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第12話 後宮の主

 昼下がり、杏璃が後宮へ行くための準備をしていると、隼星しゅんしんが菓子を手土産に工房にふらりとやってきた。


 さっそく雲華と一緒にお土産を覗き込む。

 漆塗りの箱の中には、梅の実ほどの大きさをした丸い塊が入っていた。中心には赤い実があり、外側は透明な結晶がキラキラと輝いている。


「綺麗ですねぇ。なんというお菓子なのです?」


山査子糖さんざしとう……だったかな?詳しくは知らん。甘そうだ」


「隼星様は召し上がらないのですか?」


 隼星は静かに首をふった。甘いものが好きではないらしい。


「父が甘党でな。母と姉と妹のために出征するたびに、土地の名産菓子をとりよせてくる。母上と姉上が食べ飽きたら、俺の存在を思い出して送ってくるようだ」


 そんな家族関係もあるのか。と杏璃は衝撃を受けた。

 考えてみれば、父も母もおらず奴隷として買われたため、世話をしてくれた人はいるが、進んで好物を分け与えてくれるような人間は周りにいなかった。

 いや、ただ一人いる。妹だ。まだ妹と一緒に商家の下女として暮らしていた時、小さな干し柿を分け合ったことがあった。妹がこっそり隠し持っていたもので、杏璃の手のひらに半分乗せてくれた時の事をふと思い出す。

 その記憶に似た光景が目の前にあった。


「素敵なご家族です」


「部下にやるのも癪だしな。女子おなごに食べてもらった方がよいだろう」


「嵐様もご機嫌取りをするのですね。何を企んでいるのです?」


「君に好かれたいのだ」


 隼星がニヤリと笑って片目をつむると、もう! と雲華が照れて肩を叩いた。


「雲華、お茶をくれないか」


「もちろんですとも!!」


 2人きりになった工房で、隼星は杏璃に向き直った。

 先程までのほがらかな表情は消え、眼差しは真剣だった。


「妹の名は小雪シャオシュエといったな。内府の女官名簿を確認してきた」


「え、内府にも名簿があるのですか?」


 宮女の管理は宦官の仕事なので、名簿の類は後宮にあると思い込んでいた。


「後宮にも名簿はあるが、内府にあるのが原本だ。ツテで閲覧できた。君の妹は2年前に君と一緒に入宮して、瑶華宮の繍坊しゅうぼうに配属された。それからの記録はないから、ずっと繍坊しゅうぼうにいたと思う」


 では、なぜ手紙の返事が来なくなったのだろう。どうしても、最悪の想像をしてしまう。杏璃の青い顔に気づいたのか、隼星が優しく言った。


「あの事件以前に、瑶華宮で亡くなった宮女は一人だけだ。君の妹と名前が違うから大丈夫」


 ホッと息をつく。


「ただ、内府の名簿は春の点簿まで、後宮での配置変えは反映されない。

 高位の媛達や今回のような怪死事件は即時反映されるが、下位の宮女の配置転換は年に一回の名簿整理で原本へ移される。君の妹は下女だろうから、現在の配属先を知りたくば後宮にある名簿を見るか、知り合いを尋ねるしか無いな」


