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第15話 杏璃の矜持

「恐れながら明珠嬪ミンジュエン様。こちらの香は八仙ハッセン様のために作られた物。明珠嬪ミンジュエン様のものではございません」


 杏璃ははっきりと言うと、顔を上げた。


「それに、明珠嬪ミンジュエン様にふさわしい物ではございません」


 言ってしまってから、杏璃は自分の発言の迂闊さに気づいた。

 誰かのハッと息を飲む声が工房に響く。八仙が青ざめた顔をしているのが視界のすみに見えた。

 取り巻きの宮女が眉をひそめ、口を開こうとしたのを明珠嬪ミンジュエンは軽く手を上げて制する。


「わたくしは、わたくしが良いと思ったものを欲しいと申しているのです。ふさわしくないと言うならば、ぜひ根拠をお聞かせ願いたいものですわ」


 人への贈り物を横からもらうのは、咎められる十分な理由だ。ただ、高貴な媛ならば、思いのままに欲しいものが手に入るのは普通のことなのだろう。

 それに八仙がこのままこの香を媛に渡した場合、かわりに八仙には十分な礼を受け取れるはずだ。

 とはいえ、ここまで言ってしまった以上、引くわけにはいかない。

 それに、この香は明珠嬪ミンジュエンには不釣り合いだ。それだけははっきりと分かる。


「その香は八仙様のために整えたものにございます。八仙様は、月夜の湖、夜露に濡れた松葉、萌え出た新緑。——静けさの中に神秘的な清々しさをお持ちのお方。一方、明珠嬪ミンジュエン様はいうなれば、柔らかな陽光、蝶を惑わす蜜、艶やかに咲き誇る大輪の白百合さながら。

 香は、その方の御姿と心を映す鏡と申しますれば、明珠嬪ミンジュエン様は、より華やかに凛と香る香がお似合いかと存じます。

 ましてや、お召し物に合わせて野百合の香をまとっている風雅な媛ならば、ご自身に合わぬ香を纏われるのは、いささか惜しいかと」


 シンと工房が静まる中、明珠嬪ミンジュエンは羽扇をそっと口元から離した。口元にはかすかな微笑みが浮かんでいる。涼やかで、どこか余裕を感じさせる表情だった。


「あら、なかなか言うじゃないの」


 その声音には、咎めるでもなく、ただ一言相手の出方を楽しむような響きがあった。

 明珠嬪ミンジュエンは八仙に向き直ると目礼をした。


「八仙様、厚かましいお願いをしまいましたね。申し訳ございません」


 この方は謝れる方なんだ……。

 顔には出さなかったが、杏璃は心底驚いた。今まで出会った高位の媛は、決して自分から人に謝るような質ではなかったからだ。


「いいえ、とんでもありません。明珠嬪ミンジュエン様も、彼女に香をご依頼してはいかがです? 杏璃さんの香をまとうことが、いずれ白蛇様の香をまとわれるための良き吉兆となるかもしれません」


 ざわりと宮女たちが色めきだった。

 ——そうか、白蛇の香は妃のみに許された香だ。同じ白屋敷の香を使うのは縁起が良いと八仙は言ってくれたのだ。チラリと八仙を横目で見ると、杏璃を見て片目を瞑ってみせた。

 私なんかより、よっぽと機転が利く方だ。


 明珠嬪ミンジュエンは思案するように扇を一度軽く振り、工房の出口に向かう。敷居の手前で立ち止まり、杏璃の方へともう一度だけ視線を投げかけた。


「杏璃さん、わたくしにも香を調香してくださるかしら? 白蛇様のお弟子ともなれば、さぞや名高いものでしょう」


「光栄でございます」


 杏璃が静かに頭を下げると、明珠嬪ミンジュエンは満足げに頷き、再びゆるやかに歩を進めた。羽扇の飾り紐がわずかに揺れ、従える宮女たちの衣擦れの音も遠ざかってゆく。

 工房に再び静けさが戻った。

 八仙と杏璃は顔を見合わせ、どちらからともなくふっと小さく笑った。

 張りつめていた緊張の糸がようやく緩んだような気がした。


「杏璃さん、やりますね」


「いいえ、出過ぎた真似をして申し訳ありません」


 あの場で引いていたら、八仙の立場が損なわれるかもしれない——ただその思いだけだった。とはいえ、立場上やりすぎのような気もする。


「あの方は、高貴な方ゆえ気位の高いところもありますが、器の大きな方ですから。大丈夫よ。気に入られたかもね。客がつくと良いわねぇ」


 ほほほと柔らかく笑うその様子は、なんとも逞しい。根は工房育ちの職人肌の方のようだ。

 客商売というのを杏璃よりも理解しているのだろう。



*



 『お茶でも飲みましょう』の一言で、八仙に案内され窓際にある木製の低い腰掛けに座る。ざらりとした木目が手に馴染み、使い込まれた味わいを感じさせる。

 最近は豪華な媛の私室に行く機会が多いせいが、素朴な手触りが懐かしく感じた。

 用意された茶杯を両手で包むと、冷えた指先がじんわりと温まっていく。

 香ばしい白茶の香りが、膠と絵具の匂いに混じって鼻先をくすぐった。


 侍女たちが静かに盆を下げながら、杏璃の様子をちらちらと窺っている。

 彼女たちの髪を見て杏璃は思わず目を見張った。

 皆、赤毛だったのだ。


 赤毛だ……本当に後宮にも《ようひ》族の子は何人もいたんだ……。


 八仙が合図すると、五人の少女が杏璃の前に立ち礼をした。全員が赤毛に灰色の瞳を持っている。

 髪の短い女を見るのは初めてようで、杏璃の見る目は興味津々といった様子だ。


 思わず、ひとりひとりの顔を順に見てしまう。皆、年頃は十四.五歳だろうか。恥ずかしそうにもじもじしている子もいれば、親しげに微笑み返してくれる子もいる。

 杏璃が下女として働いていた芳蘭妃ホウランヒの下女や宮女には赤毛の曜飛ようひ族の者はいなかった。芳蘭媛が赤毛嫌いなこともあって、隠していたのかもしれない。

 実際、杏璃も髪を黒染めにして曜飛ようひ族出身だということは誰にもいわなかった。


「うちにいる曜飛ようひ族の子はこの五人だけね。どうなの、知ってる方はいらして?」


 杏璃は静かに首を振った。


「あなた方、小雪シャオシュエという曜飛ようひ族の少女をご存知ではありませんか?あなた方と同じ年頃の娘で下女のはずです」


 答えを待つ間、静かな時間が流れた。窓から差し込む柔らかな光が宮女たちの髪を淡く輝かせている。

 だが、全員が首を横に振った。


「そうですか……ありがとうございます」


 少女たちはまた静かに礼をすると、クスクスと笑いながら工房を後にした。

 扉が閉まると、室内には再び静寂が戻り八仙と杏璃だけが残された。


「大切な方のようですね」


 八仙の優しげな声に、杏璃は軽くうなずいた。


繍坊しゅうぼうに配属されているらしいのですが、今もいるかは分かりません」


「あら、でしたら、今から繍坊しゅうぼうを訪ねてみましょうか」


 思いもかけない言葉に、杏璃は茶杯を取り落としそうになった。熱い茶が指先を濡らす。その感覚すら今は気にもならなかった。

 胸の奥で微かな希望が灯った。


「ほ、本当ですか? 今すぐ? 行けますか?」


「あら、わたくしを誰だとお思いで?才人八仙ですのよ」

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