ホーホケキョ
鳥の鳴き声に思わず耳が動く。
「もうすぐ春だね」
あなたの腕の中で丸まると、優しく撫でてくれる。目を開けていられないほど気持ち良い。
あなたと出会ってもう18年。月日がたつごとにあなたとの生活は私の日常になっていった。
「さくら」
私の名前を呼ぶ、低くて柔らかい声が心地良い。頭、鼻筋、口元を順番に優しく撫でてくれる。最後に頬を両手で包んで顔を近づけて囁く。
「最高にかわいい」
あなたは分かってくれないかもしれないけど、私の顔はとろけてしまいそう。あなたに言葉を届けられないのがもどかしい。
骨太のごつごつした大きい手が、私の体をそっと包み込む。少しずつ力が入る。ちょっと息苦しいけど、これがあなたの愛情表現。
「僕にはさくらだけだよ。本当にかわいい子」
私もあなただけだと伝えたくて声を出すけど、上手に声が出ない。
「あ、ごめん。苦しかったかな」
パッと大きな手が離れ、急に寒くなる。あなたの腕の中は暖かくて気持ち良いのに、離れてほしくない。ずっと抱き締めていてもらいたいのに、あなたには伝わらない。胸がきゅっと締め付けられる。あなたに締め付けられる方がよっぽど良いのに。
あなたをこんなにも好きになったのはいつからだっただろう。18年前の春、あなたは私を生まれ故郷から連れ出し、あなたの匂いに溢れるこの家へと連れてきた。初めは慣れない物や匂いに充ちていてブルブル震えていた。慣れない手つきで触れるあなたのことが信頼できなくて、怖くて、震えるばかりだった。
「お母さんと暮らしたあの場所に返して!」
何度言ってもあなたには届かない。
「かわいいなあ」
あなたは何度も同じ言葉を繰り返す。あの時は本当に悲しかった。
でも少しずつあなたは私の言葉を理解しようとしてくれた。私のしたい通りにさせてくれた。おいしい物もたくさんくれた。
夜、眠る時はあなたの顔の近くが一番安心する。二番目は足元。あなたは私を蹴らないように寝ている時も気をつけてくれる。あなたの優しさが感じられるから足元も良いの。でもやっぱり顔を見ながら眠るのが一番良い。
夜はあなたがずっといてくれるから好き。でも、明るくなるとあなたはいなくなる。出会ってすぐは寂しくて泣いて、あなたの匂いのする布団に潜り込んで丸くなっていた。少しずつ慣れていってあなたのいない時は、暖かな陽の光が届く場所を探してあなたの匂いと一緒に眠るのが好きになった。
それでもあなたが玄関から出ていく時は今でも寂しい。顔には絶対に出さない。あなたの足止めをしたら悪いって知っているから。
「誕生日おめでとう」
あなたは時々よく分からないことを言う。誕生日って何って聞いているのに、あなたには伝わらない。でも、あなたが嬉しそうな笑顔で私の大好きなおやつをたくさんくれるからなんだっていい。きっと特別に喜んで良い日だって今なら分かる。あなたにすりすり頬擦りをして感謝の気持ちを伝えているけど、分かってくれているだろうか。さっと抱き上げて目を合わせ、ぎゅーっと優しく抱き締めてくれる。あなたが言うことはいつも同じ。
「本当にかわいい。さくらが世界で一番かわいいよ」
「ありがと。でも分かってる」
たまには皮肉も言ってみる。何故だかこういうのは伝わる。
「お高くとまってるな。そこもかわいいんだけど」
結局いつも誉められるから何を言ってもあなたにとっては同じだって気づかされた。溜め息ついても同じこと。あなたが私を嫌いになることはないかもしれない。私があなたを嫌いにならないのと一緒で。
でも、あなたが怒る時はある。私だけが悪いんじゃないのに、あなたはたまに怖い顔をする。
「さくら、一緒に遊ぼう」
よく分からないけど楽しくて興奮するおもちゃで、あなたと遊ぶ時間が好き。あなたもいつもより大きな声で口を開けて笑ってくれる。あなたがあまりにも楽しそうだから私も楽しくなって、ついおもちゃじゃなくてあなたに突進してしまう。あなたともっと遊びたくて、腕とか足に歯や爪を立ててしまう。そしたらあなたは笑顔じゃなくなる。顔をしかめていつもの優しい声とは違う、とげとげして固い声を出す。
