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Third action: Acquisition completed

 担当しているゲームの大型アップデートの波も落ち着いて、久々の三連休が取れたあずみは妹の弁当を用意してからリビングのソファでのんびりとコーヒーブレイクタイムを取っている。コーヒーを手ずからドリップするなど久方ぶりだ。しばらくそんな余裕もなかったものだから。

 スマートフォンを手に取り、今日も担当しているゲームが正常に稼働しているか確認し、問題がないと判断してから画面を暗くしてローテーブルに伏せて置く。


 今日はようやくアリカと二人きりで話せるチャンスだ。


 スタジオを借りての収録、正直「本来の廣川ひろかわあずみ」としてもその経験はそう多くない。基本的には宅録で、スタジオを使うことはほとんどない。自室を防音仕様にしている分、気にする必要がなかったと言うべきか。



「……静かだなぁ……こんな穏やかな朝は久しぶりだ」



 コーヒーの香りがはやる気持ちを落ち着かせてくれる。

 ヴヴ、とスマートフォンが震え、あずみは画面を確認する。美郷みさとからの連絡だ。



〈みさと:おはようございます! 廣川さん、今日ってお時間ありますか?〉

〈あずみ:おはようございます。ないわけじゃないけど、日中は収録があるかな〉

〈みさと:あ! アリカちゃんのですね? 順調ですか? あの今夜とか、お時間ある時に、もしよかったらお食事に行きませんか?〉

〈あずみ:うん、順調。夜なら今日でも構わないよ。十八時以降ならいつでも〉

〈みさと:ありがとうございます! 食べられないものとかありませんか?〉

〈あずみ:卵アレルギーだけど、完全加熱なら大丈夫。お店とか任せて大丈夫?〉

〈みさと:もちろんです! 十八時半頃の予約でもいいですか?〉

〈あずみ:うん、いいよ。あとでお店の場所送っておいてくれる?〉

〈みさと:はい! 楽しみにしてますね〉



 美郷との連絡を終え、あずみはぐーっと背を伸ばした。

 何となく、美郷から好意を向けられていることは知っている。だが、一回り以上も年上のおじさんを好きになったっていいことはない。

 ……そうおもうなら、断れという話ではあるが。


 午前九時を過ぎたところで身支度を始め、今日は九月なのに真夏日であるという予報を見て服装も薄手のものをメインに選んだ。薄手でサラッとした黒のTシャツに七分袖の白いジャケットと白いワイドパンツ、白いデザインスエードシューズを選び、仕事の時には使わないシトラスの香水を軽く吹きかけて、いつもとはちがうヘアセットをする。普段は清潔感を重視しているが、今日はただの収録で、夜には食事だ。ウェットスタイルでまとめて、日焼け止めも忘れずしっかりと塗って、ついでに軽くメイクもしておく。ごく一般的なメンズメイクだ。


 支度ができたところでボディバッグに貴重品を詰め、スマートフォンをポケットに入れて家を出る。徒歩五分の駅から目的地まで三十分、そこから少し歩いて早めにスタジオ入りする。今日はせっかくなので専門の技術者も呼んでいる。彼はすでに到着していて、お久しぶりです、と爽やかな笑顔を向けてくれた。



「お久しぶりです、春宮はるみやさん。今日はよろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします。いやぁ、スタジオ収録なんていつぶりですか?」

「あー……二年ぶりくらい、ですかね」

「ですよね? 前にお会いした時より若返ってません?」

「あはは、ヘアセットとメイクのおかげですかね。久々に三連休取れたので、のびのびとメイクもファッションも楽しめますよ」

「おおー、お忙しそうですけど、お体には気をつけてくださいね。まだまだ暑いですから」

「ありがとうございます。春宮さんもお忙しいでしょう。今日は結構ダメ元だったんですけど、お時間を合わせていただけてありがたい限りです」

「あはは、忙しいのはお互い様でしたか。そういえば、今日のボーカリストさんってAZUアズとしての活動では初めての方なんですよね?」

「AZUとして、というか、そもそも歌い手さんでもない方なので収録そのもの初めてですね。声が魅力的な方なので、よかったら一緒に楽曲つくりませんかってお声がけさせていただきまして。妹の友人なんですけどね」

「へえ~! それは楽しみだなぁ」



 約束である十時の五分前にアリカも到着し、お待たせしました~、と頭を下げた。



「おはようございます、アリカさん。さっそく始めましょうか」

「はい、お願いします~」

「おー、本当に綺麗な声ですね! これは出来が楽しみで仕方ないですよ。初めまして、エンジニアの春宮と申します」

「あ……アリカですー、よろしくお願いします~」

「それじゃあ、まずはマイクテストから始めましょうか」



 楽曲の収録はトントン拍子に進んで、初めてとはおもえない歌唱力を魅せつけてくれたアリカに心からの拍手と賛辞を送って、データをもらってから「よければ今日のお礼にお食事でも」と昼食に誘う。

 彼女は快諾してくれて、どこに行きましょうか、と首を傾げた。



「私、あんまりお店知らないんです~……すぐ迷っちゃいますし」

「ああ、それなら近くにカフェがあるので、よければそこへ。俺がいるので、迷うことはないですよ。はぐれないでくださいね」

「はい、ついていきます~」



 スタジオを出て徒歩十分程度の場所にあるカフェに入り、奥の席へ座らせてもらう。

 あずみはブレンドコーヒーとデミグラスオムライス、アリカはアイスティーとカルボナーラを注文した。

 注文の品が届いてから、あずみは「食事がてらですみませんが」と一言断りを入れ、口を開く。



「アリカさんにお尋ねしたいことがあるんです」

「あ、はい。何でしょう?」

「……あなたは、この世界の住民ではありませんよね」

「わあ、すごい。そういうことがわかるんですかー? 噂には聞いたことがあるんですよ~、世界を調律している存在がいるって。あなたがそうなんですかー?」

「そうですね。……そしていま、俺はあなたを元の世界に戻さなければならない責務を担っています。なので、ここで二つの選択肢を提示します」

「ふふ、何ですかー? いいですよー、殺される以外なら受け入れますー」

「そんなことはしません。……一つ目、やさしい眠りについて元の世界へ戻る。二つ目、強制的な眠りについて元の世界へ戻る。……そして、そのどちらも拒まれる場合は、強制送還を行います。どちらがよろしいですか?」



