いま、その丘の上には巨大な岩と、そして傍らに一人の男が立っている。
周囲を森に囲まれたなだらかな
そしてその草原に影を落とす二つのシルエットを、丘の下から少女が静かに見上げている。
「――――さすがね」
風になびく髪を耳元に押さえつけ目を細めた少女が、太陽を背に影となった巨岩と男とを眺めていた。
少女の灰色の瞳は目の前の光景に対する信頼、恐怖、嫌悪感、そして畏怖と様々な感情が入り混じった複雑な光を宿していた。
風が雲を流し、太陽がその向こう側に姿を隠す。
不意に草原に影が落ち、ただ暗い塊であったその二つの影が、色を取り戻して少女の前に現れた。
大きな影、それは岩ではなかった。
丘の上に鎮座するその巨岩のような塊の表面は、鈍色の鱗に覆われている。
それは長く太い尾を持ち、獰猛な爪の伸びた四肢を持ち、矢じりの様に鋭い牙を生やした顎を持ち、そして重々しく眼を閉じた頭部と、翼膜の張った一対の翼を持っていた。それはまぎれもないドラゴンだった。
「これで
男が手にしていた長剣を鞘に収めると、バチリ、と電撃のような光が散る。男は傍らにうずくまるドラゴンの体へと顔を向けた。
「あっけなかったな。まあこのくらいのサイズなら特にもう苦戦はしないってことか」
もう動かなくなったドラゴンの巨体を見上げ、その鱗に覆われた表面に触れた。
ピリッと一瞬、虹色の火花が走った。が、男は構わず鈍色のその古い鱗を撫でる。男の触れたすぐ横には、痛々しく切り裂かれた痕があり、今しがた終わった戦いの激しさを物語る。
「どんな魔法も弾く〈
「通報のあったドラゴンの討伐を確認したわ。任務終了よ、クサナギ」
銀髪の少女がゆっくりとした足取りで男の方へと歩み寄る。クサナギと呼ばれた男が少女の方へ向き直る。
いま再び太陽が雲の影から顔を出し、陽光を二人に投げかける。風に流れる少女の銀髪を、川の水面のようにきらめかせる。長いグレーのワンピースが、胸元の白いブローチを輝かせながら風にはためく。
「さあ、戻るわよ。リセが待ってる」
「へいへい」
男が少女に歩み寄って、両手を前に突き出した。
その手首に嵌められた黒い腕輪に少女が手をかざすと、腕輪が反応し、表面に紋様が浮かび上がった。
ガキン、と音を立てて左右の腕輪が光ると、クサナギの両腕はそれ以上離すことができなくなった。見た目にはただの黒光りする大きな腕輪だが、その間は見えない鎖で繋がれた、魔装具の手錠なのだ。これがあると、クサナギは腰の長剣すらも自由に抜くことが難しくなる。
「いつになったらこんな、罪人まがいの扱いが終わるんだろうな」
少女と横並びに森の方へ歩く道すがら、クサナギはそうぼやく。少女は男を見返しもせず、
「あなたその剣技だけがドラゴンに対抗できるほぼ唯一の手段である限りは、ずっとこのままでしょうね」
と返した。
クサナギはうんざりしたように肩をすくめる。
「まったくいい迷惑だよ。お前らの都合で呼び出されてこき使われたうえ、手錠で繋がれてよ。おまけに元の世界に戻る手段は無いと来てる」
「仕方なかったのよ、私たちとしても」
少女は淡々と語る。
「ドラゴンたちはここ何年も、人里に降りて来て深刻な被害をもたらしているわ。農地や牧羊地は荒らされて、民に直接被害が出ることもある。私たちにあったのは、ドラゴンの鱗をも通すという剣技を使う勇者の伝説だけ。私たちにはその能力が必要で、だからあなたが別世界から呼び出された」
「そうして、俺の人生という尊い犠牲と共に、この国の平和は守られましたとさ。俺は東京に帰りてえよ」
「そのトーキョウ……あなたの故郷に帰してあげる手段が見つかっていないことは、気の毒だと思うわ。こうしてやむなく自由を制限してしまっている状況も……だけど、それでも私は、あなたという特別な“戦力”を正しく使い、そして守る必要があるのよ。これは次期領主としての責務でもあるわ」
少女はそう言い切って、男の自由を握る“手綱”である指輪を嵌めた右手をぐっと握った。
「責務ねえ……」
クサナギは隣を歩く、背丈も年齢も一回りほども違う少女の決然と前を見る表情を見やった。
