「恐れながら
杏璃ははっきりと言うと、顔を上げた。
「それに、
言ってしまってから、杏璃は自分の発言の迂闊さに気づいた。
誰かのハッと息を飲む声が工房に響く。八仙が青ざめた顔をしているのが視界のすみに見えた。
取り巻きの宮女が眉をひそめ、口を開こうとしたのを
「わたくしは、わたくしが良いと思ったものを欲しいと申しているのです。ふさわしくないと言うならば、ぜひ根拠をお聞かせ願いたいものですわ」
人への贈り物を横からもらうのは、咎められる十分な理由だ。ただ、高貴な媛ならば、思いのままに欲しいものが手に入るのは普通のことなのだろう。
それに八仙がこのままこの香を媛に渡した場合、かわりに八仙には十分な礼を受け取れるはずだ。
とはいえ、ここまで言ってしまった以上、引くわけにはいかない。
それに、この香は
「その香は八仙様のために整えたものにございます。八仙様は、月夜の湖、夜露に濡れた松葉、萌え出た新緑。——静けさの中に神秘的な清々しさをお持ちのお方。一方、
香は、その方の御姿と心を映す鏡と申しますれば、
ましてや、お召し物に合わせて野百合の香をまとっている風雅な媛ならば、ご自身に合わぬ香を纏われるのは、いささか惜しいかと」
シンと工房が静まる中、
「あら、なかなか言うじゃないの」
その声音には、咎めるでもなく、ただ一言相手の出方を楽しむような響きがあった。
「八仙様、厚かましいお願いをしまいましたね。申し訳ございません」
この方は謝れる方なんだ……。
顔には出さなかったが、杏璃は心底驚いた。今まで出会った高位の媛は、決して自分から人に謝るような質ではなかったからだ。
「いいえ、とんでもありません。
ざわりと宮女たちが色めきだった。
——そうか、白蛇の香は妃のみに許された香だ。同じ白屋敷の香を使うのは縁起が良いと八仙は言ってくれたのだ。チラリと八仙を横目で見ると、杏璃を見て片目を瞑ってみせた。
私なんかより、よっぽと機転が利く方だ。
「杏璃さん、わたくしにも香を調香してくださるかしら? 白蛇様のお弟子ともなれば、さぞや名高いものでしょう」
「光栄でございます」
杏璃が静かに頭を下げると、
工房に再び静けさが戻った。
八仙と杏璃は顔を見合わせ、どちらからともなくふっと小さく笑った。
張りつめていた緊張の糸がようやく緩んだような気がした。
「杏璃さん、やりますね」
「いいえ、出過ぎた真似をして申し訳ありません」
あの場で引いていたら、八仙の立場が損なわれるかもしれない——ただその思いだけだった。とはいえ、立場上やりすぎのような気もする。
「あの方は、高貴な方ゆえ気位の高いところもありますが、器の大きな方ですから。大丈夫よ。気に入られたかもね。客がつくと良いわねぇ」
ほほほと柔らかく笑うその様子は、なんとも逞しい。根は工房育ちの職人肌の方のようだ。
客商売というのを杏璃よりも理解しているのだろう。
*
『お茶でも飲みましょう』の一言で、八仙に案内され窓際にある木製の低い腰掛けに座る。ざらりとした木目が手に馴染み、使い込まれた味わいを感じさせる。
最近は豪華な媛の私室に行く機会が多いせいが、素朴な手触りが懐かしく感じた。
用意された茶杯を両手で包むと、冷えた指先がじんわりと温まっていく。
香ばしい白茶の香りが、膠と絵具の匂いに混じって鼻先をくすぐった。
侍女たちが静かに盆を下げながら、杏璃の様子をちらちらと窺っている。
彼女たちの髪を見て杏璃は思わず目を見張った。
皆、赤毛だったのだ。
赤毛だ……本当に後宮にも《ようひ》族の子は何人もいたんだ……。
八仙が合図すると、五人の少女が杏璃の前に立ち礼をした。全員が赤毛に灰色の瞳を持っている。
髪の短い女を見るのは初めてようで、杏璃の見る目は興味津々といった様子だ。
思わず、ひとりひとりの顔を順に見てしまう。皆、年頃は十四.五歳だろうか。恥ずかしそうにもじもじしている子もいれば、親しげに微笑み返してくれる子もいる。
杏璃が下女として働いていた
実際、杏璃も髪を黒染めにして
「うちにいる
杏璃は静かに首を振った。
「あなた方、
答えを待つ間、静かな時間が流れた。窓から差し込む柔らかな光が宮女たちの髪を淡く輝かせている。
だが、全員が首を横に振った。
「そうですか……ありがとうございます」
少女たちはまた静かに礼をすると、クスクスと笑いながら工房を後にした。
扉が閉まると、室内には再び静寂が戻り八仙と杏璃だけが残された。
「大切な方のようですね」
八仙の優しげな声に、杏璃は軽くうなずいた。
「
「あら、でしたら、今から
思いもかけない言葉に、杏璃は茶杯を取り落としそうになった。熱い茶が指先を濡らす。その感覚すら今は気にもならなかった。
胸の奥で微かな希望が灯った。
「ほ、本当ですか? 今すぐ? 行けますか?」
「あら、わたくしを誰だとお思いで?才人八仙ですのよ」