✦✦✦ 《審査の間にて》 ✦✦✦
Kの頭に、ふと疑問が浮かんだ。
――“価値”って、誰のものなんだ?
真っ白……のはずなのに、どこか“囲まれている感じ”がした。
床も天井もないのに、なぜか息が詰まる。
目を覚ました瞬間、そこにいた。
“試される”。そんな言葉が、誰の声でもなく、頭の奥に染み込んでくる。
ここは、“価値審査の間”。
響きだけは、どこか……懐かしい。でも、思い出そうとすると霧がかかる。
空間には誰もいないのに、視線を感じる。
その違和感が、Kの居心地の悪さを際立たせていた。
空間の奥から、足音が響いた。
現れたのは、青銀の瞳を持つ女――セリア。
肌に触れれば凍てつきそうな、完璧すぎる微笑を浮かべていた。
光のない空間に、彼女だけが淡く発光しているように見えた。
足音だけが、やけに冷たく、鏡面じみた床を叩いていた。
その歩調は、誤差なき静寂そのもの。
まるで、時を刻む振り子が“空間”そのものを整えているかのようだった。
「お目覚めね。ようこそ、“価値審査の間”へ。――ここは、存在の価値を“刻まれる”場所」
その声は、誰の感情も帯びていない“空の音色”だった。
冷たいほど整っていて、魂ではなく“理”だけに触れる。
「……審査って、何の?」
「名前、ないんでしょ? じゃあ、“未申請”ってことになる。……そう、“存在しないこと”にされるのよ」
言葉は淡々としていたが、その冷たさは肌に刺さるようだった。
「いまの制度、“感情の揺れ”まで価値に組み込むのよ。どんな顔で絶望して、どんな声で折れたか……」
「――記録してどうすんの、って話だけどね」
セリアは一歩近づき、淡々と続けた。
頭の中で、知らない名前がいくつも転がった。
なぜか、どれも“知ってる気がする”。意味もないのに、ざわつく。
……妙だ。これ、誰の記憶だ?
誰かの記憶を模して、生まれた存在――そんな直感だけが、脈打っていた。
セリアは小さく息を吐いた。
その瞬間、Kの脳裏に何かがよぎった。
……あの教室。
窓の外の曇った空。誰かの泣き声。
記憶ではない、“匂い”のような感覚。
自分が“選ばれなかった側”だった、あの瞬間の。
セリアは、Kの瞳をじっと見つめた。
その奥に、何かを探すように――あるいは、確認するように。
「……整合性、取れてないわね。普通じゃない。――でも、だから面白いのよ」
「……まずは、見せてもらうわ。ほんとに、“ある”のかどうか――“価値”なんてものがね」
Kは口を閉ざしたまま、肩にじんわりと重さがのしかかるのを感じた。
“また選ばれない”側にされる――その予感が、背筋をざらりと撫でた。
「はぁ……どう……いや、何で? 測るだと? なあ、俺に何を見せろってんだ?」
セリアは少しだけ目を伏せてから、淡々と答えた。
「他人になるの。……正確には、その“瞬間”の中身と混ざってもらう。
そこから何が残るか……それを、制度が見てる」
そして、少しだけ皮肉を込めた笑みを浮かべる。
「――つまり、“なりすまし”ね」
指を鳴らしたセリアの周囲に、淡く光る図形が浮かび上がった。
それは、魔法陣というより……数式の網、でもなかった。
情報? いや……神経の奥を針でなぞられるような、“痛みの形”が走っていた。
「ただし――痛むわよ。肉体ではなく、記憶の深層に」
Kは、無意識に拳を握りしめていた。
何かを、思い出す前に。
✦✦✦ 《四つの扉》 ✦✦✦
契約の説明を終えると、セリアはふと表情を緩めた。
「制度って、“価値”の評価に、いまや感情の揺れまで組み込んでるのよ。
どんな顔で絶望して、どんな声で折れたか……そんなのまでね」
その言葉とともに、彼女が指を鳴らす。
空間が……うねった? いや、揺れ……? 次の瞬間には、四つの扉がそこにあった。
“最初からあった”のか、“今できた”のか……思考が滑った。
それぞれ、赤・黒・紫・青の光を纏いながら、虚空に並ぶ。
だがそれは、単なる色分けではなかった。
赤の扉からは灼熱が立ちのぼり、黒からは視界すら沈む圧が漏れていた。
紫の扉は毒気のような揺らぎをまとい、青は霜のように透明で静かな気配を放っている。
扉の前には、それぞれ“人影”のような光の残滓が立っていた。
顔はない。声もない。だが、その存在には――感情の“痕”があった。
「彼らは、制度が記録した〈演者〉たち。
かつて、その扉の向こう側で、“選別”され、“名前”を持った者たち」
セリアの声は淡々としているが、どこかで哀悼にも近い響きを含んでいた。
Kが赤の扉に目を向けると、前に立つ影の上に淡い投影が現れる。
《登録記録:演者-2419A》
評価軌跡:△上昇→×破棄→記録保持中
転写度:73.2%/人格安定性:不安定
記録断面:演出傾向型:対群戦対応(演技適性:過剰)
「制度が残した記録の一部よ。あなたが“見る”のは、演出でも模倣でもない。
過去にそのまま存在した、価値の“瞬間”――その〈転写〉」
Kは無言で四つの扉を見渡した。
どの影にも“熱”があった。
記録のくせに、どれも“生”の揺らぎを宿していた。
「――これらは制度が記録した、“そのときの切れ端”。
中に入れば、その人物の体も、思考も、感じ方も――全部、背負うことになる。
……終わったあと、何があなたの中に残ってるか。
それも、制度は見てるのよ」
セリアの言葉に、Kは息をひとつ吐いた。
「演じるんじゃなくて、なりきれってわけか」
「違う。“演じる”んじゃない。“混ざる”のよ。嫌でも、ね。制度は、外側だけの“演技”なんか、見抜くから」
Kは目を細めた。
手の甲に、先ほどの魔法陣が淡く脈打っていた。
……脳も神経も、これから“別のもの”に侵される。
理解しているつもりだった。だが、この空間の冷たさが、その実感を深く突き刺してくる。
「……なら、赤だ」
自分でも、なぜそう言ったのかわからなかった。気づけば、手が動いていた。
その瞬間、記憶の影が光り、Kの手の甲に魔法陣が完全に浮かび上がった。
「焼かれてきなさい。……まあ、なれたらね。“誰かの価値”に」
セリアの言葉を背に受けながら――Kの意識は、光に呑まれた。
世界が反転する。
扉の奥で、かつて誰かが見た“現実”が、彼を迎え入れようとしていた。
✦✦✦
【次回予告 by セリア】
「“なりすましの価値”なんて、使い捨ての演出にすぎないわ」
「今回の転写は、制度に登録された“演者”たちの残滓。
次回、《価値の契約:中編》、『転写の間と草レース』。
問われるのは、自分ではない誰かになったとき、それでも“立てるか”ということ」
「セリアの小言? ……“選ばれた”ってだけで、満たされた気になるなんて。
……まだ、そんな子が残ってるのね。――本物ってのは、“選び返せる奴”のことよ」