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第10話 秘宝殿

 皇城は天鷹宮てんおうきゅうの中心にある、皇帝陛下の居住する宮殿である。当然ながら王宮内で最も厳重に警備されている区域だ。

 皇城は二重の高壁に囲まれた構造で、東西南北にそれぞれ門が設けられている。中でも南の大門『宣明門せいめいもん』は、巨大な黄色の柱を従えた壮麗な造りで、ひときわ威容を放っていた。


 その前に杏璃は立ちすくんでいる。

 呆然と門を見上げる杏璃と対象的に、白蛇はなんてことないよう杏璃の隣に立っていた。


「皇城に行かねばならぬ。杏璃、お前も来い」


 昼下がりの白蛇の何気ない一言で、杏璃は理由もわからぬまま白蛇につれてこられたのだ。


御香司ごこうし・白蛇。皇命により参上つかまつった」


 白蛇が凛と言い、門衛に向けて銀色の札を掲げる。

 門衛が黙礼し下がったあと、門の奥から出てきたのは、烏帽うぼうに紅い長衣を着た文官だった。繊細で鮮やかな白糸の刺繍は高位の証だ。


「御香司、白蛇様こちらへ」


 文官は白蛇に向かって拱手の礼をした後、杏璃を一瞥した。

 心が読めなくてもわかる『こんな小娘がどうしてここに?』の表情だった。場違いなのは分かっているが、『お前も来い』言われた以上、どうすることもでない。

 杏璃はおとなしい表情を貼り付けて、さりげなく白蛇の後ろに身を潜めた。


「着いてきなさい」


 白蛇が横からぼそりと云う。

 言われなくても、皇城内でウロウロとするつもりなどない。下手な動きをしたら最後、あっという間にまた牢獄行きである。

 やりを持つ兵士に囲まれ後宮の中庭が丸ごと入りそうな巨大な広場を進む。

 まさか、自分が皇城に足を踏み入れる日が来るとは思わなかった。

 周囲には、壮麗な建物が並び、石造りの外廊で繋がれていた。いずれも黄色の瑠璃瓦と深紅の柱で彩られ、屋根の軒先には瑞鷹ずいおう国の象徴である神鷹の御旗が並ぶ。


 ……もしかして、皇帝陛下に謁見する?


 ただ、白蛇の身なりを見ると、普段と同じような装いだ。綺羅びやかな白絹衣に銀毛を纏っているが、皇帝陛下に会うような装いには見えなかった。


 さすがの白蛇様でも帝に会うのでしたら正装するはず……。


「あの、どちらに向かうのでしょうか?」


 横の白蛇に杏璃はぽそりと言う。


「秘宝殿だ」


「ひほうでん……秘宝がしまわれた場所ですか?」


 聞き慣れない言葉に、つい繰り返してしまう。


「そうだ。宝物庫だな。王宮には秘宝殿は五つあってな。皇城に二つ、内府に一つ、後宮に一つずつある」


 子どもの事に聞かされたおとぎ話の世界のようだ。

 王宮の宝物庫……。たしか、伝説の玉の器や黄金でできた反物があると聞いたことがある。流石に大人になった今では黄金の反物などは信じてはいないが、名高い財宝があるのは間違いないだろう。


