少しだけ「
あずみは学歴や教育に関して非常に厳しい母親と、こどもを道具としかおもっていない父親のもとに生まれた。
小学校も中学校も私立受験をさせられ、高校も遠方の地方都市にある高レベルな私立高校を目指すように言われていて、その上で妻にばかり甘い父親には「働ける年齢ではないのだから家事くらいは母親の代わりに片づけるべきだ、それができないこどもはいらない」と家事炊事全般をやらされていた。母親は専業主婦であったにも関わらず、だ。
毎朝四時に起きて、五時に起床してくる父の弁当と朝食を用意し、父を丁寧に見送ってから掃除と洗濯を済ませ、その隙間時間で勉強を重ねる。七時過ぎに起きてくる母の朝食と昼食を七時前にはつくり終えて、七時には家を出て電車とバスと徒歩で一時間半近くかけて私立中学校へ通い、満員の電車やバスの中でも単語帳などを活用して頭に知識を詰め込み続けた。そうしなければあずみの頭には知識が蓄積されなかったから、何度も反復学習をしなければいけなかった。そして学校では昼休みにつくってきた弁当を食べてから三十分ほど仮眠を取って、十八時近くまで授業で拘束されてから二十時半まで塾でさらに学習内容を予習して詰め込んできた。
二十一時頃に帰宅したら「早くメシを用意しろ」と父に急かされて両親の食事を用意して、二人が食べ終わって洗い物を済ませたらようやく自分の食事の時間が取れる。
食事を終えたら母の監視のもと、零時まで予習復習を続ける。ひたすらに、機械のように。
そして母が零時で就寝したら、ようやく学校と塾の宿題に取りかかれて、二時頃になってようやくあずみも就寝できた。だが、起床時間は父に合わせて四時で、たったの二時間しか眠れなくて。
あずみは凡才だったのではない。過度なストレスと強いプレッシャー、過度な不眠が重なって本来持ちうる能力が大幅に低下していただけ。本来は物覚えもよく、大抵のことはそつなくこなせるだけの能力を持っていた。
そんな生活に、あずみは死にたいとおもうほど苦しんでいた。
息苦しくて、限界で、壊れそうで、途方もない絶望に包まれていた。
正月、三が日は親戚で二泊三日の集まりをするのが毎年恒例だった。唯一家事炊事から解放される二日間で、食事の二時間と睡眠の四時間以外は決して勉強から解放されない地獄でもあったけれど、中学二年生の冬休み、あずみは意を決して父方の伯母にある頼みごとをした。
それが、上京するための資金援助をしてほしいということだった。
必ず返すから、いまだけどうか助けてほしいと──初めて誰かを頼った。悲痛で、切実な願いだった。
壊れたくなかった、死にたくなかった、まだ生きていたかった。夢を追いたかった。
伯母はやさしく手を取って、安心して、と微笑んでくれた。
もう大丈夫よ、私たちがここにいるわ、と。
いつものお菓子は少しだけ待っていてね、と囁いて、帰宅するその日に「いつものお菓子よ、おうちでゆっくりお食べなさいね」とやけに重い花柄の紙袋を手渡された。
帰宅して自室に戻ってから開けた紙袋にはあずみが大好きな伯母の手づくりチョコチップクッキーと、札束が入っていた。通いたいと言った東京のIT専門の高校の初年度の学費と引っ越し費用を差し引いてもまだ少し余るほどのそれ。
そして添えられた言葉。
「返さなくていいからね」──あずみはぼろぼろと涙をこぼし、蹲った。
おいしくて、悲しくて、痛くて、嬉しくて、苦しくて、心がいまにも壊れそうだった。
一般受験と学費免除対象の特待生試験を同時に受け、あずみは無事に両方合格した。もっと高みを目指したいと言って地方都市の名門高校を目指すふりをして、受験遠征も不自然にならないように「集中したいから」という理由で一人ホテルに泊まり、札幌校の試験会場で受験した。東京校を志望しても現地へ行かずに受験できるのは通信制のありがたいところだったと言える。
伯母からのメモに添えられていたメモに「物件探しは手伝うからね」という言葉を信じて電話をかけ、東京で通信制の高校生が一人で暮らせる範囲の物件を契約してもらうことにして、三月の末日、家を出る際に「東京の高校へ行きます。これからはもう、僕は何にも縛られたくありません」とはっきり言い捨てて親の怒号を振り切りながら駆け出して空港を目指した。
