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第6話 弟子入り

 杏璃が白蛇の屋敷に来てから七日が過ぎた。白蛇の屋敷にもだいぶ慣れてきた。


 杏璃に与えられた仕事は、まず工房の掃除だった。隅から隅まで黙々と箒をかけ、瓶を磨き、丁寧に清める。

 杏璃は香料の入った硝子瓶を拭きながら、1つ1つ香りを確かめていた。

 こんな時、文字を勉強しておいて本当によかったと心から思う。かつて商家で奴隷から下女に取り立てられたのも、商品の札を読めたからだ。

 それに、思いのほか見知った材料が香料として使われているのも、興味深い。

 香料は驚くほどたくさんあった。


 甘い花粉のような粉っぽさを感じさせる白い油。

 香に使うとは思えないほど苦い香りを持つ樹脂。

 枯れた葉っぱの香りのする、ただの枯れた枝。

 林檎と密を煮詰めたような甘い香りが、ただの干からびた木の皮だったりと面白い。


 惜しむらくはその瓶の並べ方で、杏璃に言わせれば黄色に見える香料の横に、墨色の香料が並んだりと、色味がバラバラで気になる。

 バラけた色味にむず痒く感じるが、並べ方も白蛇の考えがあると思い、杏璃は手をつけずに淡々と置き場所に戻した。

 全ての棚を拭き終わった時には、杏璃は香料の置き場所は全て記憶していた。

 こんなところで商家の倉庫係だった頃の経験が役に立つとは思わなかった。


 今日は朝から、あれを取ってこい、これを取ってこいと言われるがまま香料を白蛇のもとに届けていた。白蛇の指示は雑だったが、寒い中冷たい水で洗濯をするのと比べれば天と地の差だ。

 それに時間が立つにつれ、すぐに場所がわかるのが心地よかった。


 今の白蛇は机にかじりつき、巨大な乳鉢に向かい何かを黙々とすり潰している。

 時折、蜜蝋かなにかを混ぜて、温めて、またすり潰し、粉末は泥のようになっていた。

 茉莉花、伽羅、百合の花粉のような香りが鼻をかすめ、乳白色と桃色の風を感じる。濃厚で官能的でありながら、どこか楚々として華やかな香りだ。


「邪魔するぞ」


 戸口から低い声が響き、隼星が現れた。どうやら親しい客人は玄関ではなく、工房の戸口から来るらしい。

 今日の隼星は牢で見た鎧姿ではなく、藍色の外套と黒の上衣と纏っていた。腰帯には銀の紋章がついた短刀を差している。


「君は……」


 杏璃に気づいたのか隼星が声を詰まらせた。

 杏璃は膝をついて向きなおり、命を救ってくれた感謝を込めて精一杯の礼をした。


「白蛇様に弟子としてお迎え頂きました、杏璃と申します」


「——その髪は」


「恥ずかしながら寺院帰りのため、短髪で失礼いたします」


 短くなった髪は雲華に整えてもらい、なんとか見れる状態にはしている。「寺院帰りだと言えばよいでしょう……たぶん」と雲華に励まされるように言われたが、杏璃は疑心暗鬼だった。