「宦官様が持っている名簿は見られるのでしょうか」


「君の口先一つだ。俺は宦官には顔は効かない。白蛇でも理由がなければ無理だ」


 だとしたら、難しい。

 自分の身分では自由に閲覧できないだろうし。万が一死んだはずの下女とバレれたら騒ぎになるのは間違いない。それに白蛇にも迷惑がかかる。


「少し考えてみます。ありがとうございました」


「なに、それくらいなら。見つかると良いな」


 優しい言葉に、思わず言葉に詰まる。

 喉元に熱いものが込み上げてきた。ようやく絞り出した声は、かすかに震えていた。


「ご親切に……」


 そのとき、廊下の奥から軽やかな足音が響いた。

 戸がするりと開き、ひょっこりと顔を出したのは、白蛇だった。


「なんだ、なんだ、嵐将軍ともあろうものが、女子をいじめておる」


 白蛇はずかずかと工房に入ってきて、おかしそうに笑い声をあげる。


「違いますっ!」


 杏璃が慌てて否定すると、ちょうどお茶を運ばれてきた。

 雲華が手際よく用意し、四人でお茶を囲む。

 山査子糖さんざしとうを一口頬張る。甘い糖衣がシャリシャリと心地よく、酸っぱい山査子の香りがふわりと口中に広がった。

 隼星は茶をすすりながら、机の上に散らばっている皿を眺めていた。


「君も香を作っているのか?」


「杏姐は白蛇様の一番弟子ですから、それはそれは素晴らしい腕前ですのよ」

 雲華が自分の手柄のように胸を張って言う。


「ほう」


 杏璃は茶を吹き出しそうになるのをこらえてうつむいた。まだ合格が出たのは、1種だけだし、それも白蛇の助言があったからにすぎない。とても素晴らしい腕前なんてものではないはずだ。


「嵐様も杏姐に香をご依頼してはいかがですか?」


「俺は武官だ。香はわからん」


 杏璃の気持ちも知らずに、二人は呑気に話し込んでいる。

 どうしたものかと杏璃が思い悩んでいると、白蛇がポツリと口を開いた。


「そうだ、八仙バシェン殿に香を届けるついでに瑾月妃ジンユエヒに呼ばれてるから行ってこい。『言いたいことがあるから顔を出せ』とのことだ。私の代わりにノコノコ顔を出してきてくれ」


瑾月妃ジンユエヒ……。四妃嬪の一人ではないですか」


 たしか東方の地を長年支配してきた瑞鷹の名家の出身で、大変裕福な媛君と噂されている。


「それはそれは気位が高く旺盛な媛君だ。遊んでもらってこい」


 そういうと、白蛇はごろりと寝転んだ。



 *



 二度目の後宮はさらに簡単に入れた気がした。

 案内の老宮女は相変わらず無愛想だったが、もはやそれすら後宮の日常の一部に思えてくる。

 先に向かったのは後宮の南、瑾月妃ジンユエヒの住む冬籠宮とうろうきゅうだった。


 後宮を大回りして老宮女に案内されたのは、これまた綺羅びやかな瑾月妃ジンユエヒの私室だった。

 この後宮のどの部屋より豪華であるのは間違いない。

 芳蘭媛ホウランヒ玲華媛リンファヒの私室も十分に華やかだったが、それらとはまた一段格の違う趣がある。

 すべての調度品には繊細な細工と趣向が凝らされており、贅を尽くしていることは杏璃にも一目でわかった。

 地方の豪族だと聞いていたが、相当な裕福な媛との噂は本当のようだ。

 ぽつんと待っていると、重い戸が静かに引かれた。

 媛の宮女かと思い、振り返る杏璃の前に男の長袍ちょうほうが現れた。


「白蛇。久しいな」


 低い声が響く。

 白蛇と間違えられるのは二回目だ。後宮には白蛇の名は響き渡っており、だれもが白蛇と会いたがるらしい。


「おや?」


 柔らかな声に顔を上げた瞬間、男と目が合った。訝しげな表情を浮かべている。


 あれ……この方……。


 宦官だろうか。にしては、姿格好は貴人のように豪奢だ。深みのある紫色の上衣は絹の光沢を帯びており、見たこともない複雑な文様が全体に刺繍されている。

 冠には白銀色の羽根飾りが優雅に揺れていた。

 そして、どこか優しげな黄金の香りが漂う。


 この香り、どこかで……。


 ——金露木じんろぼく


 ——金露木じんろぼくはね、皇帝陛下と太子の専用香に使われる香料の1つだ。


 白蛇の言葉が蘇る。すっと思考の糸が結ばれた気がした。この方は男性だ。後宮にいる唯一の男。この後宮の主。


 ——太子だ。


 直感的に浮かんだ言葉に、杏璃はさっと頭を下げた。

 眼の前に立っていたのは皇帝陛下の長子、次期皇帝の太子・宇峻ユージュンだった。

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