「こら、やめなさい!」
その声が嫌でもっと強く噛んでしまう。
「痛い! さくら!」
ぐっと体を捕まれてあなたから引き剥がされてしまう。でもまだ諦めない。あなたは怖い顔をしているけど、一度こうなった私はそう簡単に元には戻れない。間合いを図って、助走をつけて足めがけて歯を立てる。
「痛いって!」
あなたはぎゅーっといつも以上に強い力で私の体を締め付ける。
「やめてよ!」
声を上げたらパッと離してくれる。怖い顔をしながら優しさは変わらない。けど私はまだ諦めない。飛びかかろうと身構える。
「こら! もうやめない!」
怖い顔をしたまま、あなたは扉を閉めてどこかへ行ってしまう。扉を開けようとしても開けられない。
「開けてよ!」
叫んでもダメ。こういう時は諦めるしかない。あなたとの遊びはもうおしまい。楽しかったのに。あんなに怒らなくてもいいでしょ。あなたが私を構うから私も構ってあげようとしただけなのに。私はふてくされて布団の上で丸くなる。あなたの匂いには惑わされない。しばらくは我慢するけど、好きな匂いには抗えない。布団の中に潜って目を閉じる。さっきまでの興奮はどこかに行ってしまった。暖かくて眠くなる。
バタンと音がして、布団の中から顔を上げると、あなたがこっちにやってきて、布団の中に入ってくる。怖い顔はどこへやら、にやけ顔で私の顔に触れる。あなたの腕の中に入って目を閉じる。
私を見るときは大抵笑顔で機嫌の良いあなただけど、時々すごく落ち込んでいる時がある。私のことが目に入っていないみたいに一点をぼーっと見つめたり、座りながら目を閉じていたり。
「どうしたの? 元気ないね」
頬擦りするとやっと私を見てくれてそっと私の顔に触れる。弱々しい笑顔を浮かべるけど、すぐに笑顔は消える。眉と目が下がって、唇を噛み締める。こういう時、私は覚悟する。濡れてもいい覚悟を。あなたが顔を私のお腹にうずめると、じわーっとお腹が湿っていく。何か大変なことがあったのだろう。ずっと一緒にいれば分かる。顔を上げたあなたは何も言わず、目を擦って私を撫で続ける。ちょっと乱暴に感じるけど、何も言わないであなたのされるままにしておく。私の言葉が届かないなら態度で慰めてあげないと。このまま朝を迎えればあなたはまた笑顔になってくれる。
あなたのこと一番よく知っているのは私だけ。あなたには私だけが必要で、私にもあなただけが必要。これまでもこれからもそれは変わらない。そう思っていたのに、あなたは一度私を裏切った。
あなたはいつになく念入りに掃除して、家の中ではいつも全身灰色の服しか着ないのに、出かける時のような襟のついた服を着てそわそわしていた。私を撫でてもくれない。歯と爪を立てようかと身構えていたら、あなたは玄関に走って行ってしまった。見たことない人が家の中に入って来た。鼻にツーンとくる匂いがして危険なものだと分かった。
「逃げて!」
あなたを助けようと声を出すけど分かってくれない。危険な匂いが近づいてきて、触れようと手を伸ばしてくる。これ以上近づかれたら倒れてしまう。あなたの傍に駆け寄って危険人物を睨み付ける。あなたが抱き上げてくれたからこれで一緒に逃げられると思ったのに、あなたはへらへら笑って、危険人物に近づいていく。信じられなくて動けない。鼻が曲がりそうな匂いがさっきよりもっと近づいてくる。耐えきれなくて伸びてきた手に爪を立ててた。私を支えていた腕が突然なくなって、宙に放り出される。訳が分からなくてあなたを見上げると、危険人物に頭を下げて謝っている。そしてあろうことか私に怖い顔を向けてくる。
「さくら、ダメじゃないか!」
私は口を開けてあなたを見つめることしかできなかった。胸の中に空洞ができて、冷たい風が通り抜けていった。危険人物なのに、私よりそいつを構うことが理解できない。
あなたは私よりも危険人物の方が大事なの?
