✦✦✦ 《解き放たれし異端》 ✦✦✦
「……異端の召喚者Kは、セリア様の管理下に置く」
神官の一人がKを一瞥し、視線を逸らした。
その目には、認めたくない現実を飲み込むような、わずかな苦渋が滲んでいた。
その宣告が下された――ほんの直後だった。
神殿の床に走った一本の亀裂は、光を吸い込むかのように黒く、細く。
まるで静脈のように生きて這い、Kの足元で瞬時に拡がっていく。
石畳が軋み、割れ、下から“影”が噴き出した。
……床が、裂けた。
黒い影が、Kの足元から飛び出すように広がり、神官たちの足元に届いたその瞬間――。
影が地面を引き裂く。獣の口のように、そこに“喰らう意志”があった。
「――ひ、ああああああっ!」
飲み込まれた男の悲鳴。
しかし、次の瞬間、ふとKは自分の手を見下ろす。
指先がわずかに震えていた。
……Kの中から黒い影があふれた。止めることはできなかった。
否定したかった。けれど、その一部を認めてしまっている自分がいた。
怖さと共に、それを“自分自身”だと、どこかで認めてしまっているのも事実だった。
逃げる神官たちを、影は執念深く追い、何人かを黒い裂け目へと飲み込んだ。
神殿は、地獄絵図と化した。
Kはその光景に、思考を止めたまま、ただ立ち尽くすしかなかった。
「否定した。何度も。でも――どうしても、あれを“他人”にはできなかった」
……けれど。
それを認めてしまった途端、Kの奥底で、何かが軋む音がした。
影を受け入れた自分自身に、嫌悪すら湧いた。
「……違う……こんなの、俺が選んだわけ、じゃ……いや、違う……のか?」
その声が、K自身のものなのかさえ、わからなかった。
そのときだった。
神官たちの背後、召喚者名簿の記録盤が突然バチバチと火花を散らし、文字が崩壊を始めた。
「名簿……記録が……焼き切れていく……?」
「まさか……本当に……」
年嵩の神官がひざをつき、震える指で印を切ろうとするも、力が入らない。
名簿の名前が、ひとつずつ黒く染まり、消えていった。
焦げた匂いだけが、やけに生々しかった。
薄暗い室内に、焦げた硫黄の匂いが立ちこめる。
記録盤の文字が崩れ、黒い焦げ跡だけが残った。
誰の名前だったかなんて、もう誰もわからない。ただ、“いた痕”だけが焼きついてる。
その隙間で、赤い光が揺れていた――焼け跡に残った、名もなき想念のように。
Kは、ただ黙って見ていたが、気づいていた。
この世界は、最初から“自分なんか、いなかったことにしようとしていた”。
Kは静かに拳を握りしめた。
崩れ落ちた命の台帳と、その仕組みの残骸を前に、胸の奥で何かが静かに疼いていた――。
怒りとも、悔しさともつかない感情が。
制度は、まだ動いている。
けど、もう“無傷”じゃない――それだけで、意味がある。
意志とは無関係に動く、正体のわからない“何か”。
それは確かに、自分の奥にいる。なのに、どうしても届かない。
影はようやく沈黙した。
神殿に残ったのは、逃げ惑い、息を呑む者たちと……静かに立ち尽くすKだけだった。
……その時だった。
神殿の奥――。
召喚の制御核と呼ばれる巨大な魔導装置が、悲鳴のような軋みを上げた。
石造りの柱に刻まれていた“召喚者評価の紋章”は、
淡い光を放ち、ひび割れののち静かに崩れ落ちた。
その直後、名簿の記録盤が火花を散らし、焦げた煙をあげはじめる。
奥に控えた評価装置から、鉄が軋むような呻き声が響いた。
Kの影が触れた、その瞬間。心臓部が内側から悲鳴を上げ、壊れ始めた。
「なっ……!? 制御核が……っ!」
――触れた瞬間、何かが“止まった”。
時が流れていない錯覚。
呼吸さえ、遠くにあるようだった。
次の瞬間、ひびはまるで生きているかのように脈打ち、
金属の悲鳴が建物の奥からこだました。
召喚者を測り、縛ってきたこの制御核の中心が、ゆっくりと内側から裂けていった。
パンッ、という乾いた音。
続いて、ひび割れが血管のように装置全体に広がる。
金属の外殻が、まるで脱皮するみたいに、じわじわと剥がれ落ちた。
破片が落ちるたび、内部から赤黒い煙が漏れ、神殿の空気を重く染めた。
崩壊の音は、心臓の鼓動を真似るかのように、「ドクン、ドクン」と響いていた。
