◇◇◇
先程の懐かしい雰囲気の中。私、
(……TELで社長に呼び出されて、久々に日本に帰って来たんだけど。……相変わらず変わってないわね、此処は)
目に入ったコンクリートの外壁。今は風化で所々剥がれており霞んでいた。
此処は元々活気盛んだった飲食店たちだった。古びた看板を見ると本当に、数年前と変わらない路地裏はひどく懐かしく荒れた心を包み込んでくれる。
まるで……此処だけが現代に置いていけぼりをされたような空気と存在感。
妙に好きだった時代の記憶。久々に、母国の地に歩いているんだ、という喜びを噛み締め一歩ずつ足を進める。
だが、一つだけ変わったことがある。
前はよく日本でのシゴトを終わらせた後、私は、毎回この近くの居酒屋
そして、お気に入りの日本酒を呑み、プライベートを楽しんでいたのだ。
その店に来ていた常連のオッサン……ではなく、昔のお兄様たちと下らない話をしたり聞いたりして、奢ってくれたことが多々あった。
その時によく言われていたことがあるーー
『いや〜、こんな美人ちゃんと酒を呑めるって最高すぎる!!』ーーと
だが、今はその店は消えた。
目の前の錆びついたシャッターに、去年の夏の末日に閉店したと記載されたポスターが寂しく張られている。
この不況と流行性の強力なウイルスの影響で、営業するのが厳しくなったのだと思う……。
その埃まみれと雨風の影響で萎れたポスターが時代の勝負に負けた哀愁感が物語っていた。そんな状態を悲しくも目の当たりにして、無意識に呟いてしまう。
「最後に飲みたかったなぁ……《伯鈴》」
ーーそう本当だったら、あの時は飲めるはずだったのだ!
飲む前に、ほのかに鼻腔に擽る柔らかみのある甘い米の香り。
次に一口含んだ瞬間に広がる、滑らかな舌触り。舌の上で転がせば転がす程、ピリっときて深く浸透するように喉にスゥ……、と消える飲みやすさ。最後に残る優しい後味。
私の大好きなお酒!お気に入りの日本酒!!
(ーーそう!三年前は飲めるはずだったッッ!!でも、飲める機会が無くなったのだ……!)
ーーあの糞ガキのせいでッ!!
私は、ある五歳年下の糞ガキのせいで海外へ飛ばされた。今の職場であるイタリアへ。
これから会う社長を言いくるめやがってッ!……じゃなくて、海外に行かせるように仕向けたのよね。
お陰様で、社長から
「実はね、今回のシゴトで推薦があったんだよ。
『ぜひ、耀さんをオススメします!イタリア語だけではなく、色んな言語を話せますからね。そんな凄い人は日本にいるのは勿体無いと常日頃から思っていたんです……。社長、お願いです!耀さんの才能を今より発揮できるように手配して下さい。このままだと……、耀さんが不憫で。
それに……僕、耀さんを尊敬しているんです!!(嘘)』
と……あの子から、熱のある推薦を聞いてね。是非、お願いできるかな?耀」
事務所の応接室で突然言われた、三年前の一番暑い夏の時期。
話しが出た瞬間……私の思考内は季節と正反対に変わった。
もう、一気に真冬を通り越して氷河期に、というのが正解なのか……もう、凍死レベルで。
でも、そんなことを知らない社長はーー
「良かったね、耀。君の頑張りを、ちゃんと見てくれて
良い友人を持ったね、耀」
と心から嬉しそうな声色で応援された。
言いたい……
すんごく、言いたい。
というか、叫びたいほどに
(ーー社長ッ!貴方、アイツに騙されてますよーーッッ!…って)
そんな流れで断れる訳もなく、すぐに異動先に飛ばされた。
あの糞ガキ…、
ーーというか、尊敬してるなんて嘘でしょッ!?こちとら、アンタの考えなんて分かってるわよ!あの腹黒がッッー!!
人が良さそうな下がった目尻に、社交性の高い弁舌さわやかな人と周りに認識されている腹黒のア・イ・ツ!!
