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第3話 三つの茶杯

 白蛇はくじゃが懐から取り出したのは、茶杯だった。


 無骨な牢の石床に、コツンコツンと陶器の茶杯を3つ並べていく。

 ぼんやりとその光景を眺めていた暁雨シャウユウの体が、ふと強張った。並べられた3つの内、1つは見覚えがあった。

 金泥で書かれた蝶の文様が怪しく輝いている。芳蘭妃ホウランヒのものだ。

 残り2つはよくある質素な白い陶器の杯だった。

 白蛇は隼星シュンシンから急須を受け取ると、手際よく茶を注いだ。寒い石牢に湯気がたち、同時に茶の香りも広がる。

 ただの茶ではない。菫のような香りとヨモギの瑞々しい苦さを感じる色。暁雨には淡い青と紫が混じり合った色に見える。

 寒々しく暗い牢屋に似つかわしくない、春のように爽やかな茶だった。


 暁雨の眼の前に湯気の立つ3つの茶杯が並んだ。


「どれか選んで飲みなさい」


 白蛇はそれ以上何も言わず、暁雨をじっと見つめた。

 その時、春の若草の香りにまじり、暗いシミのような黒い粒が浮かんでは消えているのに気づいた。この色は見たことがある。


 ——毒入りだ。どれかに毒が入っている。


 ゾクリと体がこわばり、暁雨は思わず身を引いた。

 白蛇は物言わず、じっと暁雨の反応を見ている。その視線で、暁雨はやっと理解した。

 これは試験だ。私の言葉が本当か探っているのだ。


 飲まなければ——罪人として殺されるだろう。


 暁雨はゆっくりと手を伸ばした。指先がかすかに震えながらも、迷いなく一つの茶杯を持ち上げる。

 それは、芳蘭妃の蝶の文様が描かれた杯だった。

 寒さに強張った手に、茶の暖かさがじんわりと広がる。


 ——これのはずだ。


 残りの2つの茶杯からは毒の霧が漏れ出ている。

 この杯には、それがない。……ないはずだ。


 ——なにも入っいないはずだ。もし間違っていたら、それで終わり。


 選択肢はない。


 暁雨は一気に杯を煽った。冷え切った暁雨の体には熱すぎたようで、喉が焼き付き体の中心がぽっと熱を持つ。同時に凍えるほど寒いのに汗が吹き出した。

 空の茶杯を床に置き、暁雨は息を吐くと白蛇をまっすぐと見つめた。


「飲みました」


「なぜその茶を選んだ?」


「色が見えました。白い陶器の茶杯には芳蘭妃の白茶に入っていた、口にしてはいけないものと同じものが入っているはずです」


「ふむ」


 白蛇は頷くと、隼星を見上げてニヤリと笑った。およそ貴人らしからぬ笑みだった。


「この娘、嘘は言っていないぞ。白い茶器には烏頭根トリカブトを塗っておいた。媛の茶に入っていたのも同じものだ。口にした者がすぐに倒れたのであればまず間違いない。染料ではなかなか人は死なんよ。椀一杯飲まなくてはだめだ」


「お前……茶に烏頭根を盛ったのか?」


 白蛇は黙って肩をすくめた。


「本当に見えるのか?」隼星の声にはまだ疑いが混じっている。


「本当のことです……」


「信じるよ、私は香りが数字で見える」


 サラリというと、白蛇は立ち上がった。白い衣をパンパンとおざなりに払うと堂々と隼星に向き直る。


「嵐、この娘は罪人ではないぞ。ただの生き延びた娘だ。解放しろ」


 隼星は無言のまま、暁雨を見下ろした。その表情は逆光で読み取れない。

 ぞくりと背筋に冷たいものが走る。


「後宮の怪死事件の容疑がかかった娘だ。宦官共が納得しない。この娘を収容した事は報告済みだ」


「玉無しには渡すなよ、あっという間に犯人にされ死刑だ」


「見逃すわけにはいかない」


「頼むよ、隼星。私はこの娘が欲しい」


 一瞬の沈黙の後、隼星のため息が聞こえた。


「であれば——死んでもらうのが一番だ」


 そう言うと、隼星はゆっくりと腰の太刀を抜いた。提灯の灯りを浴びて、刀身が鋭く走る。石牢の寒さがより深まるのを感じた。


「お前たち、下がれ。これは私の責任で処理する」


 声に迷いはない。見張りの兵士たちは息を呑み、無言で踵を返して暗がりへと消えていった。

 隼星はゆっくりと暁雨の方へと向き直る。


 思わず暁雨は目を閉じた。


 ——殺されるんだ……。 

 ——ごめん、小雪シャオシュエ。最後に会いたかった。


 次の瞬間、耳の上から冷たい刃が一瞬で滑り落ちた。軽い衝撃の後、ハラハラと髪の毛が顔に落ちる。

 思わず頭に手をやると、耳の上あたりからバッサリと髪が切られていた。


 ——髪を切られた……


 恐る恐る見上げると、隼星が刀を納めている。先程まで簡単にまとめられた暁雨の長い髪が、隼星の手の中にあった。


「曜飛族の暁雨は死んだ。娘、暁雨という名は捨てよ。裏口から出ろ。送らんぞ」


「おい、立ちたまえ。行くぞ」


 白蛇の場違いに呑気な声で促され、暁雨はおそるおそる立ち上がった。

 まだ動機が収まらない。

 隼星が足元の提灯を拾い上げ、無言で暁雨に押し付ける。突然のことによろめくが、すぐ隼星の手に支えられた。

 綿の上着越しに、大きな手のぬくもりがじわりと伝わる。凍えた背中のこわばりが少しずつ収まっていくのを感じた。

 隼星が低い声でつぶやいた。


「満月といえど真夜中。提灯持ちが必要だ。ほら、さっさといけ。白蛇、上着くらい貸してやれ。この娘凍え死ぬぞ」


 白蛇は自分の上着をひょいと脱ぎ、暁雨の頭からふわりとかける。

 麝香と薄荷の香りに包まれて、薄汚れた自分が真っ白の霧に包まれた気がした。


 ——まだ足の震えは止まらない。だが、どうやら生き延びたらしい。

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