✦✦✦ 《闇の余韻》 ✦✦✦
――草レース終了後、闇市場の酒場。
Kの体には、戦いの余韻が微かに残っていた。
影鬼を使った草レースは、確かに勝った。けど、それで何かが報われた気はしない。
……魔王市場は、それだけじゃ動かない。
要求されるのは、“その先”。数字に変わる、成果。
成果は“数値”になってまうし、投資家に晒される――問題はその後だな。
価値になるかどうかは……そうさ、無慈悲な世界が、手ぐすね引いて待ってる。
届かなきゃ、“次”はない。
……冷たいが、それがこの世界の常識だ。
闘技場を後にしたKは、闇市場の一角にある薄暗い酒場へと足を踏み入れた。
ここは魔王候補たちや投資家が情報交換を行う場。
暗く閉ざされた空間は、あまりに静かで、逆に胸の奥がざわついた。
その空気には、押し殺された熱があった。
Kはカウンターの端に腰を下ろす。
胸の奥には、まだ勝利の熱が残っていた。
だが、それとは別に――わずかに、何かが引っかかる。
Kはグラスの縁をなぞりながら目を伏せた。勝ちは勝ちだ。
……それでも、胸の奥にかすかなひっかかりが残る。
影鬼の動きが、一瞬だけ鈍った。
集中が切れたのか。それとも、指示のわずかな遅れか。
Kは眉をわずかにひそめた。
小さな違和感が、胸の奥に刺さった。
忘れようとしても、脳裏から離れない。
隣で静かに浮かぶセリアが、淡々と口を開いた。
「……悪くない戦いだったわ」
その声には冷静な評価だけでなく、鋭い探りを入れるような響きが混じっていた。
Kは一瞬だけ、視線をずらした。
「あなたの影鬼戦術は、これまでの魔王候補とは違う。
でも“市場”がどう評価するかは……今夜、見えてくるでしょうね」
Kはただ頷いた。目だけが、何かを射抜くように静かに光っていた。
ただの駒として扱われた過去の自分に戻るつもりはない。
ここで示せなければ、全部終わりだ。
あとは――選べない。
選ぶ、余地なんて、どこにも残らない。
彼が拳を握ったその時だった。
酒場の奥、闇に包まれた一角で、魔王市場に関わる投資家たちが低く囁き合っていた。
「影市場に影響を及ぼす可能性はある……が、確信には至らない」
「ただ、“異質な影使い”としてリスト入りしたのは確かだな」
魔導スクリーン――魔力で情報を映し出す透過板――が、酒場の奥で静かに明滅していた。
そこに映し出されたのは、影鬼戦術の記録。
《+5.7%》――注目段階。影・個別銘柄。
《+3.2%》――“様子見”。評価保留。
新規追加:K投資家注目。
……数字は、確かに動いていた。
名前も出た。
けど――それが、“評価”ってわけじゃない。
今のところは、ただの観察対象ってとこだ。
セリアは、Kを値踏みするような目で見た。
セリアは、間を置き、視線をずらす。
「影鬼ね……ただの戦術には見えなかったわ」
「……市場も、そう評価するかしら?」
Kは視線を投資家たちの方に向ける。
「影鬼が広まる。市場も動く。――けど、その先は?」
カウンターの奥、誰かが笑った気がした。酒がこぼれる音が、妙に大きく聞こえた。
……そんな簡単に、変わるはずがない。
Kはグラスを傾けた。
「……制度を変えるってんなら、あと何人、俺が殺ることになるんだ?」
……結局、そこなんだよな。
セリアはわずかに微笑み、頷いた。
「この仕組みのままだと、召喚された側は消耗品のままよね。……でも、あなたの影鬼なら、壊せるかも」
少しだけ、声に熱が混じっていた。
それが期待か、あるいは試すような響きなのか――Kには、まだ読みきれない。
「“裏側から支配する影”――召喚者が影に同化するような、新たな術式。市場は、それを恐れつつ惹かれているわ」
Kは視線を投資家たちに向けた。
影鬼だけじゃ、制度なんて崩れない。
……そんなの、痛いほど分かってる。
だが、本当にそれだけか?