あなたは危険人物と部屋に入って、扉を閉めた。
私はもういらなくなったの?
扉の前で座り込んで二人が出てくるのを呆然と待ち続けた。
危険人物が玄関から出ていく時、あなたは私を抱き上げてくれたけど、あなたの匂いに危険人物の匂いが上書きされているようで耐えられなくて、腕に噛みついた。そのまま地面に下りて外に飛び出した。いつも窓から見てばかりで、初めて家の外に出た。どこに行けばいいのか分からなかったけど、とにかく遠くに行くことだけを考えた。
でも、暗くなってくると寒くなってきて、心細くなってきて、結局そんなに遠くには行けなかった。あなたに裏切られても、私にはあなたしかいない。あなたが必要。例えあなたが私を必要としなくても。
家の前でうろうろしていると、あなたが私を呼ぶ声が聞こえてきた。優しい声でも、怒った声でもない。私のお腹を湿らす時の、情けなく震える声だった。
「帰ってきたよ」
そう言うと、あなたは走ってきて私を抱き上げ、思いっきり抱き締めた。苦しかったけど、目を濡らしながら笑う顔を見たらなにも言えなかった。
「僕にはさくらだけなんだから。もうどこにも行かないでよ」
危険人物だっているでしょと思ったけど、嘘をついているようには見えなかったから信じてあげることにした。例え嘘をついていても、私はあなたなしには生きられないんだから。
私の好きなおやつをたくさんお皿に盛ってくれながら、あなたは優しく私に触れる。
「ふられちゃったよ。私よりあの子の方が大切なのねって。気持ち悪いだって。ひどいよな」
それは本当にひどい! 危険というより最低な人物だったようだ。
「やっぱり僕にはさくらだけだよ。ずっと僕と一緒に生きてくれ。僕を独りにしないで」
「当たり前でしょ。私達はお互いが必要なの。私はずっとあなたと一緒にいる。だからあなたも私と一緒にいてね」
「あぁ、かわいいよ、さくら」
両手で顔を包み込まれる。私の言葉は伝わらなくても想いは伝わっているはず。
だけど、約束を守れないのは私の方だった。あなたと生きられる時間はもうあまり残っていない。ついこの間まで分からなかったけど、急に分かってしまった。だって、私が眠って目を閉じているだけであなたが私のお腹を湿らすようになったから。
「さくら、僕を独りにしないで。お願いだからずっと一緒にいてくれよ」
こう言われたら、分かりたくなくても分かってしまう。それに、なんだか最近体が思うように動かない。私はずっとあなたと一緒にいられると思っていたけど、そうじゃないみたい。
私を想って目を濡らし続けるあなたと離れるなんて考えられない。私だってずっと一緒にいたい。私の言葉はあなたに届かないかもしれないけど、私の心にあなたへの想いを刻んで、いつかあなたに届くよう願いを込めるから、そんなに悲しい顔をしないで。
あなたの腕の中にいる時が一番好き。
あなたに優しく撫でてもらう時も好き。
あなたに柔らかい声で名前を呼ばれる時も好き。
かわいいって誉められる時も好き。
一緒に遊ぶ時も、遊んだ後怒る顔も、その後私のお腹に顔を埋めて幸せそうにする顔も好き。
目を濡らして、私のお腹を湿らす時も好き。
あなたの全てが好き。
私にとってあなたは世界一大好きな人。
私はあなたと一緒に生きてこられて世界一幸せな猫だった。
私との別れを悲しむほど想ってくれて、大切にしてくれて、ありがとう。
お別れっていうけど、私はずっとあなたと一瞬にいるから、私の名前を、私の声を、私の匂いを、私に触れた時の感覚を忘れないで。
私を好きだって想ってくれた気持ちを忘れないで。
私の体は明日、動かなくなるかもしれない。もう声を出すことも難しい。でも最後に直接これだけは言わせて。お願い、この言葉だけはあなたに届いて。
大好き。
これだけ伝われば十分。
「僕も大好きだよ、さくら」
そう言って笑ってくれる顔が見えた気がした。