✦✦✦ 《影鬼の逃亡》 ✦✦✦
――影が蠢く。
Kは、施設の冷たい床を蹴り、闇へと飛び込んだ。
足を蹴り出すたび、筋繊維が切れるような鋭い痛みが太腿を襲った。
魔獣の肝臓――影の力を宿す特殊な臓器。
それを移植されたばかりのKの体は、まだその力に馴染みきれていなかった。
……Kの腹部には、魔獣の臓器を埋め込んだ痕が、まるで黒い樹枝のように浮かび上がっていた。
皮膚の下を走る血管が、時折、紫がかった光を帯びて蠢く。
光が揺れるたび、影もひくつき、皮膚の下で何かが息づいているようだった。
だが、止まる暇はない。
背後から警備兵の怒号が響く。
血と金属の匂いが混じる通路を抜けると、影が足元を包み込んだ。
呼吸のリズムにさえ寄り添うように、影は勝手に波打ち、勝手に動いた。
影はKの足にしがみつくように伸びて、床を這い回ったかと思えば、突然とがって跳ね上がり、次にはもう煙のように散っていた。
“使う”というより、むしろ“一緒に動いている”……そんな錯覚さえ覚えるほどだった。
Kが動けば、それに応じて形を変え、進路を開くようだった。
「逃がすな!」
「影使いの異常個体だ! 捕獲しろ!」
Kは影を足元に纏わせ、動きを止めた。
敵の叫び声が遠のいたように感じる。
呼吸が……静かになる。
次の瞬間、影がうねり、Kは闇へと消えた。
未熟だと高をくくってるんだろうが……こっちだって、もう無茶の仕方は覚えた。
動くたび、筋肉が軋んだ。
力に体がついてこない――違和感だけが、体を支配していた。
それでも、Kは止まらない。
影を解き放つ瞬間、世界が無音になった。
Kは息を呑んだ。――静寂が、駆け抜けた。
次の瞬間、影が弾けるように炸裂した。
腹の奥が焼けるように熱い。
体内に熱湯を流し込まれたような感覚が、容赦なく神経を焦がしていく。
視界が滲んだ。
足がぐらつく。
それでも、止まることは許されない。
吐息を殺し、Kは出口を目指した。
——その瞬間、足が止まった。
数秒間、空気の流れすら凍った気がした。
視線を巡らせる。気配が……いる。
✦✦✦ 《セリアの計画》 ✦✦✦
「こっちよ」
頭の中に響く声。
――セリア。
Kが顔を上げると、通路の奥に銀髪の幻影が揺れていた。
薄暗い通路の奥、光源もないはずの空間に、淡く輝く銀糸のような髪が浮かんでいた。
空気が静かに揺れ、その髪は重力に抗うようにふわりと舞っている。
幻なのか、実像なのか――Kの目にも定かではない。
声の主はセリア――思考伝達術、つまりテレパシーか。
「出口はすぐそこ」
Kは迷わず駆けた。
やがて、朽ちかけた扉が見えてくる。
「ここか?」
「あら、疑うの?」
Kは扉の前で立ち止まり、鋭くセリアを見た。
片手はすでにドアノブにかかっていたが、力は入っていない。
指先がわずかに汗ばんでいるのが、自分でもわかった。
「ずいぶん計画的だな」
「あなたこそ、考えすぎじゃない? 昔のあなたなら、突っ込んでたわよ」
「突っ込んだって……壁だったら鼻折れるだろ」
この時Kは、不思議に思った。昔というほど遠い以前に出会ったわけではないと。
ただ、今はそのことを考えている暇は無いため、疑問は隅に追いやった。