あの時、伯母夫婦を頼っていなかったら、きっといまごろ壊れた心を抱えながら空虚に生きていただろう。母が望んだ学歴の通りに、父が望んだ従順な通りに、大企業の歯車になって。
もちろん、そのあとが大変じゃなかったはずもなく。
学費は一部免除の特待生で通ったが、生活費と一緒に学費も稼がなければならなかったから、毎日バイトを詰め込んで、詰め込んで、必死に働いて、学校に通って、遊ぶ暇もなく知識と技術を身につけ、大手ゲーム制作会社に就職できた。
上京して始めた仕事の一つ──カフェのアルバイトでイロハと出会えた。彼はそこが地元だということもあって、右も左もわからなかったあずみをやさしく導いてくれた。
いまの会社に入社してからの初任給は決して悪くなかった。そこから毎月五万ずつと決めて二つ目に開設した口座にお金を貯めて、どんなに苦しい生活でも毎月五万だけは絶対に口座へ入れて、安定しない新社会人生活を会社近くの小さなボロアパートで始めた。
必死に働いて、足りない分は副業として個人制作のゲームやイラスト受注などで賄って、余れば貯金口座にどんどんと貯めていって、社会人四年目、ようやく三百万が貯まって、伯母にどうしてもお金を返したいからと言って口座に振り込ませてもらった。その際に住所も聞いて、それから毎年伯母夫婦の結婚記念日には必ず伯母の好きなブランドのお茶と夫である伯父の好きな和菓子を詰め合わせた荷物を送っている。
苦しくても、楽しかったからこそ続けられた、しがみついていられたというところはある。
そしていまは、ほどほどの給料で知らぬ間に生まれていた異母妹を養いながら日々生活をしている。
仕送りの一つもせずに「かすみにはあれをしろこれをしろ」とうるさいだけの親の声は無視をしているが、当の妹であるかすみに罪はないので兄妹二人で穏やかに暮らしている。本当の意味でかすみを大事だとおもっていて、かすみのしあわせを願っているのなら、自分たちが主体的に動いて経済的な支援として学費や生活費を工面してあげたり、せめて食品などの仕送りくらいはするべきだろうとあずみはおもう。
それもなしに、あずみがかすみを大切にすると、顔も名前も知らない異母妹のことを愛すると誰がおもうだろうか。ただ単純に初対面のかすみが「こんにちは……あずみお兄さんですか?」と丁寧に声をかけてくれたから、あずみもその勇気と覚悟に応えただけ。
彼女もまた人格否定や家事炊事の押しつけ、高校時代にはアルバイト代から毎月一万から二万を支払わされて、携帯代も身の回り品もすべて自分の給料で賄って、扶養を外れてでも働けという父の言葉のせいで社会保険だってかけていた。
そんな環境でも、彼女は歪まなかった。折れることなく、逃げることを選べた。
その背中を押したのは、あずみを救ってくれた伯母で、曰く「あずみくんはあなたがおもうよりもあなたを大切にしてくれるわ。だから、信じてみても大丈夫よ」と言われたらしい。
どんな兄がそこにいようと、独りで生きていく覚悟を背負ったかすみにとって、誠実で温かくて自分を「一人の人間」として扱ってくれる──そんな存在はあまりにも大きくて、あの時に背負った覚悟も、伯母の言葉も、信じてよかったと語ってくれたことがあった。
それがあずみとかすみという異母兄妹の関係の始まりで、一切の援助をしないくせに口ばかりやかましい両親との決別の瞬間だったと言えるだろう。
あずみは毎月少ないながらにお小遣いを渡そうとして断られ、それでも「いつか使うから」と貯金するように言って押し切って渡している。それを彼女がどう使っているかはわからないが、彼女が少しでも大学生らしく生きられるのならそれに越したことはない。現在はあずみが扶養家族としてかすみを養っており、かすみにも「扶養から出ない範囲で働いてね」と言っている。
これが「廣川あずみ」と「廣川かすみ」の過去。
梅雨も通り越したある日、真夏の暑さに死にかけながら、あずみは朝からヘアセットも服装もしっかりとした状態でキッチンに立っていた。
「お兄ちゃん、みさとちゃんたち着いたって!」
