どさり、と何かが落ちる音で
見知らぬ部屋の床で眠りこけている事に気づき、思わず目をパチクリとさせる。
「姐さま、姐さま」
同時に心地よい声と共に身体が揺すられていることにも気がついた。
——そうか……ここは白蛇様のお屋敷だ。
真夜中に案内された時は疲れ切って見回す気も起きなかったが、使うように言われた部屋は立派なものだった。
高い天井には木の梁が渡り、乳白色の漆喰の壁を際立たせている。床は厚みのある木材でしっかりと磨かれ艶があり、暖かく柔らかな敷物が引かれていた。
媛の私室ほどの華美さはないものの、落ち着いた居心地の良さがある。
「痛い……」
昨夜は疲れ切っていたが、清潔な寝台に汚れた衣で入るのにためらってしまい、火鉢に抱きつくように床で眠ってしまったのだ。おかげで体中がビシビシと痛む。
「姐さま、そろそろ起きてくださいまし」
明るい声が部屋に響く。
女の子だった。13歳くらいだろうか、黒髪をきっちりと大きなお団子にまとめ、小ぶりな牡丹の髪飾りが可愛らしい。
宮女のような淡い若草色の上衣をまとい、杏璃を覗き込んでいる。
杏璃はダンゴムシのように縮こまっているのが恥ずかしくなり、慌てて起き上がった。できるかぎり姿勢を正して座り直す。
乱れた裾を直すが、少々直したところでクタクタの衣と乱れた髪ではまるで古雑巾のようだろう。
「——お世話になります。杏璃と申します」
まだ慣れない名前を口にするのはぎこちなかった。
「お疲れのようでしたのでお気になさらず。
雲華は
テキパキとした少女だ……とまだ寝ぼけている杏璃はぼんやりと思う。
「杏姐。まずはお顔を洗ってくださいまし」
言われるがまま、雲華が持ってきた陶器の桶で顔を洗う。お湯で顔を洗うのは初めてだった。
綺麗な文様付きの洗面器をマジマジと見ていると、次は膳が運ばれてきた。
眼の前に並べられたのは、漆の椀に盛られた粥だった。
とんでもなくいい香りが漂う。
杏璃は初めて自分が空腹だということに気づいた。石牢でも食事は出ていたが、まったく喉を通らなかったのだ。三日ぶりのまともな食事だ。
粥には塩、鶏肉、それと知らない香辛料の豊かな香りと鮮やかな色合いを湯気の向こうに漂わせている。
一口食べて、声にならない喜びの叫びを上げた。温かい粥が体に染み渡る。文字通り涙が出るほど美味しかった。思わず夢中で食べてしまう。
「お口に合いますか?」
「本当に美味しいです。ありがとうございます」
「蓮の実とクコの黒米粥です。クコの実は身体に良いですからね。白蛇様ったら、肉団子と焼き餅を出せと仰るのですよ。絶対こちらのほうが体にいいのです」
雲華は自分の手柄のように胸を張る。そんな様子が妹を思い起こし、杏璃は久々に微笑んだ。
「白蛇様は薬草に詳しくても、お食事の薬効には無頓着なのです」
あの方はお医者様なのだろうか。牢屋でも毒に詳しく、香りが数字で見えると言っていた。
「ささ、浴堂のご用意ができています。お食事が終わったら、お風呂に入ってくださいまし。それに……」雲華は杏璃の髪の毛を見て、言葉を探すように口ごもった。
「——その、御髪を整える必要がありますね」
*
「うわぁ……」
風呂上がり、杏璃は鏡に写った自分に愕然とした。
——この髪……。
雲華が口ごもるのも当然だ。髪は耳上から切られたせいか、左の方が長く、全体がちくはぐだ。前髪だけやけに長く、耳の上はつかめるかどうか怪しいほど短い。誰がどう見ても不格好な髪型だった。
「これは……たしかに整えなければ……」
風呂で匂いのキツい薬湯を被ったせいかだいぶ色が抜けたらしく、染めていた黒色が抜けて赤茶がかって見える。窓から差し込む光に照らされ、赤毛がキラリと輝いた。
頬はこけているとはいえ、風呂で少々血色が戻ったようで、昨夜は牢獄の石床の上で凍えていたとは思えない。
今は、雲華が用意してくれた藍色の袴と上衣姿だ。清潔な布地の肌触りが心地よい。
切られた髪のせいで首元にひやりと風を感じ少し落ち着かないが、頭が軽くなったぶん不思議と気分は軽やかだった。
*
身なりを整えると、雲華は屋敷の案内を買って出てくれた。案内されるがまま、中庭に面した廊下を進む。
どうやら白蛇は杏璃のことを新たな弟子だと紹介したようだ。
わたしは本当に白蛇様のお弟子になったのだ……。
とはいえ、何者の弟子にはなったか分からないので、何をすればよいのかわからない。
掃除と洗濯なら一通りできるが、今はただ雲華の後をついていくだけだ。
白蛇の屋敷は、杏璃が下女として育った商家の屋敷と造りがよく似ていた。ただし、規模は倍近く広い。
どの家具も飾りも品が良く、杏璃が見ても一級品に見える。そして、屋敷全体に良い香りの香が焚かれていた。淡い浅黄と赤が混じり合ったような、なんとも爽やかな香りだった。
その香りの源を探していると、杏璃の目に見慣れない器が映った。
廊下に置かれた背の高い台の上に見事な陶器の皿が置かれていた。普通なら、花を飾る高台だ。
皿には砂がひかれ、5色の香が縞々となりウネウネと曲がり細長く伸びている。端から静かに燃えていた。
見たこともない形の不思議な香だった。
「香時計です」
杏璃が見入っているのに気づき、雲華が明るく声をかけた。
「香を燃やして、香りで今が何刻かわかるのです」
「そんなものがあるのですね」
「今は昼時だから、
丁香の甘く刺激的な香りに白檀の温もりのある木の香りが広がり、なんだか活力がでるよないい香りだ。杏璃は思いっきり吸い込んだ。
「こちらが白蛇様の工房です」
——工房……?