 こうして男性の前に出るのは、やはり少し気後れする。

 不思議な事に、屋敷の薬湯で髪を洗うとどんどん色が抜けていき、今では生まれ持った赤毛に戻っていた。


「元気そうだな」


 少し戸惑った様子で、隼星は言った。そのまま敷台に腰を下ろし、外套を脱ぐ。

 ぎこちない沈黙が流れた——破ったのは、白蛇の能天気な声だった。


「おお、嵐。見ろ! この娘、私の弟子だ!」


 バンバンと杏璃の肩を叩く。


「分かった」


「見違えただろう。絶世の美女——……んんん、とまではいかぬが、なかなかの愛らしさだろう」


「白蛇様……もう十分ですから」


 絶世の美女では無いことくらい自分でも知っている。褒められ慣れていない身には、ただただ恥ずかしいだけだ。髪のように真っ赤になっている事に気づき、杏璃は下を向いた。


「あれだ、茜色の小猿——赤毛猿に似ているな!」


 あ、茜猿?思わず白蛇を睨みつける。


「お前……それで褒めているつもりか?」


「茜猿は吉兆の証だぞ」


 隼星はため息をつきながら、白蛇には目もくれず杏璃の方へ向き直った。


「君は……あれが師匠でいいのか?」


「あの、いえ……その……。——お、お茶をお出しします」


 杏璃が立ち上がりかけたその時、白蛇が手を振って制した。


「待て待て、杏璃、座りなさい。隼星。ちょうど良かった。この娘を瑶華宮ようかきゅうに送ってくれないか」


「え?」


 思いもよらない言葉に、杏璃は固まった。


「使いだ」


「後宮に…… わたしが? 入れるのでしょうか?」


「白屋敷の白蛇の使いといえば、入れるさ。玲華妃リンファンヒ宛だ」


 その名にゾクリとする。玲華妃は4妃嬪の一人。芳蘭妃の妹である。

 白蛇は机上から香粉をひとつまみ取ると、火鉢へとさっと振りかけた。

 香りが一段と強くなり、茉莉花と伽羅、百合の余韻が混ざり合い、室内の色が一瞬で変わる。


「玲華妃にお届けすればよろしいのですね?」


「そうだ、行け」


 白蛇は何気ない口調で言いながら、杏璃に箱を差し出した。

 豪奢な織布に包まれた箱からは、淡い桃色の香りがにじみ出ている。香だろう。

 来た。ついに来た。後宮に入れる機会が。杏璃はグッと息を飲み、しっかりと箱を受け取った。


「わかりました、行ってまいります。隼星様、お茶も出せずに申し訳ありません」


「なに、顔を見に来ただけだ。送っていこう」


 隼星はなんてこともないように言うと、先程脱いだ外套をまた羽織った。



 *



 宫路の雪はもうすっかり溶け、地面はぬかるんでいた。

 あの満月の晩、寒さに凍えながらも歩いた道を今は逆方向に進んでいる。

 杏璃は裾が汚れないよう気をつけながら、黙々と歩いていた。


「杏璃、本当に行くのか?」


 後ろから隼星が穏やかな声で言った。優しい声だった。

 杏璃は無言で頷いた。


「君は死んだ事になっているがな、顔見知りに合ってバレるかも知れぬぞ」


「洗衣女の時代の知り合いは全て死にました」声に力を込めながら続ける。「今は赤毛で短髪ですし。寺院の出だと言えば、見知った顔でもわたしとはわからないでしょう」


 しばしの沈黙ののち、隼星が言った。


「妹を探しているのだったな。白蛇から聞いた」


「はい。半年前から手紙が途切れてしまいました。妹は手先が器用でしたので刺繍の工房にいました。近く配置換えがありそう、と最後に受け取った手紙に書かれていました」


 また無言で歩き続け、2人は瑶華宮の門前にたどり着いた。


 大きく息を吐き、顔を上げる。

 視線の先には、巨大な門がそびえていた。


 二年前、商家から献上された下女として、この門をくぐったときのことを思い出す。あれからすべてが変わった——名前さえも、別人の人生になったのだ。


「気をつけろ。何かあったら嵐家の俺を呼べ。白蛇は呼ぶな」


 隼星の言葉に杏璃は戸惑った。思いやりのある言葉をかけられた事など、ほとんどなかったからだ。

 ありがたい申し出ではあるが、実際に何かがあった時に隼星や白蛇に頼る事はないだろう。

 私はやらぬばならない事がある。白蛇のお使いと聞けば聞こえが良いが、実際は妹を探すために後宮に潜り込みたいのだ。命の恩人を巻き込むことはできない。


「隼星様、ご親切にありがとうござます」


 杏璃の本心からの言葉だった。


「気をつけろよ。後宮は怨念渦巻く魔窟だ」


「——それは……わかっています」


 杏璃は隼星が何かを言いたげに、自分を見つめている事に気がついた。

 だが今は、後宮に向かうのが先だ。


「お送りありがとうございました。行ってまいります」


 杏璃は再び後宮に足を踏み入れた。

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