「そう。迎えに行ってあげな」
「おっけー。おつまみできてる?」
「もうちょっと。早く行きな」
「はーい」
今日は父の再婚相手との間にできた異母妹の友人たちが昼飲みプラスゲーム交流のためにあずみの家を訪れる日だ。来るのは
あずみの目的は後者の友人の方で、彼女が「異常」でないことをたしかめるために宅飲みを提案した。
「ただいまー、みんな来たよー」
「はいはい、いらっしゃい」
「お邪魔します……! うわぁ、綺麗なお部屋……あたしがおもってた数倍綺麗……」
「お邪魔します~。あ、お兄さんがおつまみつくってくれてるんですか? てっきり既製品のおつまみかとおもってた……」
「失礼いたします。ふわぁ、私が住んでるおうちより広くて綺麗ですねぇ~」
「……賑やかだね。座って待ってて。かすみ、お酒出してあげな」
「はーい。お兄ちゃんも飲む?」
「俺は自分で持っていくから自分たちのだけ持っていきな」
「りょ。えー、みさとちゃんたち何飲む? いろいろ買ってあるよー」
女は三人集まれば姦しいと言うが、四人も集まればいっそやかましい。
……なんて。あずみはそんなことを考えながら最後の一品をつくり上げてお皿に盛りつける。
つくったつまみをトレイでまとめてリビングのローテーブルに持っていって、かすみが持ってきたお酒を置けるように位置を調整しながら並べる。
ちら、と見遣った限り、「不思議ちゃん」に違和感はない。
ちなみにあずみは直接混ざるつもりはなく、ダイニングの二人掛けテーブルでのんびりと作業をしながらお酒を楽しむつもりだ。泊まっていく、とのことだったので、客用の布団をつい先日追加で購入し、現在はリビングの隅に圧縮袋へ入れた状態で置いてある。
「それにしてもお兄ちゃんがこんな可愛い女の子の連絡先持ってたとかチョー意外なんだけど」
「あー、会社が一緒だから……プロジェクトでご一緒した時にね」
「へー、お兄ちゃんも頑張ってるんだぁ」
「頑張ってるどころじゃないよ! 廣川さんがいれば百人力って言われるくらいすごいひとなんだから。トラブルだって目標期限よりも早い時間に解消させちゃうし、廣川さんがいれば怖いものなしって言われてるよ」
「……さすがにそれは盛ってない? 俺はそこまでのことはしてないよ」
「えっ、自覚がない……これが天才というもの……?」
「できることをやってるだけだからね」
「その『できること』の範囲と規模がとんでもないって話なんですよ。え、廣川さんはこっち来ないんですか?」
「え、行かないよ。作業したいし、多分聞いてても全然ついていけないとおもうし。えいはな、だっけ? 聞かされてはいるけど、やったことないゲームだから」
自室からノートパソコンを持ってきてダイニングの小さなテーブルでバーボン・ロックを傾けていたら、残念そうな声が上がった。
それに苦笑しながらノートパソコンを開き、個人制作しているゲームの編集画面を開く。素材の作成は完了しているので、あとはそれを使ってゲーム本体をつくっていくだけだ。今回はレトロなイメージでインディーゲームのようなものを目指して制作している。
……もし、両親が「生活費と学費は出す」というあずみとの契約を履行していれば、きっとあずみが両親を本当の意味で見限って絶縁することはなかったかもしれない。連絡先を残していたのは最低限の情が残っていたから。だけど、両親はそれすらも踏みにじってしまった。
「アリカちゃんと
「ううん、サークルが一緒なの。文芸サークルなんだけど……? アリカちゃんって文才すごいんだよ。普段はこんなふわふわしてるのに、小説はプロ級! マジで一回読んで見てほしい、っておもって、ついこの前頒布してた同人誌持ってきちゃった」
「ええ~、聞いてないですよ~、優子センパイ。恥ずかしいなぁ~……」
「えーっ、すごい! 小説書けるのマジで才能だから羨ましい~。あたしなんてシナリオライトはできるけど、小説は書けないもん」
「えー、美郷センパイはシナリオライトできるんですかー? 私、逆にシナリオライトできませんよー。シナリオって、ゲームとか台本みたいな感じですよねー?」