セリアは微笑む。
「合理的な選択をするだけよ」
Kは視線を外さずに答えた。
「なら、俺も合理的に動く」
……いや、そうでも言わなきゃ、足が止まる。
そうするしか、ないってことか。
セリアの目が興味深げに光る。
「そんなに自信あるの? ……ちょっとは頼もしくなったじゃない」
Kは短く息を吐く。
「……全部見えるようになれば――負けない。絶対に」
セリアは指を鳴らした。
「面白いわ。あなたがどう生きるのか、見せてもらいましょう」
「準備はできているんだろう?」
「ええ。でも、あなたが価値を証明できるかは別問題よ」
Kは扉の向こうを見据えた。
「……“市場”は、結果を待つ場所じゃない。仕掛ける側に回らなきゃ、意味がない」
本当は、いつも何かを待っていた――K自身、気づかぬうちに。
だからこそ、仕掛ける必要があった。意味を、無理やりにでも捻り出すために。
Kは無意識に指を鳴らした。
音が、錆びた扉の前に鈍く反響する。
セリアの表情が揺らぐのを、Kは見逃さなかった。
……言葉じゃない。こういうのが効くときもある。
「流れを先に読めれば、“市場”そのものを操作盤の上に置ける」
たらればだよなコレは、でも、可能性はある。な、きっと……。
Kは一拍遅れて、視線を伏せた。指先が、ごくわずかに震える。
言い切った直後、Kは一瞬だけセリアから目を逸らし、
ポケットの中で拳を握り込んだ。手のひらには、汗が滲んでいた。
流れを読む。それが正しいのかは、まだわからなかった。
セリアが小さく笑った。
「思惑通りに市場が動けばいいけど……それ、“市場側”も黙ってるかしら?」
その声は軽いが、瞳には鋭い光が宿っている。
セリアが指を鳴らした。わざとKより一拍遅れて――。
「……演出も、少しは覚えたら? 黙ってるだけでも十分怖いけど。――ま、その顔と体なら、そそられる婦人も多いでしょうね」
セリアは舞台の幕が上がる直前のように、わずかに息を吸った。
……この場がどう見えるかなんて、最初から計算に入ってた。
……あれは、先を知っているやつの動きだ。
その動きのあとで、目を細めた。
「ふぅん……。その目、ずいぶん強気になったじゃない」
Kはわずかに目を細め、静かに返した。
「価値なんて、情報ひとつで転がる。不足すりゃ、欲望が勝手に騒ぎ出す」
Kはそれを知っていた。飢えがあり、情報が足りなければ――誰もが“動く”。
影を使うよりも、もっと本質的なやり方が、そこにある。
……価値? んなもん、飢えてる誰かがいりゃ勝手にできる。見せ方なんて後回しだ。
セリアは笑みを深める。
「影の力が市場を動かす? ……ふふ。だったら、見せ方一つで“神”にも“詐欺師”にもなるわよ。
……いや、どっちも大して変わらないかもしれないけど」
「……その顔、本当に“見せてくれる”のね。いいわ、面白くなってきたじゃない。
……想定より早いけど、仕込みはすでに済んでるわ。……予定外、だけど」
Kは短く頷いた。けれど、その目にはどこか焦燥が滲んでいた。
ポケットの中で、指がこっそりと拳を握りしめていた。
「でも、今回は“逆”を使う。読まれた上で、読ませるんだ」
本当にうまくいくのか、これ……?