書かれなかったのなら、いっそ自分で書き換えてやる。
“数えられない”存在が、制度のものさしを歪ませた。
その瞬間、誰もが気づいていた。
――こいつは、ただの異物じゃない。
世界にとって、脅威であり、……可能性だ。
Kは、砕けた制御核の欠片を見下ろした。
燃え残った息を、そっと吐く。
胸の奥に――確かな熱。
あの絶対と思われた秩序に、自分の手で亀裂を入れた。
静かに、それを“確信”と呼んだ。
口に出すまでもない。
でもその静かな自覚が、彼の中にあった。
……これで、よかったんだろうか。
全てが静まり返ったそのとき、Kは確かに感じていた。
理解なんてされなくていい。存在は、消させない。
記されることも、間違って消されることもなかった。
最初から、何もなかった。……でも、それでも。
その意志が、確かに“何か”を穿った。
――勝ちじゃない。ただ、戻れない場所に、線を引いた。それだけだ。
✦✦✦ 《異端の価値》 ✦✦✦
……そしてこれは、すべてが崩れる、少し前のことだった。
始まりは――あの女の、ひどく静かな声だった。
【神殿内/対話中】
高い天井に、鈍い光が差し込んでいた。
石造りの柱が長い影を伸ばし、空気は静まり返っている。
まるで、誰かの裁きを待つ法廷のようだった。
この世界では、命すら数値で計られる。
冷たい石造りの空間に、女の低い声が響いた。
「魔力を吸って、戦わせて、壊れたら捨てる。……それで世界が回るって? 誰が笑えるのよ、そんな地獄」
セリアは冷静に言った。
だがその声には、かすかな痛みが混じっていた。
まるで、過去を踏みつけてでも前に進もうとする者の、それだった。
「異端に情けをかければ、秩序は腐る。……君はまだその“汚れ”を知らないのだ、セリア様」
――神官長・ユリウスが、冷ややかな目でKを見下ろしていた。
「価値を測れぬなら、それは“飼い主のいない獣”と同じ。殺されても文句は言えまい。この世界じゃ、それがルールだ」
Kは、その言葉を噛み殺すように聞いていた。
まるで自分の存在を、数字ひとつで切り捨てられるような気分だった。
セリアは小さく肩をすくめ、息を吐いた。まるでその言葉自体に、意味などないとでも言うように。
「この世界の秩序を維持するために、力を持つ者は取引され、流通する。まるで、財産みたいに」
……財産、ね。
Kは思わず深く息を吸い、静かに吐き出した。
命まで“資源”扱いか……理屈としては、わからなくもない。
異世界人なら、情なんて湧かない――知らなければ、なおさらだ。
……けど、それって、結局家畜と何が違うんだ?
セリアは続ける。
「……測りもせずに、切り捨てる。それを“合理的”って? 本気で言ってるの?」
セリアの声は静かだったが、その芯には揺るぎない強さがあった。
Kはその言葉を噛み締めながら、自分の状況を理解し始めていた。
「測定不能……制御なんて、最初から無理だった……これは“異端”なんかじゃない。
ただの、“異物”だ。神殿ごと巻き込む恐れも……」
「……だが、うまく制御できれば……使えないこともない」
神官たちは声をひそめ、危険物としてKを分析していた。
セリアは口元に、意味のわからない笑みを浮かべた。
神官たちはそれを“余裕”と見たが、Kにはわかった――それは怒りだった。
――けれど、その“微笑”こそが、すべての始まりだった。
✦✦✦
【次回予告 by セリア】
「名前が残らない者には、"声"すら届かないって、みんな思ってる。
でもね……記録に残らなくても、“遺る”ものって、あるのよ」
「次回、《拒絶された記録:後編》――声なき者が、制度を穿つ」
“例外”として封じられようとしたKが、いまや“記録不能”を超えて、“共鳴”という名の証明を手にする。
過去に葬られた存在――その声が今、Kの中で目を覚ます。
神殿が恐れたのは、力そのものじゃない。
忘れられた想いが、誰かの胸に火をともすこと――それが、いちばんの脅威だった。
「記録されない想いは、いずれ忘れられるって? ええ、たいていは。でもね――“たった一人”がまだ燃えていれば、それで十分。制度なんて、脆いものよ」