「やっぱ得手不得手なんだねぇ。ってか、みんな創作活動してるって感じ? 奇遇~、アタシもイラストやっててさ、表紙とか素材が必要だったらつくるから頼ってよねぇ」
「ハッ! そうだ、あたしそれ聞きたかったんだよね。かすみちゃんのアイコンって、アレ自作なの? めちゃくちゃ可愛くて、もー、一目惚れしたんだよ」
「あ、あれはアタシじゃなくてお兄ちゃんに描いてもらったぁ。お兄ちゃんってクリエイティブ活動なら何でもできるから。3Dも2Dもモデリングできるし、絵も描けるし、シナリオライトもできるし、ゲームも音楽も映像も個人制作してるし。やばいよぉ」
「ええーっ! す、すごい……廣川さん、逆に何ができないんですか……」
「恋愛は滅法弱い。女運もなければ、恋愛運もゴミ。っていうか、仕事上、理解のある相手じゃないとつきあえないんだよねぇ。みさとちゃんはわかるとおもうけど、仕事の時間ってその日によってバラバラじゃん? 休みも忙しくなったら一日まともに休むとかできなくなるしぃ」
「ああ……あたしも似たような感じだからわかる……」
悲壮感漂う美郷の声にそっと笑みを漏らし、あずみは五感をフル活用して女子会を観察する。
いまのところ、異変に感じられるものはない。
ただ、胸がざわざわとしている。何かがあるような、あるいは存在に拒絶反応を示すような。
「アリカちゃんの同人誌読んでもいい? あたし、読みながら会話できるタイプだから、嫌じゃなかったら……」
「いいですよ~、恥ずかしいですけどー」
「やった、ありがとう! どんなジャンルで書いてるの?」
「恋愛モノが多いですねー。ファンタジックだねって言われることが多いんですけど、私としては全然ファンタジー書いてるつもりなくって、普通の恋愛って感じなんですよー」
「え、でも魔法とか魔族とかって設定は限りなくファンタジーだよ?」
「そうなんですかねー?」
その言葉にピタ、とあずみの手が止まる。
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──アリカ、女性、大学一年生、文芸サークル。
──制作する作品は「恋愛」がメインだが、魔法や魔族などのファンタジックな要素を当然のように扱っている。
──これらの情報から、彼女の異常性の分析は可能ですこと?
──情報を取得中……
──情報を精査中……
──情報を確認できました。
*彼女がこの世界における「異常」である可能性は非常に高いです。
──対象人格:出自不明
──対象人格:調査不可
*対象から調査ブロックをかけられています。
*よって、特異な能力を保有していると考えられます。
──魔法もそれに近しい術も、彼女にとっては「当たり前のもの」という可能性が高いのね。
*
*微弱ですが、魔力の探知ができました。
*[この世界]では一般的な人間よりもはるかに膨大な魔力量です。
*転移したことにより、一時的に世界の抑制装置が作動していると想定できます。
──そう。では、彼女が異常であると断定することは可能そうですわね。
*はい、充分に可能です。いかがされますか?
──わたくしは彼女と対話し、本来の世界へ戻してあげなければなりません。
──そうしなければ、この世界まで
──
*同意します。
*彼女の存在は危険です。
*ですが、こちらへ危害を加えるつもりはないようです。
──現時点では、ね。
──[この世界]で魔法を使うことは可能なの?
*原則的には不可能です。
*この世界には「魔力」や「
──想定外とは?
*この世界の保全抑制装置が破壊された場合を指します。
*その場合、彼女は本来の魔力を解放することが可能になり、魔法が使えるようになります。
──おそろしい話ですわ。そうなればこの世界の崩壊は避けられません。
*はい、仰る通りです。
*どうされますか、Harmonizer。
──彼女と二人になるタイミングがあればよろしいのですけれど……
*現在のHarmonizerは男性ですからね、中々難しいでしょう。
──それも三十代の、ね。
──どうしたものかしら。何か取っかかりになるものがあれば……
*創作物関連で惹きつけるのはいかがでしょうか?
