✦✦✦ 《転写の間》 ✦✦✦
指先が鳴った瞬間、空気がピンと張る。
音はないのに、世界がどこかで“割れた”ような感じだった。
Kの右手に、淡く光る魔法陣が浮かび上がる。
血流に逆らうような圧が走り、手の甲がひりつく。
「次は、“魔株”の価値を見てもらうわ」
セリアが言うと、空間の奥から淡い光の“影”が一体、歩み出てきた。
それは人の形をしていたが、顔も声もなく、ただぼんやりと立っていた。
「この個体、かつて魔王市場で“価値”を得た存在よ。
制度が登録していた記録――人格、魔力、社会的立場、その一部をあなたに“転写”する」
Kは、無言でその影を見る。その瞬間、手の魔法陣が淡く脈打ち始めた。
「時間制限は十分。“魔王”としての価値を追体験してもらう。
ただし……戻れなくなる前に、忘れずに“解印”を」
セリアが囁くように言い終えると、魔法陣が眩い光を放つ。
Kの身体が、ひとつ息を呑む間に沈んだ。
視界の隅に、他人の記憶と名残が染み出す。
骨格も感触も微かにずれている――まるで、“誰かの人生”が押し寄せてきたようだった。
言葉にはならなかったが、Kの脳裏に、ひとつの実感が浮かぶ。
「……これが、“なりすまし”ってやつか」
次の瞬間、世界がぐるりと反転した。
白い空間が崩れ、騒がしい音と熱の渦がKを飲み込んでいく。
意識が、別の場所へと連れ去られる。
……制度が、“価値を確かめる”時間を始めたのだ。
✦✦✦ 《第一転写:魔王の市場》 ✦✦✦
眩い光が引き、視界がゆっくりと収束していく。
石造りの通路。鉄の看板。喧騒の波が押し寄せる。
目を凝らすまでもなく、そこは階層状に広がる巨大な円形都市――《表の魔王市場》だった。
石と鉄が螺旋に絡み、中央の魔道塔を締め上げていた。
魔法文字が宙に浮かんで、誰かの意志みたいに都市を縛っていた。
市場全体が、熱と音を吸っては吐いて、じっとりとうごめいている。
そのどこかで誰かが歓声を上げ、誰かが値札を叩きつける。
だが、それを見下ろしていたのはKではなかった。
いや、正確には“彼”だったが、“彼自身”ではない。
手の甲に浮かぶ魔法陣が微かに光を残していた。体の軸が、わずかにずれている。
呼吸のリズム、まばたきの間隔、視線の高さ――どれもほんの少し違っていた。
セリアが言っていた、《降格寸前の魔王》。
制度が保存していた“価値を持つ存在”のコピー人格……つまり、昔の亡霊を着せられたってわけだ。
「……なんだ、これは……」
思わず漏れた声すら、自分のものではないように感じた。
言葉の抑揚にクセがあり、喉の奥が少しだけザラつく。
そのとき、背後から肩を叩かれる。
振り向くと、目元に赤い刺青を入れた男がいた。
「……お前も“証明待ち”か。ようこそ、“魔株”の舞台へ」
男の目はどこか疲れていた。だがその奥に、微かな期待と、諦念が同居していた。
K――いや、“魔王の皮”をかぶったKは、無言で男を見つめるしかなかった。
「オレか? まあ、古株の落ちこぼれってやつさ。退屈しのぎに、ちょっと語らせてもらうぜ」
男は指を鳴らした。
合図に応じて、路地の一角に埋め込まれた石盤が青白く発光し、滑るように地面がせり上がる。
きしむ音と共に魔王が掲げられたその瞬間、周囲の照明が収束し、焦点のように光が一点に集まった。
評価台の周囲に張り巡らされた浮遊文字が、彼の戦歴と属性を自動的に映し出す。
その前に、評価員が現れる。
「戦闘記録……三十五。従えるのが五百。信望は、まあ……極端、ってとこだな。人格? 強引。でもまあ、ハッキリはしてる」
情報が冷たく読み上げられ、周囲の投資家たちは頷きもせず聞き流す。
台の上の魔王は、言葉を発さない。ただ、視線だけで投資家たちを睨んでいた。
それに呼応するように、歓声と冷笑が飛び交う。
市場はざわめいていたが、それは混乱ではなかった。“演出待ち”の静かな熱気だ。
「……次は、どんな“役”をやらされる?」
この市場に、戦いはない。
求められているのは、“魔株”を買わせるための記号的演出――市場で映える価値のデザインだった。
投資家が欲しがるのは、今の実力だけじゃない。
こいつはまだ伸びる、って“思わせたもん勝ち”。それがすべてだ。
魔王の名も力も、“上場”と同時に制度の手に落ちる。
「……資源、だとよ。」
「名前まで、売り物かよ……」
Kはようやく、それを理解した。
