おれは家を出ると、真っ先にお隣の家へ。
しかし離れの家は鍵が閉まっていて真っ暗。
「いないのか……」
その瞬間。
ものすごい衝撃と痛みが背中に走る。
反動でごん、とドアにでこをぶつけ、うずくまった。
「あっ、な~んだぁ! よく見たら翔くんじゃなぁい」
ふんわりと甘い口調でそういったのは。
顔を確認しなくてもわかる。
外見と口調からは想像もできないぐらいに、暴力的な女子は、おれはひとりしか知らない。
「なんだと思ったんですか……」
おれはようやく立ち上がり、相手を見る。
金色の長いストレスヘアーに、掘りの深い整った顔立ち、華奢な体つき、そんな体を包むのはセーラー服。
麗の姉である。
ちなみに落ち着いた色合いのセーラー服は、女子校である。
高校三年生。
まるで女神のような見た目をしているが、見た目だけだ。
「だってぇ~泥棒さんかと思っちゃったんだもん」
「すんません。勝手に庭に入って」
「いいの~。泥棒さんじゃないなら危害加えないから~」
ふんわりと笑う女神からは、殺意が消えていた。
泥棒だと思ったから飛び蹴りってすごいな、相変わらずだ。
「ねぇねぇ。麗ちゃんね、もう学校行っちゃの~。なんだかす~ごく重い物抱えてね~」
「そうですか、ありがとうございま――」
礼だけいって退散しようとした時。
ものすごい力で腕をつかまれた。
その細い指の、どこにこんな握力が。
「ねえ、お茶、飲んでいって? スコーンもあるの~」
姉は、「ね?」と小首を傾げてサラサラの髪の毛を揺らす。
このシチュエーション、普通の高校生男子なら胸がときめくシチュエーションなんだろう。
しかし、おれはこの女神の本性を知っている。
だってほら、右手に握られているのは、包丁……。
ぞわっと背中に悪寒。
おれの視線に気づいたのか、姉はいう。
「あっ、これね~。泥棒さんだったら、これで刺してあげようと思ってたの~うふふ」
「それは正当防衛ということですよね?」
いきなり刺したら、過剰防衛になるよう気がするがそれはいわないでおいた。
なにせ相手は鋭利な刃物を所持しているのだ。
「そう。もし、翔くんが泥棒さんだったら~、今月で三人目の犠牲者になるところだったねぇ」
「え、三人目? 犠牲者?」
「わたしとママのストーカーがねえ、いるのよお。ああ、いたの間違いねえ」
姉はいうと、包丁に視線を落として続ける。
「よかったぁ。まちがえて翔くんを刺しちゃわなくて……。本当に」
「あの……。ストーカーを、その、どうしてるんですか?」
恐ろしくなって聞いてしまった。
「大丈夫。殺さないわ」
姉はそういうとにっこり笑った。
ホッとしたのも束の間、彼女はこう続ける。
「殺してしまったら、再起不能にできないじゃない~」
「えっ」
「法的にギリギリの範囲でぇ、いたぶ……じゃない、こらしめるのがいいのよぉ」
姉は幸せそうに、まるでスイーツの話でもするかのようにいった。
いま、いたぶるっていいかけたよな……。
ダメだ、逃げよう。
そう思うものの、包丁が怖すぎて動けない。
「それじゃあ、家に入りましょう」と姉にいわれるがまま、連れて行かれる。
包丁には、赤黒いシミがいくつもある。
いや、気がするだけ、だよな……。
おれは泣くのをこらえて、学校へと向かった。
ようやく、ようやく解放された!