制度を変えるには、市場の“頂点”に立つ必要がある。
Kは、そう信じていた――いや、信じ込もうとしていた。
Kの目が冷たく光る。
一度の勝利では変わらない――だが、それが始まりになるとKは信じていた。
市場を揺らす“流れ”を作らなければ、意味がない。
酒場の奥では、投資家たちが魔導スクリーンに映る情報を見つめていた。
「……影鬼、話題にはなってるな」
投資家のひとりが、魔導スクリーンを睨みながらぼそりと呟く。
「とはいえ市場は静観だ。……今は様子見だな」
「派手に勝ったようには見えたな。だが、そういうのは消えるのも早い」
「珍しさだけじゃ続かん。どうせ一発で終わるさ」
「手を出す気にはなれん。……また外したら笑われるだけだ」
乾いた笑いがひとつ、空気に溶けた。
「だがな」
一人の投資家が、スクリーンを指先で叩くように見つめる。
「異質な勝ち方を“続ければ”……話は変わる」
「勝ち方そのものが、制度の穴を突いているように見えた」
「……制度の“支配構造”に楔を打ち込む可能性もある」
「……いや、俺は信じないね。強ぇって? ああ、そりゃそうだろうよ。だがな、色物ってもんは、いつか色が剥げるもんだ」
一瞬の沈黙。
そのあと、静かに別の声が続いた。
「……違う」
「あれはもう、“影術”じゃない。境界が、ねじれてる。あれは――使ってる側の意志が、消えるタイプの術だ」
その言葉に、数人が言葉を飲み込んだ。
Kの動向を注視する――その静かな合意だけが、場に残った。
✦✦✦ 《投資の匂い》 ✦✦✦
「ほぉ……これは、実に風変わりだ。だが、嫌いじゃない」
酒場の空気を震わせるような低い声が響いた。
Kが振り返ると、そこには長いマントを纏った魔族の男が立っていた。
闇の奥で、目だけが静かに光っていた。
「お前が“新参の影使い”か」
男はカウンターの隣に腰を下ろし、静かに酒を注文する。
紫色の液体がグラスに注がれると、彼の口元に微笑が浮かんだ。
「俺はグラフト。魔王市場で投資をしている者だ」
Kは彼の名に一瞬反応した。
……どこかで聞いたことがある名だ。
グラフトは薄く笑い、Kの反応を楽しむように言った。
「何人かの魔王を見てきた。……お前も、その中に入るかもしれん」
グラフトはグラスを軽く揺らしながら続けた。
「影鬼戦術は戦場そのものを制圧する、新しいスタイルだ。価値が浸透すれば、召喚制度すら揺らぐだろう」
Kは視線を落とした。
影鬼が評価されれば、召喚者の立場も変わる。……その突破口を、Kは掴みかけていた。
Kは黙ってグラフトの言葉を聞いていたが、その内心では確信が生まれ始めていた。
何人もというが、それは死んだ何人もの間違いじゃないのか?
あの“呼ばれた者は使い捨て”の制度――召喚者が道具として終わらされるあの仕組みから、抜け出せるかもしれない。
グラフトは視線をKに固定し、重い言葉を投げかけた。
「……次の試合に勝てば、出資してやる。だが――条件付きだ」
Kはグラフトの視線を受け止めたまま、静かにグラスを揺らした。
目は笑っていない。
「……逆に聞くが、あんたはどこまでリスクを負える?」
投資話に見せかけた、牽制だった。
どちらが本当に“試している”のか――今のところは、まだ五分と五分。
金が欲しいんじゃない。
引き金を引く立場が欲しいんだ――ただ、それだけ。
グラフトの指先が、ごくわずかに止まった。
思っていた以上に――この若者は、深く刺してくる。
興味と警戒が、わずかに入り混じった目がKに向けられた。
Kはその目の変化に気づいたが、表情は変えなかった。
“今のは効いた”。確信ではない。けれど、その沈黙こそが答えだった。
……口では何とでも言えるが、グラスは嘘をつかないな。
グラフトは、わずかに目を細めて笑った。
「なるほど……そういうタイプか。やはり面白い」
その時、空間の“裏”がわずかに揺れた。
ピリ……と静電気のような緊張が走ると、Kの背後に淡い光のひだが生まれる。
「……このままじゃ影鬼、値札だけ貼られて捨てられるわよ」
その声に、Kはほんのわずかに眉を動かした。
影からふわりと現れたのは、フードを被った小柄な少女――すずだった。
「相変わらず、勝手に現れるな」
彼女がここまで踏み込んで来たのは、今回が初めてだった。Kは、それを無視できなかった。
「……警告か、契約か」
問いに対し、すずは一瞬だけ口をつぐんだあと、ほんの少しだけ目を逸らした。
「……ば、バカじゃないの……!? べ、別に心配してたとか……してないし!
ただの監視任務だし、たまたまだから。ほんとに……! ……あんた、すぐ無理するから……!」
その声は、酒場のざわめきにすら飲まれそうなほど小さかった。
だが、確かにKには届いていた。
彼女の警告は、ただの心配ではない。何かを知っている――そんな気配が、確かにあった。
次の瞬間、背後の影がふっと揺れ、すずの姿は魔力の裏層へと沈むように消えた。
……すずの行動に、もう命令は通じない。
あれが“ただの影”だとは、もはや誰も思わないだろう。
影に心が宿るなんて、理屈では説明できない。
心酔――そう呼ぶしかない。
Kにも、それがいつからだったのかは思い出せなかった。
✦✦✦ 《影の導火線》 ✦✦✦
――残されたのは、微かな熱と、揺らぐような余韻だけだった。
まるで、彼女の言葉が影の奥に溶けていったかのように。
グラフトは変わらぬ調子でグラスを揺らしていた。
だが、その手が一瞬だけ止まった――まるで、誰かの気配を感じ取ったかのように。
Kは目を細めたが、グラフトは何も言わず、ただ酒を口に運んだ。
……すずの名前は、あえて口にしなかった。
彼女の存在が、この場に適していないことは、K自身が一番よく分かっていた。
Kは消えた空間の余韻を纏いながら、グラスの影に視線を落とす。
――すずの声、やっぱり――心配だったのか?
