✦✦✦《引き取る者》✦✦✦
「……セリア様、まさか本気で?」
神官の問いかけに、彼女の視線が一瞬だけ揺れる。
だが、目の奥にある意志は崩れなかった。
「……私が引き取るわ」
冷たい光が差し込む神殿の窓から、斜めに伸びた光がセリアの横顔を切り取っていた。
影の中で揺れるその瞳は、まるで何かを断ち切る刃のように静かに光っていた。
沈黙が落ちた。だが彼女は目を逸らさない。
「もし失敗したら、私ごと“処理”されるかもしれない。……でも、それでも、黙って背を向けるよりはマシ」
セリアは少し肩をすくめて、皮肉げに笑った。
「信じるとか、もう無理よ。でも――願うのは……やめられなかった」
「あの子も、記録に残れなかったのよ。だから今度は、私が見届ける番」
その言葉の温度と、目の奥に宿る何か――その微かな“ズレ”に、Kはざらつきを覚えた。
「……何か、違う。言葉はあったかいのに、目の奥は……ズレてる」
気のせい……か? ――いや、そんなこと、今さら気にしてどうする。
そのつぶやきが、Kの胸の奥に小さな波紋を落とした。
セリアの言葉が胸に引っかかった。
積み上がった声を無視して進んでた。その重さに今さら足を取られるなんてな……。
期待なんて、とうに捨てたはずだった。
……けど、“俺”を見た、その目だけは――なぜか、捨てきれなかった。
セリアが静かに口を開いた。
「……未来なんて、別に見たくない。……けど、“あきらめた顔”だけは、もう見たくないのよ」
――それでも。
「それが成功すれば――“何もかも”覆せるかもしれないから。私にとっても、きっと」
セリアの瞳が鋭く光り、Kをまっすぐ貫いた。
「あんたがその価値を証明すること。それが、“制度”にとって最大の皮肉になるのよ」
「……昔にもいたのよ。『ムリだ』って、誰もが言い切った“枠外”の召喚者」
石造りの空間に、長い沈黙が落ちた。
「……最後に見た、あの瞳だけが、今も焼きついてる」
「名前も記録も残らなかった。でも、あの瞬間だけは、ずっと消えなかった」
セリアは一瞬だけ視線を落とし、すぐに細い笑みを浮かべた。
「だから今回は違う。あんたは――見逃さない。
私はもう、誰も“記録にすら残らない”まま、死なせたくないの」
その声には、過去を見つめるような遠さが混じっていた。
笑っていても、その端に滲む痛みは消えていない。
「……ほんと、やってらんないわね」
Kは彼女の横顔を見つめた。言葉にはならない、喉の奥が詰まるような違和感――それが、じわじわと胸に広がっていた。
あの言葉――“信じた”という声が、どこかで自分にも向けられているように思えた。
でも、それがどうしてなのか、彼自身にもわからなかった。
「――だからこそ、今回は見極める。本物か、幻想か」
セリアは一瞬だけ目を伏せ、すぐにKをまっすぐ見据えた。
「でも、あなたは……あの子たちと、なにかが違う。理由はまだ、わからないけど」
――目が、似てる。
あのときの子も、最後まであきらめなかった。
……でも、結局は失敗だった。
――あのとき。
灰色の空。崩れかけた召喚陣の中心に、立っていた“あの子”。
最後まで誰も名を呼ばず、記録にも残らなかった。
けれど――確かに、その瞳だけは焼きついていた。
胸の奥に疼く、あの刻印。黒く螺旋を描く、制度の拒絶反応。
当時は“事故”とされた。だが、あの子の背中にも――Kと同じ印が、確かにあった。
あれは……第十一の例。
あのとき消えた“存在しなかった子供”が、もし今――Kの中で、何かを残しているのだとしたら。
……あり得ない。でも――それでも。
今度こそ、ちゃんと見極めなきゃ。
せっかく“ここまで来た”んだから。
セリアがそう言った瞬間、空気が――ねじれた。
神官たちが顔を見合わせ、誰かが低く呟いた。
「……測定不能の“例外”、か。まさか、本当に制御できるとは……?」
誰かが震えるようにそう呟いた次の瞬間だった。
――ドンッ。
地面がうなりを上げた。
神官たちの視線が一瞬でKに集中した、その刹那。
空気が変わった――まるで、静電気が空間を包んだような微細なざわめきが、足元から這い上がる。
だが、それは音ではない。圧力だ。
影が波打ち、まるで足元から“夜の底”がにじみ出すように広がった。
蠢く漆黒の奔流は、禍々しく、それでいて迷いなく――空間全体を“威圧”するように広がっていった。
空気が軋むように震え、誰かの喉がひゅっと鳴った。
まるで、“俺の怒り”に形を与えたかのように。
……そのときだった。
体の奥で、何かが軋んだ。
押し込めていた何かが、裂けるように――俺の中で、黒く光を漏らした。
影は動かない。それでも、それは伝わったのだ。
「――!」
神官の一人が反射的に魔法障壁を展開した。
だが、その顔にははっきりと恐怖が浮かんでいた。
神官たちの顔から血の気が引いていた。
一人は無言で呪文を唱え続け、言葉にならない祈りを繰り返していた。
別の一人は笑っていた。
震える唇で、壊れたように「こんなの……冗談だろ」と呟きながら。
逃げ出そうとした若い神官が、転倒して地面を這う。
の顔は、もう土の色すら通り越して、冷たく青く染まっていた。
誰もが武器に手を伸ばしかけたが、足は震え、腰は抜けたままだ。
壁に背を押しつけ、何かに許しを請うように震えていた。
神官たちはKを“脅威”として見ていた――もはや、意思ある存在とは扱っていない。