本当に怖い思いをした。
麗の姉の、「お茶」というのは建前で。
今まで自分をいじめてきた人間、ストーカーをしてきた男たちなど。
そういう奴らを捕まえて、どうやって社会的に抹消し、尚且つ、これから一生、怯えて生きることになるということまで知らしめているのだ。
こいつは、こうやってまずは社会的に抹消して一家離散もした、実際にこいつは痴漢をしていたから人間のクズだから、生かしておくだけマシ、みたいな話を延々聞かされた。
笑顔で、今までこらしめた人間の悪行の数々と、姉がした報復の詳細を聞くのに、スコーンとジャムとクロテッドクリームは重すぎた。
ミルクティーじゃ流し込めないくらいに。
確かに人をいじめたり、ましてや犯罪をするのが悪い。
しかし、だ。
それらに対して報復――しかもえぐいやつを聞かされるのは楽しいはずがない。
そんなこんなで、おれは泣きそうになりながら学校へ向かっているのだ。
心の洗濯機で、気分良くなりたい。
そのいっしんで、ただひたすらに歩いた。
「うおっ、なんだこれ」
学校について、真っ先に行ったのは化学準備室Ⅱだ。
もう、おれはここに登校しているといっても過言ではない。
そんな本当の意味でのおれの教室、化学準備室Ⅱのドアを開けた瞬間。
なんかデカいものが狭い部屋を占領していた。
その機械の前には、麗が立っていて、こういう。
「あっ、タイミング良すぎ~。今完成したの」
にっこりと麗が笑う。
なんだかホッとする。
姉とはちがう、心からの笑顔だ。
ちょっと元気になったおれは、麗に聞いてみる。
「なにこれ」
「これはねえ。『心の洗濯機』だよ」
「なんか前よりデカくなかったな。洗濯機二つ…いや三つ分はありそうだ」
「だって二人同時に入れるようにしたんだもん」
「二人同時かあ」
「これで三分待たなくてもいいんだよ!」
「三分くらい待てるだろ」
「いや! わたしはタイパ重視の現代っ子だもん」
麗はそういって首を左右に振る。
「それにー、パワーアップバージョンは、中での居心地がさらに良くなってるの」
「居心地っつーか、妄想だろ?」
「入ってみればわかるって」
「まあ、そのつもりだったけど」
おれがいうと、麗はうれしそうに笑った。
麗のいう通り、中は以前にも増して快適だった。
なぜなら、洗濯機の中には豪邸があったのだ。
映画に出てきそうな洋風の城のような外観の屋敷は、部屋数がバカみたいにある。
そんなに広いなら、移動が大変そうだが。
そこは妄想。
ドアとドアがつながっているのは、隣の部屋ではない。
ドアを開ければ、行きたい部屋につながる。
リビングから寝室に移動したいな、と思ってリビングのドアを開ければ寝室に。
寝室からトイレに行きたいな、と思えばドアを開ければトイレ。
寝室から書庫に移動したいと思えば、ドアは書庫へつながる。
すごいのは部屋だけではない。
広い食堂には世界各地のコーヒー、ジュース、紅茶がそろい、コンビニの新作の飲み物なんかまである。
日本、世界各国の料理と色々な店の料理も並んでいる。
スイーツもある。
しかもこれぜんぶ無料。おれの好きなものばっかり。
まあ、おれの妄想だしな。
あれ、でもおれが別に好きでもない料理やスイーツまである。
まあいいか。
映画は屋敷のシアターで見放題(観たことないのもある)
本はおれの好みと、あと知らない本もちらほら。
温泉、コンビニ、美容院、ネイルサロン。
これらがすべて屋敷の中にあるのだ。
あれ、ネイルサロン?
おれは少しだけ考えてから、ドアを開ける。
ドアの向こうは、ピンク一色の部屋。
ぬいぐるみに埋もれた麗が、手を振る。
「あれ、なんでいるんだ?」
「だからふたりで同時なんだって」
「そういうことなのか。じゃあ、おれと麗は妄想の中でいっしょなのか」
「そゆことー」
「なるほど。それがわかったら安心だ。おれはコーヒー飲んでくる」
おれはそれだけいうと、ドアを開けた。
食堂で美味いコーヒーを飲んで、一息つく。
ああ、癒されるなあ。
ずっと、ここにいられたらいいのに。