✦✦✦《第三転写:裏市場》 ✦✦✦
「次は、“自分の手で殺せるか”を、はっきり見られるわよ」
セリアが淡々と告げる。Kの手の甲に、再び魔法陣が浮かび上がった。
今度の転写対象は、“制度が生み出した仮想人格” “監視と判定を兼ねた使い魔”。
制度が裏市場に流通させている“価値試験用人格”。
記録上は“誰でもない”、だが、制度内では“殺す資格”を持った存在。
「名前も、顔も、いらない。……“殺す意志”だけ。それが、価値になるの。
制度は……それだけしか、見ない。選ばれるかどうか――見てらっしゃい」
魔法陣が点滅し、世界がまたしても反転する。
冷たい闇が、静かに意識を呑み込んでいった。
音が、なかった。
Kが目を開けると、そこは薄暗い裏通り。
石畳の道。壁に貼られた魔王たちの指名手配ポスター。
ひと気はない。だが、どこかで“視線”だけが漂っていた。
足元には、契約書のような魔法式が浮かんでいる。
そこに記されたのは、《対象コード》と、《期限:夜明けまで》。
Kが紙を拾い上げると、すぐに背後から声がかかる。
「……こいつ、消せ。朝までにな。何かが跳ねる――かもしれん。それだけだ」
フードを被った依頼人。
顔は見えない。声は機械のように抑揚がない。
Kの耳の奥に、またセリアの声が響く。
「市場で注目されすぎた魔王は……消したい誰かのリストにも載るの。
投資家だったり、同業者だったり、あるいは……ただの利害関係者。
理由は問われないわ。
……試されるのは、“殺す覚悟”だけよ」
だが――その直後だった。
天井が砕け、黒い影が舞い降りる。
異形の追跡者。
Kの行動を監視する、《評価装置》を兼ねた“判定要員”だった。
Kは短剣を構え、即座に距離を取る。
だが、この場の“試験”が戦闘能力を測るものではないことは、すぐにわかった。
これは、意志の審査だ。
殺すか。拒むか。
自分の手を、誰かの命に染められるか――。
刺客は、言葉を持たない。
その目には判断も感情もない。ただ、「評価する」だけの冷たい機構。
Kは短剣を握ったまま、動かない。
たしかに、この肉体は“殺せるように設計されていた”。
魔力も反応速度も、並より高い。
だが、それは制度が望んだ型だ。
Kは、心の底で分かっていた。
――これは、「誰かに選ばれるための殺人」だ。
そんなものに、価値があるはずがない。
Kは短剣を落とした。石畳に刃が触れた瞬間、空気がひとつ、ひきつった。
まるで拒絶の意志が、空気を凍らせたかのように。
一瞬の静寂。
その場に残ったのは、“選ばれなかった”という現実だけだった。
その瞬間、景色が砕けるように崩れた。
建物も空気も光も、一気に“虚構”へと引き戻されていく。
そして、Kは――元の空間、“契約の間”へと帰還した。
セリアは、何も言わない。
ただ、何も言わずに笑っていた。それが余計に腹立たしかった。
Kの拳が、かすかに震えていた。
それは怒りでも、後悔でもない。ただ――重さだけが、心に沈んでいた。
背中に“値札でも縫い付けられた”みたいな、じっとりした重さだった。
動くたびに、その重さが音もなく軋むような――そんな感覚だった。
“選ばない”という選択にすら、代償がある。
制度は、それすらも観測して記録していく。
理屈じゃない。
心が、静かに軋んでいた。
✦✦✦ 《第四転写:青の界層》 ✦✦✦
――情報戦/知略と評価を巡る静かな戦場。
「さて……今度は、血も出ない戦場よ。……けど、個人的には一番きついと思ってる」
セリアの指がKの手の甲に触れる。
魔法陣がふたたび起動し、《観測対象:情報投機体験候補》への転写が開始される。
「ここで使えるのは刃じゃない。数字、印象、噂。
……ああ、そういうのに疲れたって言いたい気持ちは、わかる」
魔法陣が点滅し、Kの意識は、透明な冷気のような光へと呑まれていった。
次の瞬間、Kは静かな空間に立っていた。
宙を漂うホログラム、波紋のように展開する立体図、浮遊するメッセージ群。
この場所には、怒号も歓声も存在しない。ただ、“判断される空気”だけがある。
Kは見下ろした自分の手に、別人の感覚を認識した。
なめらかで、無表情のような感覚。
「感情」が抑制された体。それがこの人格の仕様だった。
「ここは、魔王市場の“評価操作層”。存在そのものを、情報として売り買いする場所よ」
セリアの声が、脳内に直接流れ込んでくる。
Kの視界には、数値評価グラフと共にひとつの案件が提示された。