 アリカはニコニコと笑いながら、一つ目ですねぇ、とカルボナーラを口に運びながら答えた。



「元の世界へ戻る意思はあるんですね」

「ありますよぅ。この世界では魔法が使えませんし。帰りたいわけではありませんけどー、帰らないといけないなら帰るべきですよねー? そもそも、別に私だってこの世界に来たくて来たわけじゃないので~」

「そうですか。では、今日はこのままうちに来てください。やるなら早い方がいいでしょう。あまり長居されると世界が狂い始めてしまいますから。すでに齟齬そごが起き始めている部分もあります。いかがですか?」

「はい、いいですよー」

「あっさりですね。難航するかとおもっていました」

「理由は先に述べた通りですー。それに、元の世界なら小説家としてちゃんと仕事を持っていたので、いまの環境はちょっと苦しいんですよねー」

「何だ、やっぱりプロだったんじゃないですか。……では、契約は成立ですね」



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 ──System, wake up.


*イエス、レディ。

*いかがされましたか?


 ──「遠山とおやまアリカ」が「やさしい帰還」を受諾しました。

 ──帰宅次第、すぐにわたくしの──「廣川あずみ」のベッドで実行いたしますわ。


──情報を確認中……

──情報を更新中……


*了解。

*それでは「やさしい夢」をご用意いたします。


 ──ええ、とびきりの「やさしい夢」を。

 ──難航するとおもっておりましたが、かなりあっさりと快諾いただけましたわ。


*そのようですね。

*Harmonizerとしての責務は送還完了にて終了します。

*次の世界が開かれるまで、休息期間になります。


 ──そうね。今回は短い旅でしたわ。

 ──オープンワールドということで、もっと難航するとおもっておりました。


*同意します。

*ですが、Harmonizerとしてはこれが最良の結果です。


 ──Glassから見てアリカさんはどう映りますの?


*不思議な印象はございますが、聡明そうめいな方であると判断します。

*理由としては、二択を迷うことなく理解し、自分にとってよりよい選択をなさったことを挙げられます。


 ──そうね、とても賢い子ですわ。


*さみしいですか?


 ──そのような感情の揺れは感じません。

 ──……でも、あなたが言うのなら、わたくしは「さみしい」のかもしれません。

 ──「廣川あずみ」という人間は存外にわたくしと相性がよかったようですわ。

 ──演じにくいとは申し上げましたけれど、それは慣れていないだけであって、わたくしとの相性はとてもよく、心地よさすら感じられました。


*それは何よりです。

*次の世界でもあなたに適合しやすい対象を探します。


 ──期待しておりますわ、Glass。


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「さて……そろそろ行きましょうか。……心残りはありませんか?」

「はい、ありません。どうせこの世界のことも、あなたのことも、みんなのことも、忘れてしまうのでしょう? それなら、いさぎよくこの世界とさよならするべきですー。私はこの世界で初めてお友達ができましたけれど、それが夢であってもしあわせなことですから」

「やはりあなたは聡明ですね。……仰る通り、この世界へ来る前の時間軸に戻り、この世界はあなたを忘れ、あなたもこの世界を忘れます。俺──わたくしだけが、あなたを覚えている。わたくしは世界の調和者Harmonizer、調和してきた世界のことは覚えております。あなたがこの世界で生きてきたことも、わたくしにすばらしい歌を聴かせてくださったことも」

「……そうですか。あなたが覚えていてくださるなら、それでいいですよー。誰かの中に残れるのなら、それ以上のことはありません。……行きましょう」



 徒歩と電車を合わせておよそ五十分、「廣川あずみ」の自宅に到着した二人は早々にあずみの私室へ入った。妹のかすみは大学に行っているため、見られるような心配はない。……見られたとしても、あずみ──Harmonizerが余計なことをしなければ記憶に残ることはない。



「ここに横になってください。肩の力を抜いて、目を閉じて」

「はい」

「これから見るのは、あなたが望む未来と願う夢……叶うかどうかはあなた次第。ですが、その断片をお見せします」

「……はい」

「ごゆるりとおやすみくださいませ、アリカ様。……おやすみなさい、よい夢を」



 あずみのベッドに横たわって目を閉じたアリカはHarmonizerがそっと目元に手を翳して数秒ののちにすう、と眠りの世界に落ちていった。


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──対象人格「遠山アリカ」の入眠を確認しました。

──これより対象世界へのアクセスを開始します。

──アクセス処理中……


──対象世界へのアクセスに成功!


──対象人格を対象世界へ返還します。

──返還処理中……


──返還処理完了!


──お疲れ様でした、Harmonizer。これにて業務完了です。


*この世界からの離脱を行いますか?


 ──……少しお待ちいただける?

 ──少しだけで構わないの。


*承認しました。

*離脱の際にはお声がけください。


 ──ええ……ありがとう。


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「……おやすみなさい、さようなら」



 すうっと透明になって消えていくアリカをじっと眺めながら、Harmonizerは静かに呟く。

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