*相手も創作意欲は高いタイプですから、実際に個人制作を行っているおとなに対してあこがれや興味をいだいている可能性は非常に高いです。
──ああ、その手がありましたわね。少し試してみますわ。
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「よかったら俺も読んでみていい?」
「え……ぷ、プロの方に講評いただけるほどのものじゃないですよ~……?」
「いや、小説は全然素人だから安心して。ゲーム制作会社に勤めてるし、ゲームの個人制作もしてはいるけど、小説はまだ手出ししてない分野だから興味があって」
「そういえば、お兄ちゃんってシナリオライトはするのに小説は書かないよねぇ。何で?」
「うーん……何でって言われてもな。機会に恵まれなかっただけ、というか。ゲームつくる方が楽しいから? ゲームって構想からシナリオ、素材まで全部自分でつくれるじゃん。何か、それで満足してるっていうか。小説は機会があればやってみたいとおもうけど、中々手を出すことなく過ごしてきてしまった、かな」
「読むのは好きなんですか?」
「好きだよ。書かないだけで」
「じゃあ、これとかどうですか? 王道って感じのやつですよ~!」
「ありがとう。……アリカさん、読んでも大丈夫?」
「はい……えっと、講評はやさしめで~……」
「だからプロじゃないって。それじゃあ少し読ませてもらおうかな」
まずは第一歩。
丁寧な装丁が成された文庫本をパラパラと捲り、ページを読み進めていく。
職業柄──ということもあるが、あずみは昔から読み物が好きで、読む速度も一般人の倍ほど速い。いわゆる速読ができるタイプだ。
およそ二十分程度で二〇〇ページほどのそれを読み終え、パタンと閉じる。
充足感のある「ファンタジー恋愛もの」といったところか。これを「普通」と断じるのはいささか無理がある。少なくとも、あずみから見てもこれは「普通の恋愛小説」とは言えず、「ファンタジー恋愛小説」というジャンルに分類すべきものだろう、と判断できる。
「……うん、読んだ感じ王道の『ファンタジー恋愛小説』だったね。面白かった。情景描写や心理描写が丁寧で細やかだから読んでいて飽きがこない。いい作品だ。これが同人誌というのは少しもったいないな。商業レベルでも充分通用するとおもうんだけど」
「ええぇ~……さすがにそこまでのレベルじゃないですよぅ……」
「いや、下手な作家よりも面白い作品だったよ。あ、もしよかったら俺の作品も見てみる? 制作中のこれでもいいし、興味があれば映像作品とか……」
「いいんですか~? じゃあ、遠慮なく~……わぁ、すごい……こうやってゲームをつくるんですか?」
近づいてきたアリカにゲーム制作中の画面を見せれば、彼女は頬を染めて興奮気味にすごい、と呟いた。
「映像作品だとこういうのがあるかな。音楽もやってるから、よかったら聞いてみて」
「あ、
「え、マジ? それは嬉しいな……じゃあ、映像作品はもう知ってくれてるんだ。まさかこんな近くにファンがいてくれるなんてね」
「へー、面白いじゃーん。案外、不思議な縁というのは近くにあるものなんだねー」
「モデリングの講座もやってますよね~? 私、モデリングは全然できないんですけど、面白くてそれも見てます~。イラストのタイムラプスとか、ライブペインティングとか……ええ~、こんな身近にご本人さまがいたなんて感激感涙ですよぉ」
「ありがとう。そうだ、もしアリカさんがよければ、今度歌ってみない? 透明感のある特徴的な声だから、俺のつくる音楽と親和性が結構高いとおもうんだよね。嫌じゃなかったらだけど。せっかくだから書き下ろさせてくれると嬉しいな」
「ええっ、いいんですか~? すごーい、すごいですー。ぜひぜひ、私でよければ参加させてください~」
「あ、じゃあ、連絡先交換しておこう。俺の部屋で録音もできるけど……せっかくだからスタジオ借りてがっつりやってみよう。しっかりプロデュースするから安心して」
「ありがとうございます~、すごく嬉しいですよ~。これ、私の連絡先です~」
「ありがとう。楽曲ができたらデモ送るね。できそうだったら一緒にやってみよう」
「わあ、本当に嬉しいです~」
第二歩、これで二人で会う口実ができた。
「おおー、お兄ちゃんがプライベートで女の子と連絡先交換してるの初めて見た……」
「まあ……社会に出たらプライベートな出会いって減るからね……」
あとはどこまで探り込めるか。素直に吐いてくれるタイプなら構わないが、頑として口を開かないタイプなら少々厄介だ。だが、連絡先の交換によって「
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──情報の照合。
──遠山アリカ、十九歳、大学生、魔法が「普通」の世界、魔力持ち。
──性格はやわらかく、物腰穏やか。
──クリエイティブ分野、特に小説はプロ級の
──情報を取得中……
──情報の整合性チェック中……
──情報を開示します。
──閲覧権限:Harmonizer
──対象人格:遠山アリカ
──対象人格:年齢十九歳
──対象人格:属性「魔力持ち」
──対象人格:属性「小説家」
──該当世界:第95番の世界に同一名称および同一属性の人間を確認。
──該当世界:第95番の世界は魔法が存在する並行世界です。
*以上が現時点で照合可能な情報です。
*これだけ情報が開示されたことで、強制送還も可能になりました。
*いかがされますか?
