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#3−5:価値の影、秩序の外へ

✦✦✦ 《影鬼の逃亡》 ✦✦✦


 ――影が蠢く。


 Kは、施設の冷たい床を蹴り、闇へと飛び込んだ。

 足を蹴り出すたび、筋繊維が切れるような鋭い痛みが太腿を襲った。


 魔獣の肝臓――影の力を宿す特殊な臓器。

 それを移植されたばかりのKの体は、まだその力に馴染みきれていなかった。


 ……Kの腹部には、魔獣の臓器を埋め込んだ痕が、まるで黒い樹枝のように浮かび上がっていた。

 皮膚の下を走る血管が、時折、紫がかった光を帯びて蠢く。

 光が揺れるたび、影もひくつき、皮膚の下で何かが息づいているようだった。


 だが、止まる暇はない。


 背後から警備兵の怒号が響く。

 血と金属の匂いが混じる通路を抜けると、影が足元を包み込んだ。


 呼吸のリズムにさえ寄り添うように、影は勝手に波打ち、勝手に動いた。

 影はKの足にしがみつくように伸びて、床を這い回ったかと思えば、突然とがって跳ね上がり、次にはもう煙のように散っていた。

 “使う”というより、むしろ“一緒に動いている”……そんな錯覚さえ覚えるほどだった。


 Kが動けば、それに応じて形を変え、進路を開くようだった。


「逃がすな!」

「影使いの異常個体だ! 捕獲しろ!」


 Kは影を足元に纏わせ、動きを止めた。


 敵の叫び声が遠のいたように感じる。

 呼吸が……静かになる。

 次の瞬間、影がうねり、Kは闇へと消えた。


 未熟だと高をくくってるんだろうが……こっちだって、もう無茶の仕方は覚えた。


 動くたび、筋肉が軋んだ。

 力に体がついてこない――違和感だけが、体を支配していた。

 それでも、Kは止まらない。


 影を解き放つ瞬間、世界が無音になった。

 Kは息を呑んだ。――静寂が、駆け抜けた。

 次の瞬間、影が弾けるように炸裂した。


 腹の奥が焼けるように熱い。

 体内に熱湯を流し込まれたような感覚が、容赦なく神経を焦がしていく。


 視界が滲んだ。

 足がぐらつく。

 それでも、止まることは許されない。


 吐息を殺し、Kは出口を目指した。

 ——その瞬間、足が止まった。

 数秒間、空気の流れすら凍った気がした。

 視線を巡らせる。気配が……いる。



✦✦✦ 《セリアの計画》 ✦✦✦


「こっちよ」


 頭の中に響く声。


 ――セリア。


 Kが顔を上げると、通路の奥に銀髪の幻影が揺れていた。

 薄暗い通路の奥、光源もないはずの空間に、淡く輝く銀糸のような髪が浮かんでいた。

 空気が静かに揺れ、その髪は重力に抗うようにふわりと舞っている。

 幻なのか、実像なのか――Kの目にも定かではない。


 声の主はセリア――思考伝達術、つまりテレパシーか。


「出口はすぐそこ」


 Kは迷わず駆けた。

 やがて、朽ちかけた扉が見えてくる。


「ここか?」


「あら、疑うの?」


 Kは扉の前で立ち止まり、鋭くセリアを見た。

 片手はすでにドアノブにかかっていたが、力は入っていない。

 指先がわずかに汗ばんでいるのが、自分でもわかった。


「ずいぶん計画的だな」


「あなたこそ、考えすぎじゃない? 昔のあなたなら、突っ込んでたわよ」


「突っ込んだって……壁だったら鼻折れるだろ」


 この時Kは、不思議に思った。昔というほど遠い以前に出会ったわけではないと。