確か、最後に会ったのが……私が異動先へ向かう為に飛行機に乗ろうとしたニ時間前。
ラウンジで、〈なんとかなるさ精神〉でいつもと同じように、ゆっくりとしていた時だ。
ーーアイツが現れた。
「あれー?耀さん、奇遇ですね〜!」
右隣から聞こえてきた、穏やかな口調。共に場の雰囲気を和ませる高めのアルト調の声色。
(……ッ、神龍時 宇宙!!?)
偶然だとしても、会いたくなかった。
せっかく前向きになってきた気持ちがドン底に落とされ、負の感情が蘇ってくる。
ーーダメだ!
「……そうね。お久しぶりね。何年ぶりかしら?兄弟の皆んなは元気??」
「はい、おかげさまで元気ですよー☆」
「そうなの。今日はどうしたの?旅行か何かで??」
「……ん?僕ですか?僕はですね、取材に行くんですよ〜。次回作の小説のストーリーで必要になりましてね。と言っても、西日本方面ですけどね」
「へぇー…そうなの」
「あ!もしかして……今から〈イタリアへ異動〉ですかぁ〜?耀さん」
その言葉で、時が止まった。
正確には、私の中でだ。嫌でも確信を得てしまった。
(コイツ……ワザと此処に!?)
ここに来たのは、偶然じゃない!! こちらに合わせて来たんだ。態々、
そう結論出た瞬間、私の中に何が弾けた。無理矢理抑えていた黒い〈ナニカ〉が一気に身体中を駆け巡っていく。
ふと数年前、アイスランド で見た火山のマグマが、乾いた土地に新しい亀裂を入れて所々に噴火爆発した光景を思い出した。
あの時は、
(まるで普段怒らない人間が、一気に怒りを爆発をしたような光景と似ているなぁ……)
ーーと、ふと思ったものだ。
あれって、けっこう周りを驚かせる行動よね。
(でもさ……そんな感情って、ビジネスには良い結果を生まれないもの……)
共に他人事のように冷めた感情も生まれた。
でも、実際はそうなのだ。
静かに傍観していたマグマの光景と現在の私が瓜二つと結論を出すと鼻で笑ってしまいそうになる。
それは、ーー人間臭い自分自身に対してにだ。
(今の私の表情は、ちゃんとビジネス用の顔つきになっているのだろうか……?)
そりゃ、そうだろう……コイツの一言から始まった海外への異動。
国内にいる友人と数年別れなければならなくなったのだ。しかも、海外へ一人でだ。
そう思えば思うほど……私の中で生まれた黒いナニカが濃くなっていき、理性では抑えきれない程、溢れてくる。
自分でも、分かる。この感情の正体は……
自分でも抑えきれないほどに湧き上がってくる殺気。周りの空気を痛めつけて、ピシ…ピシ…ッと悲鳴をあげさせてしまうほどに。
鎮めなきゃいけないのに止まらない、この感情。
「やっと……ちゃんと、
予想外の返答が降ってきた。
駆け引き用の顔ではないーーといえば良いのか。まるで無邪気な少年のような表情。
それは心底嬉しそうな笑顔で、一筋の涙をする相手に言葉を失ってしまった。この話の流れで涙を流すなんて、意味が分からないからだ。
すると、スッ……と目の前に差し出された彼の小さな手鏡。
疑問を持ったまま、そこに映し出されたモノを目に後悔をしてしまった。
そこに写されていたのは……感情のまま理性のカケラなんて一粒も残っていない有機物。
いや…、
闘争心と殺意が入り混じった恨みの表情の女がいた。つまり、
ーープライベートモードの私がいたのだ。
目の当たりにし思考がフリーズをしたが、職業柄すぐにビジネスモードに戻る。
こんな、失態を犯すとは情けないが反省会は後だ!簡単な挨拶をしその場を去ることに切り替えた。
「……私、そろそろ行かないと。それじゃ、元気でね。ご兄弟の皆んなに宜しくお伝え下さい。」
「………《また》ですか、ソレ。まぁ…良いですよ今回は。とりあえず、それじゃ、また」
先程から意味の分からないことを言ってくる相手。不思議に思ったが、一秒でも早く立ち去りたかった私は社交辞令をしこの場を去った。
この件は、三年後になった今でもーーその意味が分からないまま。