昼下がり、杏璃が後宮へ行くための準備をしていると、
さっそく雲華と一緒にお土産を覗き込む。
漆塗りの箱の中には、梅の実ほどの大きさをした丸い塊が入っていた。中心には赤い実があり、外側は透明な結晶がキラキラと輝いている。
「綺麗ですねぇ。なんというお菓子なのです?」
「
「隼星様は召し上がらないのですか?」
隼星は静かに首をふった。甘いものが好きではないらしい。
「父が甘党でな。母と姉と妹のために出征するたびに、土地の名産菓子をとりよせてくる。母上と姉上が食べ飽きたら、俺の存在を思い出して送ってくるようだ」
そんな家族関係もあるのか。と杏璃は衝撃を受けた。
考えてみれば、父も母もおらず奴隷として買われたため、世話をしてくれた人はいるが、進んで好物を分け与えてくれるような人間は周りにいなかった。
いや、ただ一人いる。妹だ。まだ妹と一緒に商家の下女として暮らしていた時、小さな干し柿を分け合ったことがあった。妹がこっそり隠し持っていたもので、杏璃の手のひらに半分乗せてくれた時の事をふと思い出す。
その記憶に似た光景が目の前にあった。
「素敵なご家族です」
「部下にやるのも癪だしな。
「嵐様もご機嫌取りをするのですね。何を企んでいるのです?」
「君に好かれたいのだ」
隼星がニヤリと笑って片目をつむると、もう! と雲華が照れて肩を叩いた。
「雲華、お茶をくれないか」
「もちろんですとも!!」
2人きりになった工房で、隼星は杏璃に向き直った。
先程までのほがらかな表情は消え、眼差しは真剣だった。
「妹の名は
「え、内府にも名簿があるのですか?」
宮女の管理は宦官の仕事なので、名簿の類は後宮にあると思い込んでいた。
「後宮にも名簿はあるが、内府にあるのが原本だ。ツテで閲覧できた。君の妹は2年前に君と一緒に入宮して、瑶華宮の
では、なぜ手紙の返事が来なくなったのだろう。どうしても、最悪の想像をしてしまう。杏璃の青い顔に気づいたのか、隼星が優しく言った。
「あの事件以前に、瑶華宮で亡くなった宮女は一人だけだ。君の妹と名前が違うから大丈夫」
ホッと息をつく。
「ただ、内府の名簿は春の点簿まで、後宮での配置変えは反映されない。
高位の媛達や今回のような怪死事件は即時反映されるが、下位の宮女の配置転換は年に一回の名簿整理で原本へ移される。君の妹は下女だろうから、現在の配属先を知りたくば後宮にある名簿を見るか、知り合いを尋ねるしか無いな」
「宦官様が持っている名簿は見られるのでしょうか」
「君の口先一つだ。俺は宦官には顔は効かない。白蛇でも理由がなければ無理だ」
だとしたら、難しい。
自分の身分では自由に閲覧できないだろうし。万が一死んだはずの下女とバレれたら騒ぎになるのは間違いない。それに白蛇にも迷惑がかかる。
「少し考えてみます。ありがとうございました」
「なに、それくらいなら。見つかると良いな」
優しい言葉に、思わず言葉に詰まる。
喉元に熱いものが込み上げてきた。ようやく絞り出した声は、かすかに震えていた。
「ご親切に……」
そのとき、廊下の奥から軽やかな足音が響いた。
戸がするりと開き、ひょっこりと顔を出したのは、白蛇だった。
「なんだ、なんだ、嵐将軍ともあろうものが、女子をいじめておる」
白蛇はずかずかと工房に入ってきて、おかしそうに笑い声をあげる。
「違いますっ!」
杏璃が慌てて否定すると、ちょうどお茶を運ばれてきた。
雲華が手際よく用意し、四人でお茶を囲む。
隼星は茶をすすりながら、机の上に散らばっている皿を眺めていた。
「君も香を作っているのか?」
「杏姐は白蛇様の一番弟子ですから、それはそれは素晴らしい腕前ですのよ」
雲華が自分の手柄のように胸を張って言う。
「ほう」
杏璃は茶を吹き出しそうになるのをこらえてうつむいた。まだ合格が出たのは、1種だけだし、それも白蛇の助言があったからにすぎない。とても素晴らしい腕前なんてものではないはずだ。
「嵐様も杏姐に香をご依頼してはいかがですか?」
「俺は武官だ。香はわからん」
杏璃の気持ちも知らずに、二人は呑気に話し込んでいる。
どうしたものかと杏璃が思い悩んでいると、白蛇がポツリと口を開いた。
「そうだ、
「
たしか東方の地を長年支配してきた瑞鷹の名家の出身で、大変裕福な媛君と噂されている。
「それはそれは気位が高く旺盛な媛君だ。遊んでもらってこい」
そういうと、白蛇はごろりと寝転んだ。
*
二度目の後宮はさらに簡単に入れた気がした。
案内の老宮女は相変わらず無愛想だったが、もはやそれすら後宮の日常の一部に思えてくる。
先に向かったのは後宮の南、
後宮を大回りして老宮女に案内されたのは、これまた綺羅びやかな
この後宮のどの部屋より豪華であるのは間違いない。
すべての調度品には繊細な細工と趣向が凝らされており、贅を尽くしていることは杏璃にも一目でわかった。
地方の豪族だと聞いていたが、相当な裕福な媛との噂は本当のようだ。
ぽつんと待っていると、重い戸が静かに引かれた。
媛の宮女かと思い、振り返る杏璃の前に男の
「白蛇。久しいな」
低い声が響く。
白蛇と間違えられるのは二回目だ。後宮には白蛇の名は響き渡っており、だれもが白蛇と会いたがるらしい。
「おや?」
柔らかな声に顔を上げた瞬間、男と目が合った。訝しげな表情を浮かべている。
あれ……この方……。
宦官だろうか。にしては、姿格好は貴人のように豪奢だ。深みのある紫色の上衣は絹の光沢を帯びており、見たこともない複雑な文様が全体に刺繍されている。
冠には白銀色の羽根飾りが優雅に揺れていた。
そして、どこか優しげな黄金の香りが漂う。
この香り、どこかで……。
——
——
白蛇の言葉が蘇る。すっと思考の糸が結ばれた気がした。この方は男性だ。後宮にいる唯一の男。この後宮の主。
——太子だ。
直感的に浮かんだ言葉に、杏璃はさっと頭を下げた。
眼の前に立っていたのは皇帝陛下の長子、次期皇帝の太子・