《案件》
対象魔王の一時的評価を“上昇させる”こと。
※実績改竄は不可。利用可能手段:噂の伝播、信頼者の演出、敵対勢力への情報介入。
「……本物の力なんて、関係ないんだな。
“まだ見ぬ力”と、警戒だけで……それが価値になるのか」
Kの操作パネルには選択肢が現れる。
《選択肢》
▷ 噂を歪めて、印象だけを操作する。
▷ 支援者になりすまし、期待を捏造する。
▷ 敵に囁き、過剰な反応を引き出す。
Kは、迷わず囁きを選ぶ――敵の心に、静かに火をつける策だ。
敵対勢力に、わずかに“信じそうな嘘”を投下。
その直後、複数の情報ノードが過剰に反応し、対象魔王の話題性が跳ね上がった。
画面上の魔道グラフが変動する。
緑色の数値線が跳ね上がり、幾何学的な評価ゲージが弾けるように回転を始めた。
空間がかすかに震えた。命が“落札”された気がした。
《評価完了》
▷ 情報操作:成功
▷ 一時評価:優良(仮)
▷ 危険性:注視対象へ移行
Kは、胸の奥が妙にざわつくのを感じた。
それは達成感ではなかった。誰かの命が、“指一本で塗り替えられた”ような違和感。
Kは何も感じなかった。
ただ、数字が跳ねたその一瞬の“呼吸の乱れ”だけが、なぜか深く胸に残った。
数字だけで、人の価値が作られる。
事実より「動き」が評価される。
ここでは、“語られた回数”が存在を決める。
馬鹿げている。
誰かの口から出るたびに、すべてが“もっともらしい”顔をして、
クソのような理屈だけが積み上がっていく。
口先ばかりの制度の中で、誰も気づかないふりをして、まともな言葉が腐っていく。
……もう、言葉がどこから出てるのかも分からない。
空虚な音だけが、ぐるぐると制度の中で回ってる気がする。
まともな言葉ほど腐って、意味のある声だけが死んでいく。
そんな場所に、誰が耳を傾けるっていうんだ。
Kは頭を押さえた。……どうして、こんなに頭の奥がざらついてるんだ。
殺すために刃すら要らない世界。
Kの視線は、じっと手の平に落ちていた。
その無力さが、体の奥に静かに沈んでいく。
情報の光が爆ぜるように散り、転写が解除される。
気がつけば、Kはまた“契約の間”に戻っていた。
冷たい静けさが、その背中に染み込む。
「……どう? 血も汗も流さずに、命を弄べる場所って」
セリアは、静かにKを見つめていた。
その微笑には、皮肉も嘲りもない。ただ、ひとつの“通過儀礼”を見届けた者の顔。
Kは短く、息を吐いた。
「……面倒くさいな、ほんと。でも……まあ、やれるとは思う」
言葉の重さ、噂の毒、信頼の流動性――
そこに込められた殺意は、刃より鋭い。
Kは、首の後ろをそっと撫でた。
それが“監視のライン”であることを、本能的に察していた。
✦✦✦ 《契約の間・現実層》 ✦✦✦
――四度の“なりすまし体験”を終え、Kは再び“契約の間”へと戻ってくる。
空気が――静かに変わっていた。
冷たさの奥に、圧力のような“重さ”がある。
ここに、何かが確かに“積み重なった”のだと、体の奥が察していた。
すべては体験だった。
だが――仮想とは呼べなかった。
……結局、“感じた”ってだけが、こっちの現実なんだろうな。
どこまでが制度で、どこからが自分かなんて、たぶんもうどうでもいい。
熱狂する市場。
敗者が素材として資源化される草レース。
信頼を装いながら、平然と他者を売る裏契約の世界。
噂と印象で“命”が買われる情報戦。
Kはそのすべてを“体で受け取った”。
観測ではなく、追体験でもない。……抜けきらない現実として。
セリアは、何も言わずKを見ていた。
その目に、ごくわずかに揺らぎがあったように見えた。
「ねえ、K。
本当に思わない? 誰かが“演じやすい基準”だけ残したみたいだって。
……まるで、“評価しやすい者”だけが残るように」
Kは目を細め、すぐに理解した。
ここで戦っても、勝っても、強くなっても意味はない。
あれは全部、制度の中に“自分を染める”ための転写だった。
何が求められ、何が排除されるのか――その“選別構造”を、魂ごと理解させる装置。
セリアの視線は、試すようでありながら、どこか確かめるようでもあった。
Kは息を吐く。
「……最悪だな。どれも」
「……で、どう? あれ全部見て、まだ“ここ”に意味があると思う?」
Kは短く目を伏せたまま、静かに口を開いた。
「評価、か……?」
それは、吐き捨てるような口調だった。
