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第2話 白蛇と隼星

 その時、湿った石と雪の匂いが染みついた牢獄内に、ふいに華やかな香りが広がった。


 これは、麝香じゃこうと……薄荷ハッカの香りだ。

 暁雨シャオユウには白霧の中、銀箔がチラチラと輝くように見える。凛とした冬の夜に溶けるような甘く華やかな香りだ。

 牢獄には不釣り合いな豪奢な香りは、あきらかに貴人のものだ。


 扉の奥に兵士ではない誰かいる。


 鈍い音がし鍵が解かれ、音を立てて重い鉄扉が開かれた。

 松明の灯りとともに、香と色が牢内に広がる。


 墨色に沈む牢獄に現れたのは、白く輝く麗人だった。

 年の頃は二十代半ばほどだろうか。手には牢獄に似つかわしくない朱漆の細工の美しい提灯を持っている。

 なにより目を引くのは、ゆったりと垂らした濁りのない白髪。頬の辺りまで垂らした髪は耳上に流れ、複雑に編まれた髪には銀の簡素な簪がひとつ挿されている。

 身にまとっていたのは、月明かりを受けて淡く輝く白絹の長衣と同色の袴。縁取りには銀糸で見事な刺繍が施され、同じく銀色で編まれた腰帯を華やかに結んでいる。

 凛とした顔立ちの女性でありながら、貴人にしては珍しく袴を履いていた。

 満月と同じく黄金色に輝く瞳は、狡猾な老婆にも初々しい娘にも見えた。


 あまりにも場違いなその姿に、暁雨は礼をするのも忘れ貴人を見上げた。ポカンと口を開けているのに気づいて、ゆっくりと閉じる。

 先に口を開いたのは貴人の方だった。


「やぁ、こんばんは。私は白蛇はくじゃと申す」想像したよりも若い声だった。


 白蛇と名乗った女はあっけらかんと言うと、そのままバサリと衣を払い無遠慮に石床に座り込んだ。

 暁雨は我に返り膝をついて礼をする。


「恐れながら……暁雨でございます」


 あっけに取られて震えはなくなっていた。思っているよりはっきりと声が出て、自分でも驚く。


「面を上げなさい。私の後ろにいる武官さんはラン将軍という」


 ちらりと顔を上げると、白蛇の後ろに立つ武官と目があった。

 白蛇が高貴な白狐なら、嵐は黒々とした大狼に見える。

 白蛇より一回りは大柄の美丈夫で、黒い髪を堅苦しいくらいにきつく編み込み一切の乱れもない。同じ色の瞳はするどく、高位の武官を表す刺繍入り黒外套が、その端正な顔立ちを一層際立たせていた。