……あれは、心配の言葉だったのか。だが、今は前を見るしかない。
……あれで、心配してるつもりなんだよな。
わかってるさ。
……けど、こっちはこっちで、勝手に選ばせてもらう。
「何?」
「市場に影鬼が浸透した後の話だ。ゼグラント派や他の投資家たちは黙っていない。
お前は“新しいもの”に賭ける覚悟があるのか?」
一瞬、グラフトの笑みがわずかに崩れた。
「なるほど……なかなか面白い質問だな」
Kはグラスの液面を見つめ、ゆっくりと揺らした。
視線の端で、グラフトのわずかな表情の変化をとらえる。
――面白いと言う奴に限って、まるで面白くない素振りだよな、ほんと。
その時、低い声が割り込んだ。
「……そう簡単な話ではない」
別の投資家が、グラフトを冷ややかに見つめる。
「影鬼か……異質ではあるな」
投資家のひとりが、机をトントンと軽く叩く。
「だがな、次の一戦で潰されりゃ、それまでよ。泡みてぇに弾けて終わりだ」
Kはグラスを傾け、ゆっくりと酒を喉に流し込んだ。
「弱点くらい、あるさ」
……今はまだ、脆いところだらけだ。
Kはグラスの中の揺らめきに目を落とした。投資家の視線に気づきながらも、声にはしない。
周囲の視線がわずかに変わる。
「弱点なんて、誰にでもある。市場が動いた時点で、それは“武器”にもなる」
――それで十分だろ?
Kはグラスを置き、その縁を指先でなぞる。
「影鬼が市場を揺らす前に――ゼグラント派は動く」
その予感が、Kの中で確信に変わり始めていた。市場の秩序を守るため、彼らは必ず先手を打つ。
低く囁くような声で続ける。
「彼らは、俺が次に何をするか読めてるのか?」
歪んだ笑顔が、口角を押し上げた。
「だったら、――せいぜい震えて見てろよ。どうせ、面白がってる余裕もすぐ消える」
――お前も、俺の影に怯える日が来るさ。
彼はゆっくりとグラフトを見つめる。
グラフトの笑みが、一瞬だけ……凍った。
「……クク、妙に面白い問いだ」
グラフトはグラスを指でなぞりながら、静かに答えた。
「ハイリスク・ハイリターン……つまり賭けってわけか。
影鬼が市場を揺るがせば、新たな影術の価値が生まれる」
「だが、ゼグラント派は黙っていない」
Kの声が重なる。今度は一拍の間もなく。
「全部背負って、それでも賭ける――それが“勝ちにいく”ってことだろ」
グラスの縁を指先でなぞるKの動きが、そこで止まった。
投げかけた言葉が、空気の奥へと沈んでいく。
――ほら、だから“面白い質問”だろ。
その言葉には、ひと瞬だけ熱を帯びたような響きが混じっていた。
こいつは、どう出るかだな。
グラフトの視線がわずかに細められる。
時代を動かすのは、数字じゃない。
恐れられ、拒絶された“影”だ。
それでも、動く。――この世界に抗うために。
✦✦✦ 《取引の影》 ✦✦✦
セリアは息を吸い、Kに視線を向けた。
共犯者。それとも観察者か。セリアは、そんな曖昧な距離を保ったまま、ふっと笑う。
「……この勝利を、“本物”にする覚悟。あるでしょ、あなたなら。……いや、私がそうあってほしいだけかもね」
Kはグラスを手に取り、液面を見つめた。
影が揺れている。
止まったら、またあの場所に戻るだけだ。そうさ、樽に詰め込まれて終える……。
指先で軽くグラスを回す。ゆらりと波紋が広がった。
静かに、迷いなく持ち上げる。
「……出資、か」
Kはグラスを傾けながら、静かに笑った。
「――悪くはない。今はな」
……その反応を見て、
グラフトは満足げに微笑み、グラスを掲げた。
「良い返事だ」
Kは静かにグラスを置いた。
市場が変わるかどうかなんて……正直、わからない。
動かすだけじゃ、きっと足りない。壊すか、呑まれるか。
どっちでもいい。ただ、止まりたくはない。
【次回予告 by セリア】
「影を従えるって、簡単に言うけど……その“意思”が別にあったら、どうするの?」
「次回、《影はまだ従わない》――使ってるつもりで、試されてるのかもしれないわよ」
「セリアの小言? そうね……“勝利”って響き、甘くていいけど、
影が笑ってるなら、たぶんそれ――あなたのじゃないわ」