——さて……帰るか。
送ってくれた女官の姿は見当たらなかったが、入口までなら戻れるだろう。
可能なら、刺繍を担当する下女が仕事をする繍坊に行きたい。ただ、場所がわからなかった。染色の工房の近くのはずだが、どの部屋かはわからない。
裏庭に回れば見知った道があるので移動しやすいが、中庭を堂々と歩き回ることはできない。
——どうやって裏に回り込もうか……
歩くうちに、芳蘭妃の部屋に向かう廊下にたどり着いた。
シンと静まり返って人気はない。眼の前の外廊を進めば芳蘭妃の秋宵宮(しゅうしょうきゅう)だ。廊下の梁には目立つ白布が貼ってあった。香の香りも一段と濃くなっている。
芳蘭妃の部屋だったら、人気がないはず……裏庭に回れるかも。
「そちらの廊下を通ってはいけませんよ」
足を踏み出した瞬間声をかけられ、杏璃は心底驚いた。おっとりとした女性の声だった。
強張った身体でぎくしゃくと振り返る。
「申し訳ありません。道に迷ってしまいました」
「あら、あなた。もっと顔を見せて」
返事は思いがけないものだった。
眼の前に立っていたのは、美しい貴人だった。歳は二十代前半ごろだろうか。杏璃の同世代に見える。
目立つのはその髪色だ。杏璃と同じ赤毛で、簡素な髪の結い方だったが、うねりもあって豪奢に見える。素朴な碧玉のかんざしを指していた。
赤毛によく合う深い藍の上衣に碧色の紗を重ね、松葉のような色合いを出している。そして、杏璃と同じ灰色の瞳をしていた。
白蛇と隼星は後宮の貴人には赤毛もいると言っていたが、この方だろうか。
初めて見る方だが、本当にいたんだ……。
うっかり目を奪われていたことに気付き、杏璃は急いで礼をした。
「あなた、曜河の出身の方?」
「……曜飛族の出でございます」
「同郷の方とお会いするのは何年ぶりかしら。寺院にいらしたの?」
「はい」
「あなた宮女ではないでしょう。出口まで送って差し上げます」
こう言われたら、ついていくしかない。
この方が着ると、簡素な衣も豪奢に見えた。
女性にしては珍しく淡く黒い色が香っている。墨と……膠だろうか。嫌な匂いではない。
杏璃が首から垂らした印牌に気づいたのか、八仙は口を開いた。
「あなた、白蛇様のお屋敷の方?」
「杏璃と申します。白蛇様の弟子でございます」
「あら!!」
八仙は驚いたように振り向いて、じっと杏璃を見つめる。
弟子と言ってもまだ十日も立っていない。掃除やらお使いやらしかしていないので、さすがの杏璃も少し気まずい。
「お弟子さんを取ったのねぇ。今日はお使い?」
杏璃はうなづいた。白蛇の弟子が芳蘭妃の部屋の前をウロウロしていると思われるまずい。
「貴人様、恐れながら……」
八仙はくすりと微笑んだ。
「わたくしは才女です。楽にしてください」
八仙がにこやかに話す。
才女とは書や音楽、舞などの芸術の才能のある女性を指す敬称だ。
媛が家柄や容姿によって皇帝の寵愛を受ける存在であるならば、才女は芸と知識によって宮中に彩りを与える存在である。
この方は、画や書の才能があるのだろうな……。墨の香りがその証拠だ。
「普段は北のお部屋にいますのよ」
杏璃の沈黙を困惑と受け取ったようで、八仙は困ったように首をかしげた。
「ごめんなさい。喋りすぎね。同郷の方とお会いすると嬉しくなっちゃうの。わたくしの侍女にも何人かいますのよ」
杏璃はハッと息をのみ振り向いた。やはり何人かは曜飛族の宮女や下女がいるのだ。
「八仙様、同じ曜飛族の
八仙は首をかしげる。
「小雪?んんん、曜飛族の娘は何人か知っているけど、聞き覚えがない名前ね。思いつかないわねぇ」
「そうですか……」