少女の名はイエル・ファン・デルメイト。ザート領デルメイト伯爵の長女であり、十八歳のうら若き乙女だ。一家には二人の姉妹しか子供がおらず、母親も病気に伏せている以上、現領主である父親が退いたとき、次にその座に座るのは彼女だということになる。学府では歴史を修めていて、考古学の若い研究者としての一面も持つ。
少女と
「たまには肩の力を抜けよ、イエル。お前自身が疲れても何の利益にもならないんだからな」
「あなたに心配される事じゃないわ。余計な世話を焼かないで」
にべもなく、ぴしゃりと返される言葉に、そうかい、とクサナギはまたも肩をすくめて話を切り上げた。
* * * *
「お姉ちゃーん、クサナギさーん! 大丈夫だった~?」
二人を出迎えたのは、イエルの妹であるリセだった。
森の中に分け入っていくと、道の脇に停められた馬車が見えてくる。
クサナギとイエルが近づくのが見えると、飛び出すような勢いで車の中から小さな影が現れて、二人に駆け寄って来たのだ。
最愛の妹を腕の中に受け止めて、イエルの相好が崩れる。
「リセ、待たせたわね。大丈夫、ドラゴンも小さかったし、全然全く問題なかったわ」
「俺が戦ったんだけどな……」
クサナギがぼやくとイエルは目を細め、
「そのあなたの主人は私よ。猟犬が成果を出せば、手柄は猟師のもの」
と容赦ない。クサナギは相変わらずうんざりした表情で「ああそうかい」とだけ呟いた。
そんな二人の様子を、くすくすとリセが笑う。
「クサナギさんもお疲れ様」
「リセはそのまま素直でいい子に育ってくれよ。愛嬌を無くすとああなるからな」
「ちょっと、どういう意味」
「そのままだろ。お前愛想笑いとか出来ないタイプじゃん」
「バカにしないで。私だって人と会うときは笑顔やお世辞の一つだって出せるわ。あなたにそれをしたところで、ただただ無益で不自然だというだけ」
馬車のキャビンに乗り込みながら、クサナギの言葉に噛みつくイエル。
「可愛げがねえなあ。そんなんじゃ婿の貰い先がねえぞ、ったく」
「それこそ余計なお世話よ」
イエルがやや乱暴に戸を閉め、馬車はゆっくり走り出した。
二頭立ての馬車が、森の中の道をゆったりとしたスピードで進む。正確には車を
三人が乗る黒塗りのキャビンは小さな個室となっていて、簡素ながら四人が向かい合って乗れる座席がある。仮にも領主の令嬢が姉妹で乗るには質素でもあったが、こうしたちょっとした仕事で領内を移動する際には、イエルは好んでこの小回りの利く簡便な馬車を使うことが多い。なにかとゴテゴテ装飾されたものが苦手なのだ。
窓ガラスの向こうをぼんやり眺めていたクサナギが、不意にぴく、と何かに反応して弛緩していた表情を引き締めた。
「おい、二人とも、ゆっくり姿勢を低くしろ」
「なに、いきなり? どういうこと?」
訝るイエル。リセも驚いて目を丸くしている。
「いいから、窓の下まで頭を下げておけ」
手で示しながら真面目な顔で言うクサナギに、姉妹は困惑して顔を見合わせながらも言われたとおりにした。
「ねえ、何が来るっていうのよ」
「分からん。俺の取り越し苦労なら何の問題も無いんだが……」
クサナギがそう言って窓の外を注意深く窺っていると、視界の端に何か小さな物が光を反射するのを見た。
「……っ!!」
直後、ガシャーン、とけたたましい音を立てて、馬車の窓が割れる。
「きゃあっ!」
「いやっ!!」
二人の少女の悲鳴。クサナギは顔を庇いつつ窓の外を警戒し、飛び込んできた丸い石を見やった。
「投石か! おい、もっと早く走らせろ!」
窓に開いた穴から御者に怒鳴るクサナギ。鞭が振るわれ、二頭のキャッジが嘶いて力強く速度を上げていく。
「後ろから来るわ! 追われてる!」
少しだけ顔を上げたイエルが、背後から猛スピードで迫り来る一頭のキャッジに騎乗した男に気付いた。馬車を曳いているキャッジよりも速い。
「なんだってんだ……くそっ!」
毒づくクサナギ。武器が剣しか無いから反撃も出来ない。
やがて追い付かれ、馬車と横並びに騎兵が走るのが見えた。
