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第13話 瑾月妃

 ——太子だ。


 直感的に浮かんだ言葉に、杏璃はさっと頭を下げた。

 後宮にいる唯一の男性。すなわち、この後宮の主。皇帝陛下の長子、次期皇帝の太子・宇峻ユージュンが目の前に立っている。

 杏璃はもちろん顔を見たことはない。

 ただ、その香りは白蛇と共に秘宝殿から持ち帰った香木、金露木じんろぼくと同じ色が微かにあった。そして、この国で金露木じんろぼくの香りをまとえるのは二人しかいない。皇帝陛下と太子殿下だけだ。


 どうしよう……太子殿下?


 動悸が収まらず、口から心の臓が出てきそうだ。


「面を上げよ」


 穏やかな声が響いた。

 こう言われたら、従わざるえない。杏璃はそろそろと顔を上げた。好奇心を抑えきれず、太子を遠慮がちに見てしまう。


 ——想像より若々しい。

 それはそうだ。自分と同年代のはずだ。

 もちろん立場が違うので、別の人種といっても過言ではないけれど。


 勇往邁進ゆうおうまいしんと名高い帝の長子なので、さぞ剛毅な武人だと杏璃は思っていたが、眼の前の太子は意外にも穏やかな物腰と整った顔立ち、切れ長の瞳には知性の光が宿る美丈夫だった。

 そして、白蛇に似た雰囲気を感じる。人ならざる者の気配。

 視線を交わしただけで息を詰まらせるような、圧倒的な存在感がある。


「白屋敷の者か? お前の名を聞こう」


 問いかけだと気づき、杏璃は息を飲んだ。まさか、天上人と話すことになるとは思わなかった。


「——白蛇様の弟子、杏璃と申します」


「白蛇の弟子? あやつ弟子を取ったのか?」


「はい。お引き立てのもと、勤めさせていただいております」


 じっと見つめられて、落ち着かない。

 太子は少し目を細めると、ゆっくりと口を開いた。


「曜飛族の者か」


「……はい」


 太子殿下が赤毛嫌いではありませんように。

 杏璃は胸の内でそっと祈った。


「出身は曜河か?」


「捨て子なので幼い頃の記憶はございません。寺院で育てられました」


「そうか」


 言葉が途切れ、静けさが満ちた。静寂の中、耳の奥で自分の心臓の音だけがやけに大きく響く。

 太子は視線を逸らすことなく、じっと杏璃を見つめている。

 その瞳の奥に、何かを探るような色が見えた。


「お主——」 続きかけた言葉が、野太い声に遮られた。


「殿下ぁ! ここにおられましたか……」 


 宦官が外廊を走り寄ってくる。その様子を見て、杏璃は慌てて顔を伏せた。顔見知りの宦官だとまずい。


「払いの式が始まりますぞ……。お戯れはこの辺りで……」


 どうやら太子は用事の途中で抜け出したようだった。やがて宦官たちが慌ただしく集まり、太子を急き立てるように促し始めた。

 宦官に連れられながら、太子は振り返り杏璃に向かった口を開いた。その声色には笑みが見える。


「励むがよい」


「過分なお言葉を頂き、光栄でございます」


「白蛇によろしく伝えてくれ」


「——はい」


 杏璃はもう一度、深く礼をした。

 顔を上げた時には太子の姿はもう遠ざかり、その黄金の香りだけが淡く残っていた。


「——ふぅ」


 一息ついて、ドッと汗が吹き出す。まさか後宮で太子に出会うとは思わなかった。ここは太子の後宮なので、いても不思議ではないのだが、元下女としてはまったく現実味がない。


 最後、なにか言いかけていたのは何だったのだろう。まさか、自分に気がある思えないけど。

 それに、あの方はどこかで出会ったことがあるような気がする。見覚えのある顔立ちだ——。


 パタパタと足音が近づき、杏璃の思考が途切れた。部屋に老宮女が飛び込んでくる。


「媛様! 急いでくださいまし! 太子様がお帰りになってしまいますよ!」


 老宮女はぜいぜいと息をしながら部屋を見回し、一人座る杏璃を見て目を剥いた。


「ああ! もう! 行ってしまわれたっ」


 老宮女は悔しそうに地団駄を踏む。およそ宮女らしくない仕草だった。


「ばあや、そんなに興奮するな。身体にさわるぞ」


 小柄な少女がゆっくりとした歩みで姿を現した。


「行ってしまわれたではありませんか。せっかくの機会でしたのに」


「よいよい。喪中に色めき立ってどうする」


 媛様?この方が瑾月妃ジンユエヒ


 歳は十五、六ほどだろうか。杏璃よりも頭一つ分ほど背が低い。目の覚めるような鮮やかな青い絹の上衣をゆったりとまとい、その長く垂れた袖には豪奢な金糸の刺繍が施されていた。

 前髪は真っ直ぐに揃えられ、艶やかな黒髪は丁寧にまとめ上げられている。耳の後ろには青絹の大輪の花飾りが添えられ、その傍らで金の飾りがシャリシャリと音を立てながら優雅に揺れていた。