 ただ、今はそのことを考えている暇は無いため、疑問は隅に追いやった。


 セリアは微笑む。


「合理的な選択をするだけよ」


 Kは視線を外さずに答えた。


「なら、俺も合理的に動く」


 ……いや、そうでも言わなきゃ、足が止まる。

 そうするしか、ないってことか。


 セリアの目が興味深げに光る。


「そんなに自信あるの? ……ちょっとは頼もしくなったじゃない」


 Kは短く息を吐く。


「……全部見えるようになれば――負けない。絶対に」


 セリアは指を鳴らした。


「面白いわ。あなたがどう生きるのか、見せてもらいましょう」


「準備はできているんだろう?」


「ええ。でも、あなたが価値を証明できるかは別問題よ」


 Kは扉の向こうを見据えた。


「……“市場”は、結果を待つ場所じゃない。仕掛ける側に回らなきゃ、意味がない」


 本当は、いつも何かを待っていた――K自身、気づかぬうちに。

 だからこそ、仕掛ける必要があった。意味を、無理やりにでも捻り出すために。


 Kは無意識に指を鳴らした。

 音が、錆びた扉の前に鈍く反響する。

 セリアの表情が揺らぐのを、Kは見逃さなかった。


 ……言葉じゃない。こういうのが効くときもある。


「流れを先に読めれば、“市場”そのものを操作盤の上に置ける」


 たらればだよなコレは、でも、可能性はある。な、きっと……。


 Kは一拍遅れて、視線を伏せた。指先が、ごくわずかに震える。


 言い切った直後、Kは一瞬だけセリアから目を逸らし、

 ポケットの中で拳を握り込んだ。手のひらには、汗が滲んでいた。

 流れを読む。それが正しいのかは、まだわからなかった。


 セリアが小さく笑った。


「思惑通りに市場が動けばいいけど……それ、“市場側”も黙ってるかしら?」


 その声は軽いが、瞳には鋭い光が宿っている。


 セリアが指を鳴らした。わざとKより一拍遅れて――。


「……演出も、少しは覚えたら? 黙ってるだけでも十分怖いけど。――ま、その顔と体なら、そそられる婦人も多いでしょうね」


 セリアは舞台の幕が上がる直前のように、わずかに息を吸った。

 ……この場がどう見えるかなんて、最初から計算に入ってた。


 ……あれは、先を知っているやつの動きだ。

 その動きのあとで、目を細めた。


「ふぅん……。その目、ずいぶん強気になったじゃない」


 Kはわずかに目を細め、静かに返した。


「価値なんて、情報ひとつで転がる。不足すりゃ、欲望が勝手に騒ぎ出す」


 Kはそれを知っていた。飢えがあり、情報が足りなければ――誰もが“動く”。

 影を使うよりも、もっと本質的なやり方が、そこにある。


 ……価値? んなもん、飢えてる誰かがいりゃ勝手にできる。見せ方なんて後回しだ。


 セリアは笑みを深める。


「影の力が市場を動かす? ……ふふ。だったら、見せ方一つで“神”にも“詐欺師”にもなるわよ。

……いや、どっちも大して変わらないかもしれないけど」


「……その顔、本当に“見せてくれる”のね。いいわ、面白くなってきたじゃない。

……想定より早いけど、仕込みはすでに済んでるわ。……予定外、だけど」


 Kは短く頷いた。けれど、その目にはどこか焦燥が滲んでいた。

 ポケットの中で、指がこっそりと拳を握りしめていた。


「でも、今回は“逆”を使う。読まれた上で、読ませるんだ」


 本当にうまくいくのか、これ……?