そして何よりも――制度が評価しやすい形式だけが拾われる。
誠実さも正しさも……素で出してたら、意味ねぇのかよ。
Kは息を飲む。心では、確かに反発しているはずなのに――。
体の奥では、なぜか“懐かしさ”のようなものが滲んできていた。
「……これ、幻じゃねぇな」
空気のざらつきも、視線の痛みも、“値踏み”の感覚も……思い出せないけど、どっかで確かに知ってた。
それは記憶ではなかった。
染みついた“感触”の記録。制度に“埋め込まれた現実”。
気がつけば、自分も“魔株登録待ちの魔王”として、評価台の脇に立たされていた。
投資家の目が、“いくらで売れるか”を値踏みするように刺さってくる。
ただ立ってるだけじゃ、値がつかない。
「動かなきゃ……名前すら、残らないのか」
「今の俺、誰にも見られてないんだな……」
登録もされず、名前も呼ばれない。
まるで――誰にも触れられない、“失われた幻霊”みたいだ。
支援者がいないというのは、そういうことなのだ。
……演出が、値付けを動かす。
そのとき、魔導専念樹がわずかに震えた。
魔力の揺らぎに、Kの存在が――気づかれた。
Kは、息を殺す。
――この“体験”が終わるまで、あと三分。
「“自分じゃない自分”に価値がある? 制度が気にしてんのは、“どこに価値があるか”だけ……。なら、“俺がいる”って意味なんか、知らねぇよ……」
半分投げやりなKの気持ちを汲んでか、古株の男は言った。
「……ちなみに、“魔株”ってのは、評価低いと踊らされるって意味もあるからな。気をつけろよ。」
大きく息を吸い込むと吐き出して続ける。
「……見せかけが巧いやつだけが生き残る。それが“評価”という名の現実だ」
古株の男は、苦笑混じりに肩をすくめた。
✦✦✦ 《体験終了/帰還 》✦✦✦
魔法陣がかすかに動き出す。
手の甲がぴりりと痺れ、何かが体の奥へ逆流していく。
次の瞬間――何かがバキッと鳴って、目の前の空間がめくれた。
内側から、じわっと違う何かが染み出してくる。
石畳の感触がぼやけ、音が消えて、目の前の現実がふっと離れていった。
Kの体から、借りものの骨格と感触が抜け落ちていった。
そして――元の空間。白く静かな“契約の間”に、Kは戻っていた。
足元がわずかにふらつく。
だが、本当に揺れていたのは心の奥の何かだった。
セリアは、Kの様子を黙って見つめていた。
数秒の沈黙の後、ふっと口元を緩める。
セリアは微笑んだまま、ほんの一歩だけKに距離を詰めた。
それは、観察者から協力者へと立ち位置が少し傾いたような、微細な動きだった。
「どう? “価値を演じるだけの体”の感触は」
Kは、手の甲に残る熱を見つめたまま、眉間に小さく皺を寄せた。
「……懐かしさ、だと?」
自分の中の何かが、妙に馴染んでしまった感覚に、ぞっとした。
セリアは、かすかに笑った。
「よく演じたわね。でも……それは、市場が貼った“あなた”よ」
一拍置いて、視線だけでKを射抜く。
「価値なんて、偏ってるのよ。
いいも悪いも、見られなきゃ“なかったこと”になる。
……それでも、黙って埋もれるつもり?」
それは評価ではなく、警告のようにも聞こえた。
✦✦✦ 《第二転写:草レース》 ✦✦✦
「……気持ち悪い世界だな」
Kが吐き捨てるように言うと、セリアは軽く頷いた。
「じゃあ次は、もっと“生々しい現実”を見せてあげる。
登録直後――価値も名前もない存在としての体験を、ね」
セリアが手をかざすと、Kの手の甲にまたしても魔法陣が浮かび上がる。
皮膚の奥を焼くような熱と共に、肉体が“何か別のもの”に書き換えられていく。
「今回の個体は、初期登録されたばかりの魔王候補。“能力不明・無支援・未分類”。
制度が最初に何を見るのか――肌で理解してきなさい」
光が瞬く。
次の瞬間、Kの意識はずるりと引き抜かれ、別の場所に落とされた。
重い。空気が鉛のように沈んでいる。
鼻腔に入り込むのは、焼け焦げた鉄と血と――火薬のような湿気。
足元には、泥にまみれた刃物と折れた柱。
歯車のついた戦闘機械の残骸が、地面に半ば埋まっている。
視界を覆うのは、瓦礫と煙と、灰色の空。
――ここは、《草レース》。
Kはすぐに理解した。
“登録直後の魔王”だけが通される、最初の選別場。
制度が最も効率的に“使えるかどうか”をふるいにかける場所。
「……またか」
Kは呻いた。だがその声は、自分のものではなかった。