気がつけば、後宮の入口にたどり着いていた。案内役の女官が睨みつけるように立っている。
別に黙ってうろちょろしたわけではないのに。杏璃は塩らしい表情を貼り付けて頭を下げた後に、八仙に向き直った。
「ご案内ありがとうございました。小雪という娘を見かけたら白屋敷宛にご一報いただけませんか」
「あら、そんなに大切な方ですのね。下女達は名も知らぬ娘もいますから、気になるなら今度来た時に紹介してあげましょうか」
「本当ですか?」
八仙はゆっくりと頷いた。
「ねぇ、あなた。白蛇様のお弟子さんなのでしょう?白蛇様の香、わたくしも試してみたいの。お作りしてもらうようお願いしてくださらない?」
「もちろんです」
考える前に言葉が口から出ていた。
もちろん、そんな事を約束できる立場ではないが、最近は後先考えずについ動いてしまうことが増えている気がする。
——それが命を救ったのだから、多分、その、大丈夫だろう……。それに、また後宮に出入りできる口実ができる。
杏璃は深々と礼をし、後宮を後にした。
*
門を出ると、もう日は暮れようとしていた。
杏璃はいつの間にか、つめていた息を吐いた。気づいてはいなかったが、思っていた以上に緊張していたようだ。
「戻ったか」
見送ったその場で、同じ格好で隼星は待っていた。
隼星の姿を見た瞬間、杏璃は安心して体の力が抜けていくのを感じた。なんだか古い知り合いに久々に会った気分だった。
「隼星様?どうされましたか」
「君を待っていた」
杏璃はなんと答えてよいかわからず、口を開けて、そして閉じた。
なんでまた?と口から出かけるが、なんとか飲み込む。親切な方もいるとは理解はしているが、自分には縁がないと思っていたからだ。
「途中まで送ろう。日が暮れると冷える。早く行くぞ」
隼星のはっきりとした言葉に押され、杏璃は急いで後宮から立ち去った。杏璃も早く白屋敷に戻りたい気持ちでいっぱいだった。まだ十日足らずしか過ごしていないのに、もう白屋敷が自分の家のように感じられる。
それに、以前は怖かった隼星が今ではとても心強い存在に感じた。
「どうだった?」
「人が亡くなったのに、なんだか、あまり変わりはありませんでした」
「なにか分かったか?」
妹の事だろうか、それとも芳蘭妃の事件の事だろうか。
「白蛇様は、あの事件があった夜、後宮にいらしたのですね」
そういえば、芳蘭妃の部屋から毒を見つかったと言っていた。すぐに箝口令が引かれたはずだし、見つけたあの場所にいたのだろう。
「そうだな、俺の部隊は夜明け頃に呼ばれたが、あいつもいたな。あいつは鼻が効くからな、宦官から呼ばれたのだろう。最初は毒煙の中毒だと思われていたしな」
「毒煙?」
「詳しくは知らんが、ある種の樹脂を燃すと毒煙が出るだろ。妙な香の香りが漂っていたしな」
あれは、藤の香だった。芳蘭妃のお気に入りだ。
毒の確認で調香師である白蛇が呼ばれたのは納得がいく。そして改めて、玲華妃の反応にゾッとする。
姉の部屋での騒ぎの中で、白蛇に会えなかった事を残念がるだなんて。
それに——杏璃の思索は隼星の一言で途切れた。
「妹の事はどうだ?」
「……いいえ、なにも」
それから2人は無言で歩き続け、白屋敷の門前に着いた時には日がすっかり落ちて暗くなっていた。
帰り際、隼星はふいに思い出した様子で懐に手をやった。
「ほら、手を出しなさい」
手渡されたのは、革の袋に包まれた小さな陶器の壺だった。
「?」
「軟膏だ。そんな手だと、水仕事が辛いだろう」
「あ、ありがとうございます」それしか言えなかった。
呆然とした杏璃を残し、隼星は立ち去った。
杏璃の胸に、ほんの少しだけ灯がともったようだった。