──強制送還は最後まで取っておきますわ。
──それよりもこの子ともう少し対話をして、元の世界に戻りたいと願うなら叶えましょう。
*Harmonizerの指示に従います。
*対象人格より敵意は見られません。
*好意的な印象を認められます。
──そのようですわね。
──それはわかりますわ。AZUのファンということが大きいのでしょうね。
*「廣川あずみ」の多才さを採用して正解でした。
──あなたの読みも上手くなりましたわね、Glass。
*恐縮です。以降、いつでも強制送還を行えますので、いつでもお申しつけください。
*また、対話時には僕を起動させておくことを推奨します。
──わかっております。
──ひとまず情報は出揃いましたわ。
──ここから一歩ずつ進めてまいりましょう。
*イエス、レディ。
*ご無理はなさらずに。
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それからしばらくアリカと二人で話し、せっかくだから、と「どんな曲を歌いたい?」と楽曲の話も詰めることにした。
この話がまた中々新鮮なもので、盛り上がってしまった。
彼女としてはAZUワールド全開な楽曲がいい、とのことだが、あずみとしてはそこに彼女らしさも入れたいと考えている。透明感のある透き通った声は唯一無二のもので、まるで真夏の暑い空気の中で飲むラムネのような涼やかさがある。疾走感と涼やかさ、そこにほんの少しの憂いを加えて。
そういうイメージの楽曲なんてどうだろう、と提案すれば、彼女は「素敵です~」と嬉しそうに手を叩いて喜んだ。
ではそういう方向で、とあずみはやさしい笑みを向ける。
いつまでもあずみとばかり話していても今回の女子会の意味もなかろうと輪の中に戻し、あずみ自身もまた作業に戻りながら四人の会話に耳をそばだてる。
「あ~、やっぱ京一郎さまが最高すぎたよねぇ……第二シーズンも全員めちゃいいんだけどさ、隠しルートの子も含めてね。でも、京一郎さまに勝てるキャラはいないなぁ……」
「でも美郷、遥と碧好きって言ってなかった?」
「好きだよ。でも好き止まりかなぁ……推し尽くす! ってほどじゃないのよー」
「わかるぅ~! 強いて言うならアタシは遥センパイが好みなんですけど、京一郎サマに勝てるキャラはいない……! 逆にゆうこちゃんは?」
「わたし? わたしはいままでユズ一択だったけど、最近はレオンがすっごい気になってる」
「うわー、
「そう! 本当にそうなの! 声優さんの配役が天才すぎて……わたし、声優オタクでもあるからさ、どっちのキャラも推し声優さんでマジ運命って感じ……!」
「レオンは、この金髪キャラですか?」
「そうそう、こっちの金髪キャラがレオンで、こっちの緑の目の子が柚希。わたしの推し!」
「京一郎さんは?」
「それはね、美郷見せてあげて。全スチル解放したんでしょ?」
「した! マジで最高なスチルがね……これ! もう何回見ても死にそう。未だにストーリー見返すたび過呼吸起こしかけてる」
「わあぁ、イケメンさんですね~。あ、私、このひとの見た目好きです。このひとは誰さんですか~?」
「この子は第二シーズンの隠しルートのキャラ、
「あたしもびっくりした! そんなことあるかーいっておもっちゃった」
「うっわ、アタシと一緒じゃーん、センパイ方! 一定値以下にしておくのってマジでめちゃ大変ですよねぇ。一定値以上ってのも大変だったけど、それどころじゃなかったぁ……普通の攻略キャラって割と好感度が上がりやすく設定されてるから、第二シーズンはそれを逆手に取った攻略方法にしたのかなー」
「ね! めっちゃ大変だよねー! あたし、それに気づいたのモックスの呟き見てからだよ。ネタバレも食らったけど、あの情報がなかったら一生クリアできなかった……」