わずかに低く、乾いていた。心拍数が妙に早い。
呼吸が浅く、関節の反応が鈍い――未調整の肉体。
周囲に視線を向けると、同じように無装備の数名が立ち尽くしている。
全員、まだ“何者でもない”状態。震える者、焦る者、目を閉じて祈る者――。
そして、反対側から現れたのは、異形の存在たち。
無表情。判断も感情もなく、ただ静かに歩いてくる。
脳の奥で、セリアの声が響く。
「最後まで立っていた者だけが、次の舞台に進める。
他は、“素材”として回収される」
Kは、息を詰めた。
「逃げ場なんかねぇ。動かなきゃ……消えるだけか」
そのとき、足元に、ひとつの刃物が転がってきた。
拾う。冷たい。
だがその冷たさは、神経の奥に“確かな刺痛”として届いた。
仮想なんかじゃない。
制度は、**痛みごと現実として処理している**。
――動かなければ終わる。
一体が動いた。
その瞬間、場が弾けた。
叫び。怒声。肉が裂ける音。泥の上で転げる音。
Kは刃を構え、身を引いた。
斬り合えば消耗する。それだけは避けるべきだ。
「違う……これ、戦いじゃない」
目の前にいるのは、敵じゃない。
「俺も……戦士なんかじゃ、ねぇんだよな」
この空間には、戦いなど存在しない。
あるのは、ただの“仕分け”だ。
立ち止まれば素材。
動けば候補。
Kは、足元に散らばった残骸へと視線を走らせる。
魔力封じの枷。破損した転送印。壊れかけた陣盤――。
その一つ、符刻の残った魔導盤に、かすかな熱の余韻が残っていた。
……起動できる。
刃を逆手に握り直し、Kは駆けた。
敵を誘導し、転倒用の陣の上へと飛び込む。
足元に魔力を流し込むと、符が赤く脈動する。
「……崩れろ」
陣が発動した瞬間、足元の紋章が緋色の稲妻を放ち、地面に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
魔力の圧が周囲の空気をねじ曲げ、発光した魔方陣がうねるように回転し始める。
その中心――敵の足元だけが、静かに、確実に抜け落ちた。
敵を巻き込むように、足場ごと崩落していった。
気づけば、そこに立っていたのはKただ一人だった。
天空に、緋色の紋章が浮かび上がる。
《評価:最低基準クリア》
《仮補欠候補:登録》
……ただし、その登録音だけは、なぜか一拍、遅れて響いた。
通常なら即座に送られる認証情報も、一瞬だけ迷ったように空間に漂った。
Kの存在は、“制度の想定外”の何かに触れ始めていた。
結局、“使えそう”ってだけの合図……そんなもんかよ。
Kは床に唾を吐きつけた。
“価値”? そんなの、どこにも……いや、まだなんだ。
見えてたものが、どんどん曖昧になっていく。
音も熱も、抜けていくのがわかった。怖いくらいに。
Kは、再び“契約の間”へと戻っていた。
服には血と煤。
そして手には、まだ“刃物の冷たさ”が残っていた。
セリアは、少しだけ目を細めた。
「生き残ったのね。でも、それだけじゃ“価値”とは呼べない」
Kは、刃を持った手をしばらく見つめた。
指先が微かに震えていたのを、自分で気づいて、ぎゅっと握りしめた。
そしてようやく、刃を地面に置くように静かに離した。
そして一歩、セリアに背を向ける。
「……なら、見せるよ。本当の価値ってやつを」
その瞬間、魔法陣にわずかな“反応遅延”が走った。
一瞬だけ、制度の魔力制御が――Kの意思に応じそびれたように見えた。
誰にも気づかれないほどの微細な遅れ。だが、それは確かに“ほころび”だった。
セリアの視線が、ちらりと扉の方へ。
――その瞬間、契約の間の“外”で、封印された扉が静かに軋み始めた。
✦✦✦
✦ 《次回予告 by セリア》 ✦
「――運命って、整ってるようで、じつはすごく雑なのよ。
測定ひとつで人生が決まる世界なんて、ね。むしろ、“選ばせない仕組み”の方がよっぽど精巧だわ」
「“召喚制度”? ふふ、スキャン一発で“資源”か“英雄”かを決める合理性? でもね――その機械仕掛けが、Kの存在に小さく詰まったのよ。次は、制度の内側が“Kを体験する”番かもしれないわ」
「値段なんて、貼るのは一瞬。でも剥がすとこには、擦れて皮が剥けたみたいな跡が残るの。……数字は、それを見てくれない」
「セリアの小言? そうね……抗いたい? なら、“番号で呼ばれる人生”に満足しないことね。制度は、黙ってる者から先に飲み込むから……選びなさい。“黙る”か、“名乗る”か」