自由があれば、遠慮なくセバスチャンに申し付けたまえ」
思いがけない気遣いに少しだけ心が温まった。病弱という設定が、こんなところで役に立つとは。
公爵邸での生活は想像していたよりもずっと静かで、そして……手厚かった。専属の侍女がつき、三度の食事は栄養バランスを考え抜かれたものばかり。体調を気遣って激しい運動や無理な外出は禁じられた。これではまるで、本当に病弱な令嬢ではないか。
しかし、日々を過ごす中で私はいくつかの疑問を抱くようになった。なぜ、公爵はあんなにも私の「魔法」を信じているのだろうか? 森での一件は、本当にただの偶然だったのに。それに公爵自身は一体どんな人物なのだろう? 時折見せる憂いを帯びた表情の奥には、一体どんな過去が隠されているのだろうか。
そんなことを考えながら公爵邸に来てから三日が経った日の午後。セバスチャンが、珍しく慌てた様子で私の部屋を訪れた。
「アリア様、大変です。不意の来訪者がお見えになりました」
「不意の来訪者、ですか?」
一体誰だろう? 私のような取るに足りない伯爵令嬢に会いに来る人など心当たりがない。
セバスチャンの後に続き応接間へと向かうと、そこに立っていたのは見慣れない美しい女性だった。
明るくきらめく金色の髪は太陽の光を浴びて輝き、吸い込まれそうなほど深い青い瞳が私をじっと見つめている。
その女性は優雅な笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。
「初めまして、アリア・ラヴェンダー様。わたくしは、リリアーナ・フォン・アルブレヒトと申します。今日から、貴女の義妹になりますの」
義妹……?
私の頭の中は、疑問符でいっぱいになった。ディートリヒ公爵に、妹などいたのだろうか?
リリアーナと名乗るその金色の髪の美女は、私の困惑をよそに、自信たっぷりと微笑んだ。
「兄様から貴女との婚約の話は伺っておりますわ。不意の訪問、お許しくださいね。ただ、どうしても、未来の義姉様にご挨拶しておきたくて」
彼女の友好的な態度とは裏腹に、その青い瞳の奥には何かを探るような、鋭い光が宿っているように感じた。彼女は私の外見や雰囲気を鋭く観察しているようだった。
氷の公爵の予想外な義妹の登場。私の偽装婚約生活は、早くも予想外の展開を迎えることになった。