大部屋に足を踏み入れた杏璃は思わず息を呑んだ。
まさしく、工房だった。いや、杏璃には大工房に見えた。後宮にある大広間並に広い。
なにより、目を引くのは両壁の大棚だった。ぎっちりと大小さまざまな硝子の器や壺が並べられ、乾いた草花や果皮、得体の知れぬ塊が詰められていた。
天井からは薬草や香草を思わせる草木と花が所狭しと吊り下げられている。
長机には見たこともない器具が並び、隅には書物が山のように積まれていた。
部屋の半分は土間になっており、大きな戸口は外の庭へとつながっているようだ。戸口には硝子がはみ込まれ、太陽の光があふれている。
なにより、その香り。朱、黄、藍、碧——香りが色として迫ってくる。色とりどりの香りがあふれ、虹色に混ざりクラクラとした。
「白蛇様は……お医者様なのですか?」
雲華はポカンと口を開けた後、ころころと笑った。
「白蛇様はお医者様ではありません。調香師でございます」
調香師……。
工房の真ん中にポツンと取り残されて、杏璃はその言葉を繰り返し考えた。
調香師……お香や香油を調合する職人がいる事は知っていたが、これほどの設備と材料を使うとは思わなかった。ずらりと並ぶ器具、硝子瓶、香料と思われる物体。すべてが見慣れぬものばかりだ。
「やぁ、杏璃。目が覚めたかあ」
外とつながる戸口から、白蛇がのんびりとした声とともに姿を現した。
昨夜は男装の袴姿だったが、今日は麻の簡素な上衣に身を包んでいる。それでも、昼の明るい陽射しの下で見る白蛇は、やはり優雅だった。
絹ではなく麻をまとっていても、麗人は麗人——杏璃は密かにそう思った。
「白蛇様、おかえりなさいませ」
白蛇は杏璃を無視して履物を蹴飛ばすように脱ぎ捨てると、板間にごろりと寝転んだ。
「ああ、全く。疲れた。おなごの格好は肩が凝るな」
床に大の字になり、白蛇がぼやくように言う。
「シワになりますよ」
なるほど、奉公とはこういうことか。
杏璃は自分の役割を一瞬で理解し、しずしずと白蛇の横にしゃがみ込み上衣を丁重に脱がせる。
肩紐解き、ふと気づく。白麻の手触り、控えめな刺繍、これは……これは喪服だ。
まじまじと上衣を見つめていると、白蛇がぽつりと呟いた。
「皇城で芳蘭妃の葬礼の儀だった」
「ずいぶん……早いですね」
あの事件が起きてまだ3日だ。太子の後宮の妃嬪が亡くなったのであれば、4日間の安置の後、皇帝陛下も参加する葬礼の儀が行われるのが慣例となっている。
「なきがらは故郷に返すからな。今から移動すると20日はかかるから、新年の祝までに届けたいとの計らいだ。明日の夜には出発するそうだ」
「そうですか……」
杏璃は衣架に衣を丁重にかけながら呟いた。
「宦官は毒気での事故だということにしたようだよ」
「毒気?」
「部屋には50人もいただろう。そんな人数で香を焚き、炭を焚いていたんだ。それだけいれば、空気も悪くなる」
「……」
事故として扱うことで後宮に波風を立てず、太子の面目も守られる。宦官達はそう考えたのだろう。
ましてや太子の即位を控えた今、醜聞や騒動はあってはならない。
そのための後宮なのだから……
「ま、我々には関係ない話よ。官吏が胃を痛めてる間に、私は香でも練ってるさ」
その時、雲華がぱたぱたと工房に駆け込んできた。
「白蛇様、お帰りなさいまし。あーーー! また転がって!高貴なお方が、今にミノムシになってしまいますよ!!」
雲華の叱責に思わず口元がゆるむ。杏璃には、新しい日々が静かに動き出したように思えた。