正面門の茜の柱と山吹の梁が、雪の名残と溶け合いながら静かに佇んでいる。
伝統に則り、王宮の東に位置するこの宮は、まだ真新しい木の香りに包まれていた。
想像より簡単に、杏璃は後宮に足を踏み入れることができた。
門衛に要件を伝え、白蛇から預かった銀製の
あれだけ抜け出したくとも出られなかった後宮の門が、白屋敷の紋ひとつであっさりと開くのだから恐ろしい。
調香師がここまで力を持つのだろうか……
あらためて、白蛇が何者なのか分からなくなる。
杏璃にとっては、およそ十日ぶりの後宮だった。
後宮外廊の中心でゆっくりと周囲を見渡す。変わりない風景、変わりない廊下、変わりない香りに見えた。だが、初めて訪れる場所のようにも感じる。
案内に来たのは、宮廷制服を来た年配の宮女だった。
かつて洗衣女として働いていた時は、1日中外の洗い場にいて、廊下を歩くような機会などほとんどなかったので、案内はありがたい。
「杏璃殿、こちらへ」
老宮女に導かれ、
玲華妃は名家出身の妃嬪のため、特に素晴らしい部屋が与えられていた。たしか、場所は芳蘭妃のすぐ隣、後宮の南側に位置する
杏璃は芳蘭妃の
歩きながら、杏璃はふと違和感を覚えた。宮女がわざと回り道をしていることに気付いたのだ。
「宮女様、あちらの廊下を行くほうが近いのでは?」
思わず声をかけると、宮女はじろりと杏璃を睨みつけ、言葉も返さずに歩き続けた。そして数歩進んだところでぽつりと告げる。
「あちら側は……不幸な出来事がありまして、今は通行できません。」
なるほど。
芳蘭妃の部屋の前を通るのを避けているようだった。よく見れば、廊下の柱には一定間隔に白い麻旗がいくつも下がっている。喪に服す印だ。
あまり見かけたことが無い、灰色の香も漂っている。
誰かが亡くなった場合に焚く、喪を表す香だろう。まだできて間もない後宮では喪が珍しく、杏璃も初めて見る香りだった。
裏庭から漏れ出る下女たちの声はなく、廊下には人気がなくしんと静まり返り、後宮全体がひっそりと沈んでいるように見えた。
*
玲華妃の私室に通された杏璃は、侍女に引き渡された。
もちろん玲華妃の私室まで来るのは初めてで、杏璃の胸は徐々に緊張で高鳴ってきた。
高貴な媛と直接やりとりする訳では無いが、媛の身近に仕える宮女たちには会うことになる。綺麗な服を着ているが、卑しい身分だとあっさり見破られるかもしれない。
急に荒れた手が気になり、髪ももっと梳かしてくればよかったと後悔し始めた。
——まったく、なんのためにここに来たの。
別に元奴隷だと知られても構わない。白蛇様の使者を堂々と見下したりはしないはずだ。
私が後宮に来たのは、妹の行方を探すため。
杏璃としては、すぐにでも妹を探し回りたい気持ちもあったが、人の目がある中ではなかなかできることではない。
ゆっくりと息をつき心を落ち着けてから、改めて私室を見渡す。
玲華妃の私室は、かつて仕えていた芳蘭妃の部屋とはまた違う、明るく華やかな趣を持っていた。
牡丹と燕が描かれた巨大な屏風が部屋の目立つ場所に置かれ、金と若草色に焼きつけられた花瓶が整然と並んでいる。そのひとつひとつに、花をつけた大ぶりの桃の枝が活けられていた。
今は真冬だというのに、あんな立派な桃の枝は見たことがない。
喪を示すためか、白い麻布がいくつかの家具にかけられていたが、それでも部屋全体の雰囲気はあくまで明るく、どこか艶やかでさえあった。
この香りはなんだろう。桃と……?