自身の内面を見せることなく続けた。
「影にちょっと嘘を混ぜる。騒ぎの陰で、本命だけは、そっと通す。見せるのは……ただの幻さ」
Kはわずかに肩をすくめた。まるで、自分を納得させるかのように。
「操作じゃない。“誘導”だ。しかも、仕掛けた側には気づかせずに」
言い終えた瞬間、Kは視線を泳がせた。目が、ほんの一瞬だけセリアから逸れる。
俺にとっては、“誘導”で十分なんだ。……操作って言われてもな。
「……ま、仕掛けたのは確かだ。でも……結果って、どう転がるかなんて、正直わからねぇよな」
セリアは目を細めた。
「なるほど……“幻を見せて、現実を操る”ってわけね」
「ふふ、あなた、ほんとに怖いわ」
迫る足音。Kは影と共に、扉の向こうへと消えた。
✦✦✦ 《施設責任者の決断》 ✦✦✦
「――51番が逃げた!?」
報告を受けた魔族の高官は、冷たい瞳を細めた。
「影使いの力を持ち、警備兵を単独で倒した?」
苛立ちを隠せず、データを睨む。
「市場価値は?」
部下の魔族が恐る恐る口を開く。
「あの連中の“魔王取引所”に名が載れば、投資の話が動く」
「黙れ」
責任者の低い声が響いた。
「……影を操る召喚者、ね。取引可能なんて判断されたら……この秩序、崩れるぞ」
データを見つめたまま、呟く。
「だが、ただで消すのは惜しい」
部下が驚いたように顔を上げる。
「ですが、51番は脅威では?」
責任者は冷徹に言い放つ。
「影に操られているのは……こっちの“目”かもしれん。市場の価値ってのは、得てしてそんなもんだ」
机の上に広げられた石版のホログラム。そこに浮かび上がるのは、取引情報と数値の波――欲望の脈動そのものだった。
光が脈打つたび、無数の“手”が伸びては滑り落ちる。飢えた指先が、意味もなく蠢いていた。
市場に意志なんかない。あるのは、無数の“手”が触ってくる気持ち悪さだけだ。
神経網そのものだ。誰の命令もなく、欲望だけが勝手に動き回る。あたかもそれが唯一の生命みたいに。
「……つまり?」
「“影鬼”がどう転ぼうと、市場は喰うか、潰すかだ。……最後には、誰かの“数字”にされるだけだ」
指で机を叩く音が響く。
「取引の対象になるか異端として消されるか、市場が決めることだ」(消されるか……まぁ、市場がそう“見せかける”のかもな)
部下は戸惑いながらも頷く。
「市場が動く……あの魔界の欲望センサーが、どう反応するかってことなんですね?」
「そういうことだ」
責任者はデータ石版を無造作に投げ捨てた。
「……価値がなきゃ、そりゃ、消えるさ。所詮……そういうもんだ。いや、もしかしたら……それだけじゃないのかもな。……あいつのときみたいに」
「だが、もし投資家たちが“金になる”と判断すれば――」
冷笑が口元に浮かぶ。
「――市場の一部になる。高く売れれば、神だ。安けりゃ、ただの失敗作だ」
「“影鬼”が商品として市場に流れた時点で、もう俺たちの手を離れる。
生かすか殺すか……決めるのは、“金を動かす者”だ」
指でデータ石版を弾く。
——ピシッ。沈黙。
「……だがな」
責任者は言葉を切った。
……そして誰にも見られないはずのその指先が、かすかに震えた。
それは、恐れか、あるいは確信か――彼自身にも分からなかった。
「……もし本当に、あれが価値をひっくり返す存在だったとして……市場って、それでも笑って動き続けるのかね。なんか……気味悪いな」
部下は息を飲みかけ、思わず唇を舐めた。
「……まさか。そんなことは……」
……果たして、それでも市場は“無言で”回り続けるのか。
だがその声には、“この秩序すら崩れかねない”という、静かな恐れが宿っていた。
責任者はただ、窓の向こうをじっと見つめるだけだった。
……視界の隅で、黒い影がピクリと動いた。まるで、誰かがそこにいるみたいに。
気のせいでなければ、だが。
✦✦✦
【次回予告 by セリア】
「――力を手に入れるのは、案外簡単よ。でも、それを使いこなせないなら……ただの燃料で終わるわ」
「“影鬼”なんて呼んでるけど……ふふ。それ、本当に手綱を握れてるつもり?
暴走する影と囁く声……
従えるつもりで手に入れた力が、あなたを測っているのよ?」
「セリアの小言? そうね……“選べる”ってことは、“責任を持つ”ってこと。
“意志”を語るならね……まず、“振り回される”の、やめてからにしなさい」