「へえ~……私もアプリ入れて攻略っていうんですか? それ、やってみようかな~。楽しいですか?」
「そりゃもうめちゃくちゃ楽しいよ!」
「リアルで触れあえないのが悲しいくらい好きにさせられるからたまんない」
「マジで一回試してみてほし~! 合わなかったら無理して続けなくていいからさぁ」
「お。じゃあやってみます~。おうち帰ったらインストールして始めてみますね~?」
「そのまま沼ってほしいなぁ」
「わかるぅ~、ビジュが好きなだけでもモチベ上がるし、最近の大型アプデでモニコ機能とか追加されたからマジ沼だよ。推しからモーニングコールがかかってくるの。マジやばい。QOL爆上がり。朝から推しに起こされるの最高」
「あたしさ、まだ全種類聞けてないかもなんだけど、あれ何種類あるんだろ? 京一郎さま以外も好きだからランダムで設定してて、でも、宗一郎さまだけでも五種類は聞いたよ?」
「あ、七種類らしいですよぉ。この前の公式ラジオの質問コーナーで言及されてましたぁ」
「うわーっ、ちょうどあたしが仕事で聞けなかった時のやつか! 聞こうとおもっててまだ聞けてないんだよねー……ってか、一人一モニコでもやばいのに七モニコとかレべチすぎる」
「ほんっとそれですよぉ。あたし毎朝京一郎サマに甘い声で起こしてもらってハッピーすぎるんですよねぇ……朝からごちそうさまですって感じぃ~!」
「朝イチに推しからのモニコで起きられる世界があるって最高すぎるよね。あたしなんて毎朝それで起きてるから仕事もガチでやる気アップするんだよ。ガチで評価上がったし」
「おやすみボイスもやばいよね。あ、チャット機能っていうのがあってね、今回の大型アプデでAIチャット機能っていうのが追加されて、おやすみって打ったら『おやすみ』系のボイスメッセージが届くの! わたし毎日使ってる。あれがなくなったら眠れなくなりそう」
「わっかるぅ~! おやすみボイスえぐいですよねぇ」
なるほど、毎朝隣の部屋から聞こえる着信音と男の声はゲームの機能だったのか。
楽しそうで何より、とおもいながらあずみは手元の作業を止めることなく会話を聞き続ける。
これ以上得られる情報はないだろうか。もう少し聞いておくべきだろうか。
(まあ、どちらにせよアリカさんとの一対一の場を設けられるのは確定ですから)
そこでアリカの正体を暴けばいいだけ。
暴いて、選択肢を提示する。
(やさしい眠りについて元の世界に戻る。あるいは、強制的な眠りについて元の世界に戻る。どちらも元の世界に戻るという選択肢に代わりはありませんし、強制送還はより強い抑制をかけて元の世界に強制的に送還する手法なので最後まで取っておきたいところですわね。できることなら、自らやさしい眠りにつくことを望んでいただきたいですわ)
「伊崎鈴音」に転生した「日野美郷」はどちらの選択肢も拒んで、強制送還という結果になった。なってしまった。せめてやさしい夢を見ながら眠りにつかせてあげられたらよかったのに。拒絶されてしまった以上は、どうしようもなかったことだ。
……いま、しあわせそうに生きている彼女を見ると、あの選択も決してまちがいではなかったとおもわされる。
好きなキャラと「リアル」で恋愛したいという気持ちも、理解できないわけではない。
ただ、そこに共感は存在しない。
Harmonizerは所詮AI Systemに過ぎない存在であり、世界を調和するために存在しているのだから。共感に近い理解はできても、それは共感ではない。ただ受け止め、そうだよね、と共感らしい言葉を吐くだけ。心からの共感など、心を持たない存在には不可能なのだ。
触れあう時間が長引けば、その分だけ「情」のようなものが湧いてしまう。
