無骨な牢の石床に、コツンコツンと陶器の茶杯を3つ並べていく。
ぼんやりとその光景を眺めていた
金泥で書かれた蝶の文様が怪しく輝いている。
残り2つはよくある質素な白い陶器の杯だった。
白蛇は
ただの茶ではない。菫のような香りとヨモギの瑞々しい苦さを感じる色。暁雨には淡い青と紫が混じり合った色に見える。
寒々しく暗い牢屋に似つかわしくない、春のように爽やかな茶だった。
暁雨の眼の前に湯気の立つ3つの茶杯が並んだ。
「どれか選んで飲みなさい」
白蛇はそれ以上何も言わず、暁雨をじっと見つめた。
その時、春の若草の香りにまじり、暗いシミのような黒い粒が浮かんでは消えているのに気づいた。この色は見たことがある。
——毒入りだ。どれかに毒が入っている。
ゾクリと体がこわばり、暁雨は思わず身を引いた。
白蛇は物言わず、じっと暁雨の反応を見ている。その視線で、暁雨はやっと理解した。
これは試験だ。私の言葉が本当か探っているのだ。
飲まなければ——罪人として殺されるだろう。
暁雨はゆっくりと手を伸ばした。指先がかすかに震えながらも、迷いなく一つの茶杯を持ち上げる。
それは、芳蘭妃の蝶の文様が描かれた杯だった。
寒さに強張った手に、茶の暖かさがじんわりと広がる。
——これのはずだ。
残りの2つの茶杯からは毒の霧が漏れ出ている。
この杯には、それがない。……ないはずだ。
——なにも入っいないはずだ。もし間違っていたら、それで終わり。
選択肢はない。
暁雨は一気に杯を煽った。冷え切った暁雨の体には熱すぎたようで、喉が焼き付き体の中心がぽっと熱を持つ。同時に凍えるほど寒いのに汗が吹き出した。
空の茶杯を床に置き、暁雨は息を吐くと白蛇をまっすぐと見つめた。
「飲みました」
「なぜその茶を選んだ?」
「色が見えました。白い陶器の茶杯には芳蘭妃の白茶に入っていた、口にしてはいけないものと同じものが入っているはずです」
「ふむ」
白蛇は頷くと、隼星を見上げてニヤリと笑った。およそ貴人らしからぬ笑みだった。
「この娘、嘘は言っていないぞ。白い茶器には
「お前……茶に烏頭根を盛ったのか?」
白蛇は黙って肩をすくめた。
「本当に見えるのか?」隼星の声にはまだ疑いが混じっている。
「本当のことです……」
「信じるよ、私は香りが数字で見える」
サラリというと、白蛇は立ち上がった。白い衣をパンパンとおざなりに払うと堂々と隼星に向き直る。
「嵐、この娘は罪人ではないぞ。ただの生き延びた娘だ。解放しろ」
隼星は無言のまま、暁雨を見下ろした。その表情は逆光で読み取れない。
ぞくりと背筋に冷たいものが走る。
「後宮の怪死事件の容疑がかかった娘だ。宦官共が納得しない。この娘を収容した事は報告済みだ」
「玉無しには渡すなよ、あっという間に犯人にされ死刑だ」
「見逃すわけにはいかない」
「頼むよ、隼星。私はこの娘が欲しい」
一瞬の沈黙の後、隼星のため息が聞こえた。
「であれば——死んでもらうのが一番だ」
そう言うと、隼星はゆっくりと腰の太刀を抜いた。提灯の灯りを浴びて、刀身が鋭く走る。石牢の寒さがより深まるのを感じた。
「お前たち、下がれ。これは私の責任で処理する」
声に迷いはない。見張りの兵士たちは息を呑み、無言で踵を返して暗がりへと消えていった。
隼星はゆっくりと暁雨の方へと向き直る。
思わず暁雨は目を閉じた。
——殺されるんだ……。
——ごめん、
次の瞬間、耳の上から冷たい刃が一瞬で滑り落ちた。軽い衝撃の後、ハラハラと髪の毛が顔に落ちる。
思わず頭に手をやると、耳の上あたりからバッサリと髪が切られていた。
——髪を切られた……
恐る恐る見上げると、隼星が刀を納めている。先程まで簡単にまとめられた暁雨の長い髪が、隼星の手の中にあった。
「曜飛族の暁雨は死んだ。娘、暁雨という名は捨てよ。裏口から出ろ。送らんぞ」
「おい、立ちたまえ。行くぞ」
白蛇の場違いに呑気な声で促され、暁雨はおそるおそる立ち上がった。
まだ動機が収まらない。
隼星が足元の提灯を拾い上げ、無言で暁雨に押し付ける。突然のことによろめくが、すぐ隼星の手に支えられた。
綿の上着越しに、大きな手のぬくもりがじわりと伝わる。凍えた背中のこわばりが少しずつ収まっていくのを感じた。
隼星が低い声でつぶやいた。
「満月といえど真夜中。提灯持ちが必要だ。ほら、さっさといけ。白蛇、上着くらい貸してやれ。この娘凍え死ぬぞ」
白蛇は自分の上着をひょいと脱ぎ、暁雨の頭からふわりとかける。
麝香と薄荷の香りに包まれて、薄汚れた自分が真っ白の霧に包まれた気がした。
——まだ足の震えは止まらない。だが、どうやら生き延びたらしい。