Kは、足元から広がる影の動きを見つめた。
まるで“あれ”が、自分の中の何かに応えるように――静かに、確かにそこにいた。
「見てたのかよ……お前も、ずっと。……だったら――行くぞ」
セリアは目を細め、静かに呟く。
「……それが“答え”? ほんとに、それ見せるんだ……アンタ自身で」
Kは何も言わなかった。
……あれが俺の“意志”なら。
でも――あれは、俺だけのもんじゃない。
あの声には、諦めきれなかった“誰か”が混ざってた。
……そうだ。俺の中で、あいつが目を覚ましたんだ。
……何かが、染み込むように伝わってきた。
「やれた」と。
――それが“勝ち”なのかは、まだ分からない。けど……。
神官の口元がわずかに引きつる。
迷いと、否定しきれない苛立ちがにじんでいた。
……その瞬間、Kは、そう“思ってしまった”。
否定を崩した? いや、ほんの――気のせいかもしれないけど。
言葉はいらない。
俺を否定した制度に、今度は……俺が、本当に楔を打てたのか。
ただ、揺らいだ。……それでいい。今は、それだけで。
✦✦✦《記録なき声》✦✦✦
なら、この先も――この歪んだ世界に、風穴を開けてやる。
ただ、セリアの言葉が胸に引っかかっている。
……「違う」と言われたって、あの声だけは、置いていけない。
……あの声が、まだ胸の奥に残ってる。
……誰の声か、なぜ焼き付いているのか――そんなの、わかるはずもないのに。
それでも――あのとき、確かに聞いた。
不意に脳裏に浮かんだ声――『お母さん、元気かな……うーん、でもたぶん、またあの庭いじってるよね……たぶん、白い花ばっか育ててるんだ』
誰だ? 誰の声だ? ――語尾の調子と、言い回し。
……どこかで、聞いた気がする。誰だった……?
記憶か? いや、違う。これは“誰かの想い”だ。
幻聴かもしれない。それでも――この声だけは、消せなかった。
名簿から消えた存在。刻まれなかった記録。置き去りにされた声。
意味なんて、わからない。
でも俺は――たしかに、この声を覚えている。
「……これ、俺の記憶じゃねぇよな。……誰かの、想いか……?」
誰かが、どこかで、自分と同じように――名前を奪われ、記録を拒絶され、
それでも“残ろうとしていた”。
……俺だけじゃない。
世界のどこかに、同じように“測定不能”とされた奴がいる。
そして今も、生きている。
そんな気がしてならなかった。
……本当に、俺だけじゃないのかもしれない。
✦
セリアは、ふと遠い記憶を思い出していた。
……あの時の子も、同じだった。
名も記録も残らなかった、制度に拒まれた召喚者。
そして――。
制度の記録は、こう書いていた。
“第十一の例”。名簿にも魔力計測にも痕跡を残さなかった、完全な異物。
公式には“事故死”と処理されたが、背にはKと同じ、黒い螺旋の刻印。
「……もし、Kが、あの子の“声”なんかを――聞いたんだとしたら」
繋がっている。
生きている。
そんな、あり得ないはずの“共鳴”が、現実のものとして浮かび上がろうとしていた。
セリアの胸の奥が、ひどく静かに締めつけられた。
不安でも、希望でもない。……確信だった。
……確信だった。
その瞬間、Kの胸にも――何かが、静かに触れた。
記憶ではない。思い出せない“誰かの声”が、心の奥に波紋を広げる。
同時に、聞き覚えがあるはずもないその声に、Kの胸が締めつけられた。
何かが、痛みとなって心の底を揺らしていた。
✦
黒い影が、わずかにKの背後で揺れた。
まるで祝福のように。
こんな制度の都合で、俺の幕を引かれてたまるかよ。
終わらせるときは、俺が、俺の手で終わらせる……“誰のものでもない価値”でな。
安心なんて、できるわけがない。
Kは深く息を吐いた。
これで終わりじゃない。
今はなんとか生きている。
でも、この先は……誰にもわからない。
終わらせたくねぇ。でも、じゃあどうすりゃいい?
……黙ってても、また全部、見捨てられるだけだ。
こんな仕組みに、勝手に幕を引かれてたまるか。
「否定されたって、あの声だけは忘れられねぇよ……止まれって? ふざけんな、止まっても誰も振り返らねぇだろうが……!」
始まり? そんなもん、後ろから追いついてくりゃいい。
今は……ただ、やるしかねぇんだ。
――これは、俺が“この市場に立たされる”少し前の話だ。
この胸に残った声が、世界を変える。
それが、俺の始まりだ――そうでも思わなきゃ、やってられない。
あの声は、あいつらの制度のどっかに……きっと、“ヒビ”くらいは……いや、それでも、か?
遠く、誰もいない記録盤の中心に、ひと筋の黒い亀裂が浮かんでいた。
誰にも知られないまま、それはゆっくりと広がっていく。
まるで、誰かの意志が世界に爪痕を残すように。
――それでも、あの声はまだ、胸の奥で呼んでいた。
そしてそのとき、遠くのどこかで――。
記録されない“もう一つの存在”が、静かに目を開けていた。
Kはただ、小さく呟いた。
「……俺の番だ」
✦✦✦
【次回予告 by セリア】
「“記録に残らない者”――制度はそういう存在を、“例外”じゃなく、“排除対象”と呼ぶの」
「……でも、その声、届いたのよ。
届かないはずだったのに――届いたの。……それって、なんだと思う?」
「次回、《価値の審査:前編》。
制度が価値を決めるなら、私たちは何を信じればいいのかしら?」
――その価値、本当にないって、言い切れる?