だが、それはほんの一瞬のものであり、ほんのわずかなものであり、世界に大きな影響を与えることはない。絶対に。Programを超えた行動は不可能だから。
あずみは氷の溶けかけたバーボン・ロックを手に取ってグラスを傾ける。
喉を焼くような度数の強さ。それが正気を取り戻させる。
お前の役割を忘れるなと言われるように、あるべき姿を取り戻せと言うように。
「……わかってますよ」
わかっている。この世界から離脱する日はそう遠くないことを。
だけど、また少しだけ情が湧いてしまったのかもしれない。離れることが、消してしまうことが、巻き戻すことが、少し「さみしい」と感じてしまう。それすらもProgramされた「感情」に過ぎないとわかっていて、それでもおもうのだ。
一度だけでも、人間のように一生涯を終える「人生」というものを味わってみたいと。
淡々と世界を調和する──それが使命であるとわかっていながら、人間が羨ましいと感じてしまう。死を持ち、人生を楽しみ、命を謳歌する人間という存在にあこがれてしまう。
一度でいい。一生涯というものを経験してみたい。
……戯言だ。
誰にも言えない──Harmonizerだけの危険な思考。
大丈夫、こんな考えをいだいても、HarmonizerにはGlassがいる。Glassがいる限り、この感情はリセットされ、正常化と最適化がなされる。だから大丈夫。いまだけのわずかな願いだ。生まれてしまった感情を排除するよりも、目の前の危機を排除する方が優先的で、重要だ。
所詮この「感情」だって「Program」から逸脱することはないのだから。
「お兄ちゃーん、こっちきて混ざろうよー」
「……飲んでないよな? ずいぶんテンション高いな」
「飲んでないよぉ。ねー、お兄ちゃんもエイハナやってよぉ」
「いや、俺がやってどうするんだ……? 三十路超えた男が若い男と恋愛する……?」
「いーじゃん、乙女ゲームに年齢と性別は関係ないよぉ」
「さすがに関係あるジャンルだろ。若年層の女性をターゲットにしたジャンルなんだから」
「えー。京一郎サマ見てもおなじこと言えるー?」
「イケメンではあるが、答えは変わらないぞ」
京一郎の一途さとやさしさ、いじらしさは誰よりもHarmonizerが一番よく知っている。
何せ、ほんのつい先日まで直接関わっていたのだから。彼と信頼関係を築き、彼の愛の深さを知った。
だから、最後に余計なことを言ってしまった。
『──次は、あなたとしあわせになれる未来があるといいわね』
あんな言葉、かけるべきではなかった。
Harmonizerとして、生まれた情を外部に漏らしてはならなかった。
たとえ世界にそれほど大きな影響を与えなかったとはいえ、京一郎の心は揺り動かしてしまった。影響を残してしまった。
あんなもの、結果として「花菱櫻子」がしあわせになれたからよかっただけのこと。
……それだけだ。結果がよかったから問題視されなかっただけ。
問題になっていたら、きっとHarmonizerはすでに消滅していただろう。
それがあるべき姿だから。前任もそうやって消滅したのだから。
世界を調和し、正常な姿に戻す──その過程にHarmonizerの意思は必要ない。Harmonizerの自我は不要。存在してはならない。愛することも、欲することも、願うことも、祈ることも、Harmonizerには不必要なこと。
ほんの少し前のことなのに、懐かしいとすらおもえる。
あの世界は、しあわせな光に包まれて終えられただろうか。いまもなお続く人生を、彼らはどう生きているのだろう。しあわせでいられているのなら、それに越した幸福はない。Harmonizerにとってはそれで充分だ。
……この世界もまた、異常を発見し、特定した。
ならば、あとは「異常」を排除すればいいだけ。
始めよう、「世界を正常化」する時間を。