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第11話 杏璃の調香

 ついに、八仙バシェンの香を作る時がきた。

 白蛇の香作りを間近に見て半月。だいたいの手順は分かってきた。

 香りの作り方はこうだ。まず長く香る基底となる香料を1つ選ぶ。あとは作りたい雰囲気に合う香料を選んで香料を粉末状にして、全てを混ぜ合わせる。


 手始めに簡単な香を作ってみる。乾燥した薫衣草くんいそう薄荷ハッカを取り出して乳鉢ですり潰す。ひんやりと澄んだ薄荷が先に立ち、薫衣草のやさしい甘さを感じる。そっと緊張がほぐれていくような香りだ。


 できあがり。


 ——……まぁ、その、簡単なものはこれでもいい。


 若干不安は残るが、貴人が使う香も同じようなものだ。白蛇も手順を説明しながら同じような事を言っていた。


「香りは調和だ。杏璃、香りを見て調和を目指せ」


 なにも分からない。


 この方は弟子など取ったことはないのだろうな、と杏璃はうっすら思った。

 白蛇は一見天才肌の感覚派のように見えるが、言葉の端々に理知的で深い教養が垣間見える。元々無学で経験も無い自分が、白蛇の理屈を聞いてもさっぱりわからないだろう。

 だとしたら、作ってみるしかない。


 今回は基底材は白檀とした。烟るようにうっすらと甘い香りが霧のように続く。淡い乳白色。八仙バシェンの落ち着いた優美な雰囲気にぴったりに思えた。


 八仙様は……くせのある赤毛が華やかで、新緑の衣によく映える。不思議な気品を持つ方だった。


 杏璃は工房から八仙バシェンを思わせる香料をかき集めて、一匙ずつ取り出し薬包紙の上に置いた。

 秤で重さを図り、分量を記録しながら乳鉢ですり潰す。十分に細かくなったら、色が濁らないように、慎重に混ぜていく。

 色同士が見事に溶け合って調和していれば、香もまた心地よく香った。不思議なことに色が濁って見えたら、なんとも言い難い不快な香りになっていた。


 私の力が役に立つ時がくるなんて……。


 杏璃には白蛇のような経験も知識もないので、見た目と実際の香りで勝負である。



 *



 朝一番始めた調香も気づけば昼になっていた。


 ……む、難しい。想像の百倍難しい。


 良い香りと良い香りを合わせれば、良い香りになると言うわけでもない。なんだかちぐはぐに噛み合わず香ったり、香りが濁って嫌な後味を感じたりする。

 思い描く素晴らしい香りがあるはずなのに、手持ちのもので再現ができずもどかしい。


 何度か失敗し、最後に出来上がったのは三つだった。


 1つは白檀と桂皮を使った。

 甘酸っぱい冬林檎を蜜で煮たような、甘い香りだ。香ばしい大麦の香りを足して、焼き菓子のようにした。サクサクとした香ばしい小麦の薄皮で甘い林檎を包んだような……。

 美味しそうな香りだ。

 ただ、良い香りだが、八仙には少し甘ったるい気がする。

 あの方はもう少し清冽とした雰囲気が似合う気がする。


 もう1つは白い花。八仙をイメージした梔子の花と月下花の香り、野百合の花粉を白檀を足した。これはもったりと息が詰まるような重甘い香りになってしまった。それでも目に見える色は綺麗で、なにか足せば良くなりそうな気がして捨てられない。


 最後の1つは雨が降る庭園を思い起こさせる土の香りだ。

 雨上がり庭園のような濡れた岩と苔、湿り気を感じる樹脂と香草を白檀に混ぜた。爽やかであり、詩的だ。才人である八仙に合いそうだ。


 できあがった香を杏璃は眉をしかめて覗き込んだ。

 眼の前のものは一見良さそうに見えるが、実際どうなのか疑いが残る。

 一度にこれだけの香りを嗅ぎ、色を見極めようとすれば、頭がぼんやりしてくる。目は霞み、鼻ももう利いていない気がする。

 それに、先程から白蛇が周りをウロウロとして気が散ってしょうがない。

 杏璃は諦めて、白蛇に向き直った。


「白蛇様……」


「遅い。私も口を挟みたい。もっと早く声をかけろ!」


 白蛇は拗ねたように言うと、裾も気にせすその場に座り込んだ。


「はい……その、意見をいただきたいです」


 杏璃はすっと皿を差し出した。


 「ふむ」


 白蛇が三つ皿を一瞥する。細い手で皿を持ち上げ、もう片方の手で仰ぐ。その所作が優雅で、杏璃は一瞬見惚れてしまった。


「悪くない」


 思ってもみなかった言葉に、杏璃は張り詰めていた息を吐いた。


「本当ですか?」


「嘘をついてどうする。お前、なかなか才能があるぞ。色で判断しているのか?」


「はい。色が調和すれば心地よい香り、濁ると不快に感じることがあるので」


「この三つ。どれが八仙殿に似合うと思う?」


 杏璃は三つ目を指さした。

 庭園の香りだ。杏璃が一番気にいっている香りだった。しっとりとした空気を思いっきり吸い込んだ時のような清々しさを感じる。

 ただ、冷静に考えてみると、雨上がりの庭を転がりまわったような香りをまといたい女がいるかというと、疑問である。


「良いとは思うのですが、まだなにか足りない気がします」


「これか……うん。梅雨の頃の池の畔を想起させる。湿った夜の風。苔むした岩……茸」


 きのこ?


 茸は想定していなかったのだが、言われてみればそうかもしれない。木の香りがきのこのようだ。


「だが、このまま出すのは無理だな。これは……写実的すぎる」


「ええと……」


 白蛇は頬杖をつきながら、しばらくぶつぶつと呟いたかと思うと、ふいに言った。


「私なら松と龍涎香を足す、あと……胡椒」


 杏璃は言われた通りに香料を計り、慎重に乳鉢で擦り合わせていった。

 すると突然、雨上がりの庭に新緑の松の瑞々しい青さと、花が咲いたよう僅かな甘さが足され、風が吹き抜けるように全体を変えていった。

 ただの香りの塊だった杏璃の香が、白蛇の一匙によって奥行きを持ち、情景となって立ち上がった気がした。より湿り気のある、清々しい庭園を思い起こさせる、それでいて身にまとうに値する香りになった。


 ——これが皇帝陛下の調香師の手腕。


「素晴らしい香になりました……」


「誰もが花の香りを好みまとうが、花束に見られたい訳ではない。ありもしない花になりたいのだ」


 なんとなく意味はわかる。


「存在するもの、そのものの香りを再現しても面白くないだろう。人が思い描く『らしさ』——想像の中の理想を形にする方が、ずっと価値がある」


「確かに」


 白蛇は当然とでもいったように微笑んだ。


「これなら出しても良い。下手なものを出されても私の名が汚されるだけだからな」


「わ、わたし、後宮に行ってまいります。八仙様に試作品として見せれば、また後宮に行ける口実もできますし!」


「待て待て」


 立ち上がる杏璃の袖を白蛇は優しく引っ張った。


「行くのは午後にしとけ。八仙殿に手紙を書く。私の弟子の作品だ。まだ拙いと突っ返されても癪だしな。私のお墨付きの一言添えてやる」


「あ、ありがとうございました」


「それにしても、随分高くついたな。八仙殿は富豪の娘だろうな?」


 ……わからない。

 そういえば、香料一つがどれほどの価値かさっぱり考えていなかった。


「ま、今回は大目に見てやる。好きに値段をつけろ」


 杏璃は改めて頭を下げた。

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