「衛司の嵐隼星ラン・シュンシンだ」


 礼儀程度に目礼し、まっすぐと暁雨を見る瞳には、見張りの兵士のような嘲りがなく深慮深さが見えた。

 なんだか締まりがないのは、片手に持つのが剣や槍ではなく湯気のたった急須だということだ。

 あまりの事に考えがまとまらない。


「私、白蛇がお前の取り調べを行う。さて、あの夜なにがあった?」


 またポカンと口を開けてしまう。

 こんな真夜中に、牢の中で話すことになると思わなかった。多分、どこかで話す暇さえなく八つ裂きにされると思っていたからだ。


「あの夜でわかるな?」


 こくんとうなづくと暁雨は頭を下げた。


「わ、わたしは芳蘭妃ホウランヒに仕えている雑役の洗衣女です。あの夜、わたし共は芳蘭妃の命により私室に集められました」


「で」白蛇はゆったりとあぐらを組んで、頬杖を付いている。牢獄の中でも私室のようにくつろいで見えた。


「茶を飲むように言われ……そして——」ぐっと喉がつまり、先が続かない。息を飲み暁雨は続けた。「飲んだ者は皆苦しみだして倒れて行きました」


「口にしてすぐにか?」


 うなづいた。あれはほんの数刻だった。


「わたしは皆が苦しみだした時に気が遠くなり。気づいたらここにおりました」


「ふぅん、お前は飲まなかったのだな?」


「の、飲むふりをして袖に流し込みました」


「なぜだ」


 隼星が声を上げる。

 当然の疑問だ。後宮では上位の媛の命は絶対である。ややましい事を命じられた訳でもなく、ただの茶の勧めを断るなどありはしない。

 これでは毒が仕込まれていることを知っていたと認めるようなものだ。


「飲んではいけないものが入っていたからです」


「お前は、茶に毒が入っていたと申すのか?」


 暁雨は微かに震えてうなづいた。


「君が毒を盛ったのか」


 隼星の声は耳に心地よい低音だったが、有無を言わせぬ迫力があった。

 もっと違う状況なら、心地よかっただろう。と暁雨はぼんやりと思った。


「わ……わたしではありません」喉が詰まって声が続かない。「わ、わたしはただの下女です。媛様や侍女長様にお茶をご用意する立場ではありません」


 沈黙。


「ふむ」


 白蛇がおもむろに提灯を掲げ、暁雨を照らした。満月色の瞳でじっと見られ、暁雨は思わず目を伏せた。

 静かな口調で隼星が話を続ける。


「暁雨、君は洗濯が担当だったな」


「はい」


「月に一度後宮の染坊に通っていないか」


 ぎくりと身体が強張った。

 染坊は後宮内にある布を染める場所だ。貴人の反物を染色したり修繕する専用の工房である。


「そこで、月に一度染料をもらっていたとか」


「せ、染色に使うためでございます」


「鉄を使った染料は鉱毒だ。毒だと知っていたか?」


「し、知りません」


「なるほど。わかったぞ」


 白蛇がパンと膝をたたき、暁雨の垂らした髪をつまみ上げた。

 そのまま、提灯の灯を暁雨の頭に近づけて光に透かす。


「この娘、髪を染めている。ほら、嵐見てみろ」


 白蛇の細い指が前髪を上げた。


「この灰色の瞳。北の方の出身ではないか?曜河かな?あちらは赤毛もいると聞く。髪を黒染していたな?」


 提灯の下、白蛇の白い指に摘まれ、黒染めのせいでごわついた自分の髪は更に荒れているように見えた。暁雨は恥ずかしくなりそっと頷いた。


「染料をもらっていたのは、髪染めのためです。曜飛ようひ族の出で、おっしゃる通り生まれ持っては赤い髪をしています」


「なぜ染める。赤毛が嫌か?」


「貴人の方々は曜飛族の赤毛を忌み嫌いますので」


 2人は顔を見合わせ肩を竦めた。


「古い話だ」隼星が呆れ声で呟く。


 少なくとも暁雨の出身の国も芳蘭妃もそうだった。後宮に入った際も染めていたし、少し伸びた頃に侍女長から叱られ、それから毎月髪を染めていた。


「媛にも何人か赤毛くらいいるだろう」知らない話だ。暁雨は静かに首を降った。


「さて、肝心な話がまだだね。どうして、お前は毒が入っていたのに気づいたのか」


 白蛇の瞳に見られると落ち着かない。ただし、本当の事を言うしか無い。

 大きく息を吸って暁雨は思い切って口を開いた。


「わたしは……香りが色で見えます」


「ふむ」と白蛇。


 信じてもらえたのか、そうでないのは全くわかない。暁雨は必死で続けた。命がかかっているのだ。


「本当です。茶には口にしてはいけないものが混ざっておりました。飲んではいけない色が見えました」


「毒が見えると言ったな? 香りでわかったのか」


 隼星はあからさまに訝しげだ。


「色で見えるのです。鼻では感じない微かな匂いも目で見ることができます」


「なるほど、結構」


 白蛇はどこか楽しげにそう言って、両手をひらひらと上げた。

 そして、言うと同時に懐から何かを取り出した。

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