 溌剌とした鋭い眼差しに少女とは思えぬ余裕のある微笑みを浮かべている。


「そなたは?」


 切れ長の瞳を細め、杏璃を一瞥する様子は猛禽類を思い起こさせた。

 ふわりと漂ってきたのは、笹や竹を思わせる清冽な香りだった。青竹の清々しい葉の香りに、檸檬の酸味が強く弾けている。

 女性は花の香りが好むと思っていたが、彼女は鮮烈で爽やかな香りが好きらしい。


「白蛇様よりのお遣いとして参上いたしました。杏璃と申します」


 あらためて杏璃は拱手の礼をした。


「おお、お主が白蛇殿の弟子っ子か、若いな」


 少女に若いと言われてしまった。

 何も答えが思い浮かばずに、杏璃は頭をさげた。


「御用がおありとのことで」


「そうじゃ、白蛇殿は腕は特級だが、依頼主の希望を聞かぬだろう。毎度届けられる香は結構なものだが、今の妾にはもっと必要なものがあってな」


「他の香ですか?」


 太子を射止める香だろうか?老女官のやきもきした顔を見ると、そんな注文もあるかも知れない。


「呪いを払う香じゃ」


 答えは想像もしていなかった言葉だった。


「は?」


「呪いじゃ」


「のろい……ですか」


 どう答えれば良いものか、時間を稼ぐために杏璃は老宮女がいれてくれたお茶に口をつけた。

 杏璃も呪いのたぐいは怖い。ただ、どうしようも無いものと諦めている。幼い頃から奴隷として働いて来たせいだろうか、自分ではどうしようもない力をどうこうしようという発想がないのだ。


「今の瑶華宮ようかきゅうには呪いがはびこっておる。呪われてしまっては皇后にもなれんて」


 瑾月妃はずいっと身体を杏璃に寄せた。硝子のように黒々とした瞳に見据えられると、心の内を見透かされたような感覚を覚える。

 圧のある少女だ。


「後宮の東北に廃殿があるだろ」


 廃殿——清夏宮せいかきゅうの事だ。元々、四妃嬪の一人のための宮だったが、入宮後すぐに媛が病に伏せり異例なことだが故郷へ帰っていったのだ。

 それから使われておらず、暗い雰囲気と幽霊騒ぎで誰も寄り付かなくなった。


「あの廃殿にはな、ある貴人が住んでいる。と、いわれておる」


 幽霊ではなくて?とは言い出せなかった。

 誰もいないはずなのに、夜中に琴の音が聞こえたり、灯りが見えると噂になっていたのだ。

 杏璃は見たことはなかったが、清夏宮せいかきゅうの近くで働く洗衣女から、人影を見たと聞いたことがある。


「その貴人は呪術を使ってな。皇后の座を狙い、媛を殺めているのだ」


 ゾクリ、と部屋の温度が下がった気がした。

 そんな話になるとは思わなかった。


「人を……ですか」


「正室になりたいとあらば、競争相手を亡き者にするのが一番じゃからな」


「媛様! 滅相もない!」


 老宮女の咎めを気にせず、瑾月妃はふんと鼻を鳴らした。なんとも少女らしくない仕草だったが、不思議と似合っている。


「皇后候補の四妃嬪といえ、実際は3人しかいない。芳蘭妃が亡くなった今、残りは2人。つまり、次は妾か玲華媛じゃ」


「それは……芳蘭妃の死も呪いだったと言うことですか?」


「そうじゃ、恐ろしいと思わんか。一夜に50人も死んだのだぞ。宦官どもは毒気だのなんだの言っているが、あれは呪いじゃよ」


「呪い」ぽつりと杏璃は繰り返した。

 呪い……たしかにあの夜の芳蘭妃の様子は異常だった。でも、呪い?


「妾の見立てでは、次は玲華媛じゃ。あの方はもう呪いに取り憑かれておる」


 そうだろうか、以前お会いした時は、喪中とも思えないほどピンピンしていたが……とは言えず、杏璃は黙って続きを待った。

 杏璃の戸惑いの顔を、瑾月妃は否定と見たようだ。眉をしかめて、また身体を乗り出した。


「妾は芳蘭妃より前に呪いにかかったのは、玲華媛だと見ておる。先々月、玲華媛の宮女が一人死んだのじゃ。あれが呪いの先触れよ」


「あ……」


 確かに、少し前にそんな騒ぎがあった気がする。ただし、怪我をしたとか事故だったように聞いている。


「どうも転んで打ちどころが悪かったらしい。事故だと判断されていたが、あれも呪いじゃよ」


 たしかに、できてまだ二年のこの後宮で人死には珍しい。


 ——とはいえ……呪い?


「だからな、妾は呪いを払う香がほしい。妾にも五十人を越える侍女がおる。妾一人ならともかく、周りを道連れとなれば目覚めが悪い。まぁ、その時には死んでいるだろうがな」


 瑾月妃は胸を叩いた。傲慢な仕草だが、彼女がやるとなんとも愛らしく見える。


「正室になるのはもちろんな妾じゃ。だが、死ぬのは怖い。生き残れば皇后も眼の前よ。玲華媛は色香でどうこうしようと思ってるようだが。格の違いというものがあるのじゃよ」


 瑾月妃は全く少女らしくない所作であははと笑った。

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