乗っているのは、黒ずくめの僧衣に赤い縁取りの兜を被った、体格の良い男だ。背中に矢筒と弓を背負い、手綱を握る腕には簡易的な投石機のようなものを装着している。
馬車を少し追い越すと、手綱から手を離した男が弓に矢をつがえ、狙いを定める。
「伏せろっ!」
風切り音とともに矢が車内に射こまれる。鋭い音を立てて車内の壁に突き刺さり、姉妹が短い悲鳴を上げる。目と鼻の先にそれを見たクサナギが汗をひと筋流す。割れた窓の穴を狙った、精確な
車窓を流れていた木々の連なりが途切れ、傾きかけた太陽の光が射し込む。道は森の中を抜け出て、山間を走る区間に出た。
片側を山肌に、反対を崖に挟まれた細い山道を、地形に合わせて左右にうねりながら進む一台の馬車。そしてそれと並走して弓を構える騎上の男。
男の騎馬は更に増速して、馬車を追い抜く。黒い法衣の男は半ば振り返るような姿勢で弓を絞り、矢の狙いを定める。
「まずい、御者を狙うつもりか!」
クサナギが、咄嗟に拾い上げた丸石を割れた窓穴から投げるが、手枷で繋がれた手ではうまく届かない。
男の手が開き、馬上から矢が放たれる。
「うっ!!」
低い悲鳴。重い荷袋が倒れるような音とともに、御者台から御者が力を失って落ちる。
「やばい!! 何かに掴まれっ!!」
クサナギがそう怒鳴るのと、制御を失った馬車が道を踏み外すのはほぼ同時だった。
「きゃああっ!」
「いやあっ!! 助けて!!」
イエルとリセの悲鳴とともに車体が跳ね、車輪が道路の脇を乗り越えると、馬車はぐらりと傾く。そのまま横倒しに側面を山肌に打ち付けると、一気に斜面を滑り落ちていった。
「ぐあっ!! くそっ!! がぁ…………っ!!」
「あうっ!! 止まって…………っ!!」
「いやあっ!! やだあっ!! 回るっ、落ちるっ!!」
三人の叫び声と、馬車の側面が地面にぶつかる激しい物音、そして一緒に繋がれているキャッジの悲痛な声が、ぐちゃぐちゃに撹拌されながらキャビンの中を満ちて響く。
不意に、一際大きな衝撃が馬車を襲ったと思うと、短く滑走してようやく世界は止まった。
「くそっ! めちゃくちゃだ!! おい、二人とも無事か!?」
横に倒れ込んだ客車のドアを天に向けて蹴り上げ、クサナギがそこから顔を出す。車内では、イエルとリセの二人が呻きながらも身を起こそうとしていた。
落ちてきたのは、三方を崖に囲まれた谷底だ。谷といってもまだ浅く、馬車はキャビンの形を留めたまま、なんとか底までたどり着く事ができたのだ。
「うん……なんとか大丈夫。リセは……?」
「私も、色んなとこ打ったけど、無事だと思う……」
手錠で繋がれた腕を駆使して先に外に出たクサナギが、二人を外に引っ張り出す。
「痛っ……!」
「リセ、怪我? ……ああ、足を捻ってしまっているわ」
歩こうとした途端に崩れたリセに肩を貸して、イエルが妹を支える。
「ごめん、お姉ちゃん……」
「いいわよ、大丈夫だから」
二人がやり取りをする横で、クサナギは馬車の損傷ぶりを確かめた。車軸は曲がり、御者台が折れて半分なくなっており、とてもじゃないが修理の施しようも無さそうだった。
傍に倒れているキャッジも、脚をひどく怪我したようで立ち上がることすらも出来ない様子だった。
「駄目だ、こいつも置いていくしかないな」
「え、そんなっ!」
クサナギの非情な言葉に悲鳴を上げるリセ。しかし、イエルはその肩を抑え、苦しげに眉根を寄せながらも頭を振った。
「駄目よ、この怪我じゃ。きっと脚の骨も折ってる。それに、まださっきのやつがまだ追ってくるかもしれない。早くここから逃げなくちゃ」
リセが上を見上げると、先ほどの襲撃者が、足を止めたキャッジの上からこちらを見下ろすのが見えた。三人がまだ無事であることを確認し、ここまで降りてくるための道を探しているようだった。
「急ぎましょう。ここを離れるわよ」
「ああ、行こう」
クサナギとイエルは頷きあう。リセは弱々しく鳴き声を上げるキャッジに悲痛な視線を向けていたが、意を決して前を向くと、足を引きずりながら歩き出した。
〈続く〉