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後宮の呪

第14話 狐面の宦官

 瑾月妃ジンユエヒの私室から出た杏璃を迎えたのは、老宮女に代わり狐面をつけた宦官であった。


 鼻筋から上を覆う仮面のせいで表情は見えない。

 病いや怪我の痕を隠すために、面をつける官吏は珍しくない。杏璃も後宮で、面を付けている宦官は何人か見かけた事があるが、狐面の者は見たことがなかった。


「杏璃殿、私が案内いたします」


 宦官は思いのほか若々しい声でそう言い微笑んだ。

 杏璃より背が高く、他の宦官よりもしっかりとした体躯をしている。濃紺の落ち着いた長袍ちょうほうをまとい、黒い刺繍入りの腰帯をしていた。銀糸の刺繍は高位の宦官の証である。頭巾の結び目と一緒にぴょこんと立っている面の狐耳がなんだか可愛らしい。


 こんな方いたんだ……。


 杏璃が不思議そうに面を見つめていることに気づいたのか、宦官は笑みを浮かべたまま拱手の礼をした。


狐飛フーヘイと申します」


 慌てて杏璃も礼を返す。


 宦官に連れられ、外廊を歩く。ひんやりとした空気が頬をかすめた。

 東北の方角へ視線を向ければ、かつての清夏宮せいかきゅう、今は使われていない廃殿がある。

 もちろん後宮にいた頃の杏璃は近寄ったこともない。幽霊も怖いし、下女は用がない限り自由に出歩けないのだ。

 清夏宮へと続く廊下には、まだ残雪がわずかに残っていた。外廊から吹きすさぶ風が吹き溜まりを作り、喪を示す旗も立てられぬまま、そこだけ時間が止まったような寒々しさがあった。

 あの奥には幽霊、いや呪術を使う貴人がいるとのことだ。本当に?


「狐飛様、あちらの宮は使われていないのでしょうか?」


 杏璃はなるべく平静を装って、何気ない風を装いながら問いかけた。


「……八仙様のお部屋までご案内しましょう」


 杏璃の問いかけはあっさりと流された。

 狐飛の声色は穏やかだったが、有無をいわせぬ強さがある。

 柔らかな物腰のまま、ちらりと向けられた狐目の視線は『探りまわるな』と言われたような気がした。


 結局、あの奥に幽霊——いや、貴人がいたとして。

 もし本当に呪術を使っているのだとしたら、自分に何ができるのだろう。

 呪いを祓う香など、果たして存在するのだろうか。



 *



 八仙の部屋は北にある広い屋敷だった。芸術や知識に秀でた才人は、大ぶりの私室が与えられ大いに励むことが推奨されている。


 外廊に面した部屋の一つが工房になっていた。

 間口は広く、飾り気はないが整えられており、筆や絵具、絹布などの画材が几帳面に並んでいる。墨と膠と……あと見知らぬ香りが、空気の中に静かに漂っていた。

 杏璃には馴染みのない香りだ。甘くも辛くもなく、香料でも食べ物でもない。


 しいて言えば——石……?