それに淡い桃色の霧の中に、赤い筋のように華やかな線も見える。だいぶ香りに詳しくなってきた杏璃だが、細かな香料の見分けまではまだできない。色の違いがわかるだけだ。
しばらくして、高齢の女官が静かに姿を現した。媛の女官長だろうか、白髪をきっちりとまとめあげ、喪を示す白い帯を垂らしている。
「ようこそいらっしゃいました」
歓迎しているのか、していないのか、抑揚のない声で老女官は言った。
杏璃は手を重ねて礼をし、なるべく落ち着いた声でゆっくりと口を開いた。
「白蛇様のお遣いとして参りました杏璃と申します。白蛇様のご名代として香をお届けいたします」
そのまま箱を差し出す。包み布を開けると、ふわりと香りが室内に広がった。
花の形をした香がころころと陶器の器に入っている。
白蛇が調合した香で、粉末状に砕いた香料を蜂蜜や蝋で練り、小さく丸めた練香と言われるものだ。
老女官はちらりと香を見ると、わずかに眉をしかめた。
どうやらあまり喜んでいない様子だ。
しかし、杏璃も勝手に香を持ち帰るわけにはいかない。何食わぬ顔で、ずいっと包み布ごと押し出す。
そのとき、奥の間から鈴のような澄んだ声が響いた。
「
美しい女性が部屋へと姿を現し、空気が一気に変わる。
まるで一足早く春が訪れたかのようだった。姿を見るのは初めてだったが、ひと目でそれが玲華妃だとわかった。
圧倒されるほど華やかな媛である。
整った顔立ちに長いまつげがどこか芳蘭妃に似ている——けれど、雰囲気はまったく違った。
真っ黒な髪を整然と結い上げ、細かい銀細工の簪は花の飾りが着いていた。幾重にも重ねた桃色の紗に、同系色の刺繍が施されている。
喪を示すはずの白帯を締めてはいるが、その哀しみは不思議なほど伝わってこない。むしろ全身から明るさと艶があふれていた。
芳蘭妃の妖艶で艶やかな雰囲気とは対照的に、妹の玲華妃は花の蕾のような可憐さと底知れない華やかさを持っていた。
「あら、そちらは」
玲華妃は杏璃に気づき眉根を寄せた。
冷ややかなまなざしに杏璃は後宮での下女時代を思い出した。高位の媛や宮女たちが、下女など存在しないかのように振る舞う時の目だ。
「媛様、はしたないですよ」
宮女のたしなめの言葉も無視し、玲華妃は優雅に
杏璃はもう一度挨拶をした。
白蛇の使いと言ったところで、玲華妃の興味は薄れたいったようだ。
「白蛇様がいらっしゃったかと思った」
玲華妃はつまらなそうに云うと、屏風の前に優雅に腰をおろした。
自分のどの所作が魅力的に見えるか知っているのだろう。淑やかな座り姿は、姉の芳蘭妃よりも堂々として見える。
ゆっくりした動作で
華やかさと冷たさを感じる、不思議と目を奪われる方だ、と杏璃はぼんやりと思った。
「この前はお目にかけられなかったから、今日こそはと思ったのに」
この前? 白蛇は何度も後宮に足を運んでいるのだろうか。でも、口ぶりではつい最近のようだ。
杏璃は慎重に言葉を選んで口を開いた。
「恐れながら……最近、白蛇様がお越しになったとお聞きしておりませんでした。いつ頃のことでしょうか?」
部屋の空気がピリリと張り詰め、老宮女の喉を詰まらせた声が小さく響いた。明らかに失言したようだ。
玲華妃はふんと息を吐くと、なにも気にしていない口調で口を開いた。
「香を見せて」
玲華妃はつまらなそうにしていたが、箱の中を見るなり満面の笑みを浮かべた。
「素晴らしい香りだわ。わたくしにぴったりではありませんか?」
そうだろうか。喪の時期には少し華やかすぎる気がした。上位の媛の後宮でのしきたりは詳しくはないが、どうも派手すぎるような気がする。
「白蛇様によろしくお伝えなさって。またお願いするから」
玲華妃は満足した様子で、笑みを浮かべてまた帯に手をおいた。
癖だろうか。
「媛様!」
梅仙と呼ばれた老宮女が声を上げ、杏璃はビクリと身体を強張らせた。怒鳴り声は嫌いだ。玲華妃は全く気にしていないようだ。
——なんなのだろう、この二人……
「その……それでは……わたしはこれで」
言い終わるが早いか追い立てられるように廊下に出される。
言葉にできない違和感とともに、なんだか薄ら寒さを感じた。
それが、玲華妃に死んだ姉の芳蘭妃の面影が漂うせいなのか、杏璃にはわからなかった。