右には天子が住まう皇城と内府、左手には都と王宮と分け隔てる高壁が見える。
高壁には点々と松明が灯されており、警護の歩兵が静かに立っていた。
矛を持つ歩兵の影を見るたびにビクリとするが、白蛇が軽く手を降ると兵達は黙礼し警備に戻っていく。
白蛇様はどういった立場の方なのだろう……
将軍の
そもそも、女性の文官などいるのだろうか? 女性が、たった一人で衛司の牢屋に立ち入ることができるのだろうか。
暁雨は王宮に来てすぐ後宮に下女として入ったため、外のことはほとんど知らなかった。白蛇は、仙女か妖狐のたぐいといわれた方がまだ納得がいく。
「あの明かりが見えるのが、太子の後宮だよ」
白蛇がその白い指を後ろに向ける。暁雨はつられて振り向いた。
辿ってきた道の先、足跡の延びる奥の空がぼんやりと光を帯びている。閉じ込められていた石牢の塔よりもさらに奥、壁に囲まれた一帯が暁雨がいた後宮らしい。
王宮の敷地がどれほど広大か、暁雨は改めて思い知らされた。
「事件が起こってから騒がしくてね。最近は夜でも煌々と灯りを灯している」
暁雨はおずおずと声を上げた。
「あの……白蛇様」
「礼なら嵐に言いたまえ」
いつの間にか隣に来た白蛇が軽く微笑んだ。
「あの夜、後宮は大騒ぎでな。外廊警備の嵐の部隊も後宮の警備に回されたんだ。遺体の一時置き場の中から、息のあるお前を見つけたのが嵐の隊だ。宦官どもに見つからなくて良かったな、あっという間に犯人にされていたぞ」
暁雨は思わず身を震わせた。
「これは他言無用だ。
「それでも、わたしが犯人になるのですか?」
「そうだ。お前が毒茶を仕込んだ後に、媛の箪笥に忍ばせたといえる」
「あれは媛様が入れたものです」
「見たのか?」
「いいえ……」
白蛇は肩をすくめた。
「とはいえ、宦官もさすがにこれは芳蘭妃か、媛に近しい宮女達が引き起こした服毒事件だと見ているようだ。だが、皇后候補の媛がそんな騒ぎを起こしたとあっては、一大事。しかも芳蘭妃は、北の名家の出身だしな。家にも宮廷にも、顔向けができん。だから、犯人が必要になるのさ」
震えが止まらず、提灯を持つ右手に思わず左手を添えた。
「嵐は、後宮を管轄する宦官軍とは別筋だ。宦官どもに引き渡してもよかったが、後宮での殺人は皇帝陛下に弓引く大罪。嵐は武官だが頭は回る。お前が『毒が見える』だのなんだの言い出したから、私に話が回ってきたってわけだ」
「この事件、どうなるのでしょうか」
「さぁ、今頃宦官どもが頭を抱えているだろうよ。お前は媛が毒を入れたと言っているが、近しい宮女がいれた可能性もある」
そうだろか。夜中に集められた宮女たちのあの戸惑い。媛に長く仕えていた宮女長も戸惑っていたようだ。
やはり、毒を入れたのは媛としか思えない。
「関係者は全て死んでいるようだし真相は藪の中だな」
「……」
——芳蘭妃はなぜこんな事をしたのだろう。
芳蘭妃のあの様子。あの目は狂気に飲まれたとしか言いようがない。だが理由は? 高貴な方には狂気に至る理由があるのだろうか。
暁雨は慎重に言葉を選んで言った。
「芳蘭妃は妹君の
「このままいけば、上手くいけば太子妃、黙っていても妃嬪だものなぁ。いや、太子の好みは知らんが」
「気位の高い難しい方とお聞きしておりましたが、自分の名誉やお家の誉が汚されることでも無い限り、自死を選ぶお人ではありません」
白蛇は意味ありげに眉を上げた。
「何か、引っかかっているようだね?」
「……いえ。恐れ多いことです」
何かある――きっと何かがあるはずなのに、頭がうまく回らない。疲れと寒さで、思考が霞んでいく。
*
それから黙って数刻歩き、ふたりは王宮のはずれの林までたどり着いていた。外壁の高い塀が折れ曲がっている。どうやら、ここは王宮のほぼ端らしい。
門の奥、遠くにぽつりと灯りが見える。林の中に邸宅があるようだった。
「今夜は私の屋敷に泊まりなさい」
白蛇の声が落ちると同時に、門に灯りがともる。まるで、主人の帰還を待っていたかのようだった。
――奇妙な方は、奇妙な屋敷に住むものだ。
暁雨は、白蛇がくぐった門を見上げた。
白塗りの壁に白い瓦。積もった雪と満月の光に照らされ、ぼんやりと白く輝いている。
朱塗りで絢爛豪華な王宮の門とは似ても似つかぬ、静謐で不思議な雰囲気の門だった。
「お前、出身は北だったな」
「いいえ。曜飛族の出ですが父母は記憶にありません。子どもの頃、商家に奴隷として買われましたが下女としてお引き立ていただきました。二年前、瑶華宮が新しく設けられた折に、商家のお嬢様のお供として都入りし後宮に上がりました」
「商家の娘は宮女になったのか。であれば、彼女に仕えるのが通例では?」
「お嬢様は曜飛族がお嫌いでわたしどもを手放しました」
「ほう、ご立派なお嬢様だこと」
白蛇の皮肉交じりの笑い声に、暁雨の心はスッと軽くなった。身の上話を笑い飛ばされたのは初めてにもかかわらず、悪い気分ではない。
暁雨は思い切って口を開いた。
「白蛇様、わたしを後宮に戻していただけませんか?」
白蛇の目が、わずかに細くなる。
「なぜだ?」
「わたしには共に都に連れられて来た
辺りは静まり返り、暁雨が持つ提灯だけが小さく揺れている。白蛇の表情からは一切の感情が読み取れない。
「私は後宮に宮女を送り込むことはできないよ。難しい立場でね」
「そうですか……」
「ただ、私の弟子とでも言っておけば、後宮に入り込むことができるぞ」
暁雨は顔を上げた。
「私はただのお人好しではないのだよ。お前の力も興味深い。私の下で……奉公でもして役に立て。掃除とか、掃除とか……。あと、洗濯もか。ついでに後宮に使いに出してやる」
強張っていた体の奥にポッと炎が灯り、凍てついた心の芯がじんわりと溶け出すのを感じる。
「あ……あ、ありがとうございます」
自然と声が震え、胸がつまる。
暁雨は王宮での最上級の礼をした。
「妹を見つけ出したら、それでどうする? 故郷にでも帰るか?」
「いいえ——お救いいただいた命です。この先ずっと、命尽きるまで、この身をもって白蛇様に尽くします」
その言葉に、白蛇は目を細めてクスクスと喉を鳴らした。
「では、あの怪死事件。芳蘭妃の死。私が謎を解けと言ったら解くのかな?」
暁雨はためらわなかった。
「白蛇様の命ならば、わたしは全ての謎を解き明かしてご覧に入れます」
白蛇の笑い声が冬の夜空に響き渡った。
ボーンと夜更けの鐘が鳴り響く。夜明けが近づく中、背後の後宮の灯りは次第に遠ざかり、小さくなっていった。
「まぁ、急くな。これからは、
こうして暁雨、今は杏璃という名の少女は白蛇の弟子となった。