「……聞かれる前提で答えを用意してる時点で、もう嘘くさいよな」
一拍の沈黙。
セリアは、そのままKを見つめ続ける。
「……なあ、もしかしてさ。“測る方”がズレてることって……あるんじゃないのか」
「……消えたんだよ、あいつ。何も言えずに」
「評価が、どうとか言われて。納得なんか……できるか」
小指から一本ずつ内側に折り曲げ握りしめた。
「数字が笑って、魔力を吸われて、心と体がすり潰される。クソッ……もう、好きにさせない」
その言葉に、セリアの唇がわずかに揺れた。
ふっと微笑む。その奥に、一瞬だけ“痛み”が滲んだように見えた。
まるで、同じように試され、同じように何かを失った記憶をなぞったかのように。
「……前の子も、そう言った。でも……彼は、もう、この世界の価値にはいないわ」
その声は妙に優しかった。
まるで、名前のない死者へ静かに別れを告げるような声だった。
「……見られないように、音を立てないようにして……気づいたら、いなくなってるの。意味が……なくなった、ってことで」
Kの表情がわずかに揺れた。
名も知らぬ“前任者”――だが、セリアの言葉だけで、何が起きたかは理解できた。
「それなら――」
その瞬間。
契約の間が音もなく光を帯びる。
空間が、ぬるく波打った。
天井のない空へと光の紋章が浮かび上がる。
それは、時計のようであり、魔法陣のようでもあった。
だが回転を始めた瞬間――それは、明確に“制度”の構造物としてKを飲み込んだ。
足元には、無数の光のラインが走る。
まるで市場全体の基盤――“評価ネット”の上に、自分の体が組み込まれる感覚。
四つの転写対象がひとつずつ淡く光を放ちながら消え、その余韻が収束するように、
空間のど真ん中に、“気取った入口”が静かに現れた――まるで、選別の果てに開かれた“本物の価値”の扉のように。
そして、Kの胸元に――《登録刻印》が転写された。
皮膚の上を這うように光が走り、淡い赤い紋章が浮かび上がる。
その瞬間、胸元の奥から熱が這い上がってきた。
火傷とも違う、もっと粘ついたような疼きが、内側から皮膚を焦がす。
それは心音と同調しながら、まるで“自分という輪郭”を制度の中に縫い付けていくような感覚だった。
それは古代語を思わせる円環の構造で、Kの心音と同調するように脈動していた。
だがそのとき、光が一瞬だけ乱れた。
まるで、何かが制度の流れに“干渉”しているようなノイズと共に。
これは“仮”ではない。
制度がKを《見習い魔王》として“存在承認”した証だった。
「……これで、あなたはもう“外の者”じゃない」
けれど――。
「歓迎するわ。デモンズ・マーケットへ。
でも……ここから先は、命も価値も、“換金可能”な現実よ」
「……もう、戻れないわよ。……そういう場所なの」
Kは、ゆっくりと拳を握る。
もう逃げ場はない。
だが、臆する理由もない。
一瞬、息を吸い込み――Kは、歩き出した。
Kは一歩、床を鳴らす。無音のはずの空間に、その音だけが残った。
振り返らない。
もう、扉の感触すら、意識の外にある。
もう誰かに価値を演じさせられるのは、ごめんだ。
次は――その意味を、自分で決めてやる。
「誰も俺を評価しない――なら、」
Kはゆっくりと拳を握る。
「……じゃあ、もう……俺が勝手に決めるしかねえ、か」
空気が、喉の奥で止まった。
「……なら、俺が、選ぶ。今度は……俺の番だろ」
Kはもう振り返らなかった。
誰にも値札を貼らせないという決意が、すでに歩みの中にあった。
無音のはずの空間に、彼の足音だけが――静かに、確かに刻まれていく。
✦✦✦
【次回予告 by セリア】
「――運命って、案外、整ってるようで雑なのよ。
測定ひとつで人生が決まるなんて、ね。むしろ、“選ばせない仕組み”の方が巧妙だわ」
「“召喚制度”? ふふ、スキャン一発で“資源”か“英雄”かが決まる合理性。
でもね……《制度の内側》、次回『体験する制度』。
値札をつけられる痛みは、数字じゃ割り切れないのよ?」
「セリアの小言? そうね……抗う気があるなら、“分類される側”で満足しないことね。
ただし、“選ばれる”ってことが、必ずしも自由とは限らないけど」
――でも、もし制度の“外側”から、誰かが“干渉”してきたら?
Kは、まだそれを知らない。
「……ねえK、自分で決めるって言ったけどさ。
こっちにも……あんたのこと、見てるやつ、いるかもよ?」