 杏璃達は大橋を渡り、巨大な建物に到着した。門衛にまた銀色の札を見せて屋敷の中へ進む。

 たどり着いたのは、がらんとした大広間だった。後宮のどの広間より広いが、奥に鉄製の巨大な門がある以外は皇城の宝物庫にしては室内は簡素に見える。

 天井の高い所からの窓で光が取り入れられ、室内は明るい。


「ここが秘宝殿ですか」


 金銀財宝が眠る豪華絢爛の宝物庫を想像していた杏璃は拍子抜けしてしまった。

 巨大な広間の中央には、巨大な机があるだけだった。


「秘宝殿の前室だよ。我々は宝物庫には入れない。ここで受け渡しをするのさ」


 なるほど。さすがに、国の宝が眠っている場所に白蛇ならともかく私のような、身元もわからぬ人間をいれるわけにはいかないのだろう。


 ——ここでなにをするのだろう……。


 とはいえ、杏璃は白蛇の後ろでじっとしているしかない。

 杏璃の疑問は、広間の奥の扉から官吏が大きな箱を持ち、姿を現すと同時に途切れた。


 部屋中に芳香が漂ったのだ。


 黄金色の霧が部屋中に立ち込める。甘いような、煙いような、蜂蜜を思わせるねっとりと濃厚で、強い香りが漂っている。

 不透明の黄金色の霧、いや黄金の水の中に顔を突っ込まれたように感じる。あまりにも香りが強く、杏璃は一歩後ずさった。

 文官が慎重に箱を机に置き、上にかかっている布を取る。また香りが強くなった。


「杏璃、おいで」


 白蛇について、杏璃は箱を覗き込んだ。入っていたのは、木の削りカスだった。

 白蛇の工房にいたので、今はわかる。香木を鉋で削った木片だろう。薄く削り取られた木片は、蜜のような透明な部分と乾いた木の部分があり、強烈な芳香を出している。


「皇家の秘香木『金露木じんろぼく』だ」


「秘香木……これが」


 たしかに、秘香木と言われるだけある。たった一欠で広間一杯を香りで塗りつぶす程の芳香を放っている。

 白蛇は木片を確認すると頷いて、布をかけた。


「確かに。いただこう。杏璃持って参れ」


「はいっ」


 なんとか声を出し、箱を取り上げる。箱は想像より軽く、何も入っていないように感じた。



*



 白屋敷へ戻った時には、もう夕刻になっていた。夕日に赤く染まる工房の机上にそっと箱を置く。

 秘宝殿から持ち帰った木片は、欠片にもかかわらず工房のどの香料よりも強い香りを放っていた。


「これは何をする香料なのですか?」


金露木じんろぼくはね、皇帝陛下と太子の専用香に使われる香料の1つだ。こいつは強烈だから薄めて使うのさ」


 杏璃は驚きと共に、木片をじっと見つめた。帝の姿など見たこともないが、こんな香りをしているとは思っても見なかった。香りは強いが少量で使うのであれば、思ったより甘く、優しげだ。


金露木じんろぼくとは大層な名がつけられているが、実際は伽羅きゃらだな。特上の伽羅の巨木だ」


 伽羅なら、白蛇の工房にもある。重厚感のある甘く淡い黄色の香りがする香木だ。同じ種類でもこれだけ香りが違うとは。不思議な世界だ。


「陛下の香は300年、調香は変わらないからな。半年に一回、私は倉庫からコイツを削り出してもらうのさ」


「300年前からこの香木を使っているのですか?」


「そうだ」


「香木……なくならないのですか?」


 白蛇はニヤリとした。

 我ながら間の抜けた質問だと思った。最近は思った事がすぐに口から出るようになっていたが、どうやら白蛇や雲華はそれを歓迎してくれているようだ。


「秘宝殿の奥に、巨大な香木があるのだ。なんでもコイツは、今はない離宮に生えていた巨木らしい、牛5頭で2ヶ月かけて引かせて李都へ持ってきたという伝説がある。私の生きている間は無くなる心配はないだろうな。それに無くなっては困る」


「陛下の香が作れなくなってしまいますからね」


「それはどうでもいい。この金露木じんろぼくはな、秘香の材料の一つなんだよ」


「ひこう?」


「国に伝わる秘香。古文書に記された伝説の香の一つ、星辰香せいしんこう。なんでもそれは天上の香り、極楽浄土の風、ひと煽りで寿命が100年伸びるらしい。私は秘香研究家でもあるのさ」


 杏璃は書机に山積みになった書を一瞥した。杏璃の読めぬ古い文字で書かれた書物ばかりが積まれている。


「だから古文書をあれだけ読み解いているのですね」


「そうだ。調合の内容は分かっているがな。材料が不明だ。例えば500年前の西で取れた薔薇そうびの香油。今のものと違うのか同じなのか……種類、精製方法、合成方法——」


 白蛇がごろりと床に寝転がり、床に積まれた竹簡ちくかんの一つを取り上げた。古文書よりさらに古い、竹で編まれた書である。白蛇は愛しそうに簡をなで上げた。


「調べてること、集める物が膨大だ」


 それが白蛇様の目指していたものだったのか……。

 白蛇の目的は秘香を完成させること。

 私は八仙様の香を作る。


 濃密な香りがただよう工房の中で、杏璃は密かに気を引き締めた。


「だから、お前にも協力してもらうよ」


 その白蛇の呟きの意味に杏璃はまだ気づいていなかった。

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