 自身の内面を見せることなく続けた。


「影にちょっと嘘を混ぜる。騒ぎの陰で、本命だけは、そっと通す。見せるのは……ただの幻さ」


 Kはわずかに肩をすくめた。まるで、自分を納得させるかのように。


「操作じゃない。“誘導”だ。しかも、仕掛けた側には気づかせずに」


 言い終えた瞬間、Kは視線を泳がせた。目が、ほんの一瞬だけセリアから逸れる。

 俺にとっては、“誘導”で十分なんだ。……操作って言われてもな。


「……ま、仕掛けたのは確かだ。でも……結果って、どう転がるかなんて、正直わからねぇよな」


 セリアは目を細めた。


「なるほど……“幻を見せて、現実を操る”ってわけね」

「ふふ、あなた、ほんとに怖いわ」


 迫る足音。Kは影と共に、扉の向こうへと消えた。



✦✦✦ 《施設責任者の決断》 ✦✦✦


「――51番が逃げた!?」


 報告を受けた魔族の高官は、冷たい瞳を細めた。


「影使いの力を持ち、警備兵を単独で倒した?」


 苛立ちを隠せず、データを睨む。


「市場価値は?」


 部下の魔族が恐る恐る口を開く。


「あの連中の“魔王取引所”に名が載れば、投資の話が動く」


「黙れ」


 責任者の低い声が響いた。


「……影を操る召喚者、ね。取引可能なんて判断されたら……この秩序、崩れるぞ」


 データを見つめたまま、呟く。


「だが、ただで消すのは惜しい」


 部下が驚いたように顔を上げる。


「ですが、51番は脅威では?」


 責任者は冷徹に言い放つ。


「影に操られているのは……こっちの“目”かもしれん。市場の価値ってのは、得てしてそんなもんだ」


 机の上に広げられた石版のホログラム。そこに浮かび上がるのは、取引情報と数値の波――欲望の脈動そのものだった。

 光が脈打つたび、無数の“手”が伸びては滑り落ちる。飢えた指先が、意味もなく蠢いていた。

 市場に意志なんかない。あるのは、無数の“手”が触ってくる気持ち悪さだけだ。


 神経網そのものだ。誰の命令もなく、欲望だけが勝手に動き回る。あたかもそれが唯一の生命みたいに。


「……つまり?」


「“影鬼”がどう転ぼうと、市場は喰うか、潰すかだ。……最後には、誰かの“数字”にされるだけだ」


 指で机を叩く音が響く。


「取引の対象になるか異端として消されるか、市場が決めることだ」(消されるか……まぁ、市場がそう“見せかける”のかもな)


 部下は戸惑いながらも頷く。


「市場が動く……あの魔界の欲望センサーが、どう反応するかってことなんですね?」


「そういうことだ」


 責任者はデータ石版を無造作に投げ捨てた。


「……価値がなきゃ、そりゃ、消えるさ。所詮……そういうもんだ。いや、もしかしたら……それだけじゃないのかもな。……あいつのときみたいに」


「だが、もし投資家たちが“金になる”と判断すれば――」


 冷笑が口元に浮かぶ。


「――市場の一部になる。高く売れれば、神だ。安けりゃ、ただの失敗作だ」


「“影鬼”が商品として市場に流れた時点で、もう俺たちの手を離れる。

生かすか殺すか……決めるのは、“金を動かす者”だ」


 指でデータ石版を弾く。


 ——ピシッ。沈黙。


「……だがな」


 責任者は言葉を切った。

 ……そして誰にも見られないはずのその指先が、かすかに震えた。

 それは、恐れか、あるいは確信か――彼自身にも分からなかった。


「……もし本当に、あれが価値をひっくり返す存在だったとして……市場って、それでも笑って動き続けるのかね。なんか……気味悪いな」


 部下は息を飲みかけ、思わず唇を舐めた。


「……まさか。そんなことは……」


 ……果たして、それでも市場は“無言で”回り続けるのか。


 だがその声には、“この秩序すら崩れかねない”という、静かな恐れが宿っていた。

 責任者はただ、窓の向こうをじっと見つめるだけだった。


 ……視界の隅で、黒い影がピクリと動いた。まるで、誰かがそこにいるみたいに。

 気のせいでなければ、だが。




✦✦✦




 【次回予告 by セリア】

「――力を手に入れるのは、案外簡単よ。でも、それを使いこなせないなら……ただの燃料で終わるわ」


「“影鬼”なんて呼んでるけど……ふふ。それ、本当に手綱を握れてるつもり?

暴走する影と囁く声……次回境界の揺らぎ、『影鬼の胎動』。

従えるつもりで手に入れた力が、あなたを測っているのよ?」


「セリアの小言? そうね……“選べる”ってことは、“責任を持つ”ってこと。

“意志”を語るならね……まず、“振り回される”の、やめてからにしなさい」

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