 乾いた岩肌のような、冷たく無機質な香りに近い。

 その奥で、八仙は椅子に腰をかけ額に手を当てて目を閉じていた。

 足元には絵皿が無造作に散らばり、筆や小皿、金箔が転がっている。


「——八仙様?」


 杏璃は声をかけたが、返事はない。

 ……寝ている? それとも倒れて——

 杏璃が一歩踏み出したその時、八仙がゆっくりと目を開けた。


「杏璃さん!」


 杏璃の顔を見つけた八仙がぱっと顔をほころばせた。


「いらっしゃって嬉しいわ」


「八仙様は……屏風絵を描いているのですか?」


 部屋の中央、床に置かれた巨大な屏風が目を引いた。

 広げられた絹地の上に、濃淡さまざまな青の絵具で牡丹が描かれ、そこに薄墨で雲が重ねられている。その迫力に杏璃は思わず息をのむ。


「そうです、わたくしは画工ですの。曜河の女人画工のとはわたくしの事ですね」


 冗談めかした調子で八仙は胸を張った。


「元々は画工の工房の生まれです。大きい絵を描く女は珍しいのですよ」


 こめかみに手を当てながら、八仙は苦笑する。目の奥には疲れの色がにじんでいた。


「ご気分が優れないのですか?」


「今日は駄目。全然駄目なの。冬はすぐ頭が痛くなっちゃって」


 杏璃は、貝殻の軟膏入れを差し出した。

 薄荷と薫衣草の香りがふわりと立ちのぼり、工房に漂う膠の匂いと混ざる。

 杏璃自身が調合した香を鯨油と混ぜた軟膏だ。


「どうぞ。少しとって、こめかみに塗ってください。スッとして、頭痛が和らぎます」


「あら、ありがとう」


 八仙は軟膏を受け取ると、ふっと笑みを浮かべた。


「……どうしました?」


 杏璃が首をかしげると、八仙はどこか照れくさそうに微笑んだ。


「わたくし、白蛇様の香が欲しいだなんて言い出して、あなたを困らせたでしょう? それなのに……ありがとう」


 その声には、ほんのりと反省の色が滲んでいた。


「いいえ、八仙様。白蛇様の香は難しいとのことでしたが……わたしの調香した香でよろしければ、ご用意できます」


 杏璃はおずおずと白蛇の手紙と一緒に、小さな木箱に入れた香を差し出した。

 乳鉢で砕いた香を蜂蜜と混ぜて練った煉香だ。本来は可愛らしい型で型取りし何日か寝かせるのだが、まだ試作品なので簡単に丸くまとめただけだ。

 流石に品の良い八仙が弟子の作った香などいらぬとは言い出さないはずだが、それでも杏璃は緊張した。


 八仙は手紙と手に取り読みながら、じっと黙り込む。何か思案するような眼差しで、数度紙面に視線を戻した。


 ——そういえば、白蛇様の手紙にはどんな事が書かれているのだろう。一筆添えてやると言っていたが、内容まではわからなかった。


 杏璃は気になったが、もちろん覗き見ることなどできない。


「ありがとう。試作品まで作ってくださったのね」


 ふいに顔を上げた八仙が、やわらかく微笑んだ。

 八仙が丁寧な手つきで木箱の蓋を開けると、ふわりと雨と苔を思わせる清涼な香りが広がった。墨と顔料の香りに混じり合い、かすかな儚さを帯びた色合いがにじみ出る。まさに八仙にぴったりの香だった。


「……素敵ね」


 八仙の表情がぱっと華やいだ。嬉しそうな声に、杏璃は胸を撫でおろす。

 思ったより緊張していたようだ。 


 ——よかった。気に入ってもらえたようだ。


 そのとき、部屋の入り口がざわめいた。

 振り返ると、数人の宮女を従えた一人の媛が現れた。


 美しく、気品に満ちた佇まい。周りを取り囲む宮女の数からしてひと目で高位の媛だとわかる。

 白に近いすみれ色の上衣には、白百合の文様が大胆にあしらわれている。同じ白百合の飾りが繊細に施された簪が黒々とした艶やかな髪に光を添えていた。洒落者の証だ。

 媛は物憂い気な瞳で飾り紐のついた真っ白な羽扇を口元にそっとあてていた。

 まるでおとぎ話の中から抜け出したかのような、杏璃が子どもの頃に思い描いた美しい媛君の姿そのものだった。


明珠嬪ミンジュエン様」


八仙が丁寧に礼をし、その様子を見て杏璃も頭を深く下げた。


「杏璃さん、こちらは明珠嬪ミンジュエン様でございます」


 八仙の紹介に、杏璃は改めて礼をする。

 こんな綺麗な方でもエンなのか、と杏璃は不思議に思った。

 エンということは、妃の1つ下の立場となる。とはいえ、元々下女だった杏璃よりは断然立場が上だったし、当然才人の八仙よりも上だ。


明珠嬪ミンジュエン様、この方は白蛇様のお弟子である杏璃さんです」


「白蛇様はお弟子をお取りになったのですね」


 ゆったりとした足取りで明珠嬪ミンジュエンが部屋へと入ってくる。 

 部屋の中ほどまで進むと、八仙の手元の小箱に目を留め香を覗き込んだ。

 羽扇で口元をそっと覆っているため、その表情は読み取りにくい。ただ、その瞳には、わずかながら興味の色が見えた。


「とても良い香りです。お弟子さんが調香なされたの?」


「はい。わたしが調香いたしました」


「そちらの香、わたくしにも使ってみたいわ。くださらない?」


 明珠嬪ミンジュエンはまるで当然のように言った。


「あら」


 八仙が戸惑った声を出す。どう答えてよいのか迷っている様子だ。

 これは八仙様の物だ、他の方には使って欲しくない。

 駄目だ——と考えるより先に口が動いていた。


「お待ちください」


 口を開いてから、しまったと思った。高位の立場の人間は、下位の者に咎められるのを一番嫌う。

 シンと部屋が静まりかえり、温度がさっと下がルノを感じる。

 明珠嬪ミンジュエンの目が細められ、下女を見る時の、立場が低い者への冷淡な眼差しに切り替わった。

 明らかに人から咎められた事がない女の目だった。


「あなた、明珠嬪ミンジュエン様に、あまりにも失礼ではございませんか!」


 お付きの宮女が眉を顰めるのが横目で見える。

 杏璃は息を吸って、落ち着いた声で口をひらいた。


「恐れながら明珠嬪ミンジュエン様。こちらの香は八仙様のために作られた物。明珠嬪ミンジュエン様のものではございません」

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