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第16話 繍坊

 繍坊しゅうぼうは後宮の東の一角にあった。

 中庭を中心に囲むように建てられた巨大な建物で、一番大きく日当たりのよい南のに大部屋がある。


 廊下からすでに色とりどりの絹糸が山となり、几帳面に積まれた絹布と、杏璃の名の知らぬ道具の数々が所狭しと並んでいた。おしろいの粉の麝香の香りがほんのりとただよっている。

 こんな所にあったのか……。 門をくぐる時は多少の緊張があったのに、八仙とともに驚くほどあっさりと中に入れ、杏璃は拍子抜けした。

 お目付け役の狐面の宦官は入口で待っているらしい。


「八仙様、入ってよろしいのですか?」


「わたくしは刺繍の図案も描いていましたし。まぁ大丈夫でしょう」


 ほほほと呑気に笑ったまま八仙はどんどん廊下を進み、誰に咎められることもなく大部屋に入った。

 高い天井の天窓から光が煌々とふりそそぐ広々とした部屋で、五十人程の宮女が黙々と衣を仕立てたり、刺繍をしている。

 八仙によると、繍坊しゅうぼうでは百人近くの宮女や下女が勤めているらしい。後宮でも調理場に次ぐ人数が務める工房だ。


「どうかしら? この部屋が一番大きいけれど」


 八仙が珍しそうに見渡しながら小声で言った。しんと静まり返った部屋にサクサクと針の音だけが響いている。

 見渡す限り、赤毛の少女はいなかった。

 妹の小雪シャオシュエは入宮後、繍坊しゅうぼうに配属され、やがて下女から繍女に昇格したと、手紙に書いてあった。それが去年のことだ。その後、「繍坊から配置換えになるかも」との知らせが届いたのが、最後の便りだった。

 それきり、小雪からの音沙汰はぷつりと途絶えてしまった。

 たしか、あれは半年前——夏の終わりのことだった。


 視線を感じて振り向くと、女官がじろりと冷たい目でこちらを睨んでいた。吉祥文様の刺繍がはいった絹の制服は高位の女官の証だ。あの方が繍坊長だろうか。ただ、歓迎されていないようだ。


「行きましょう、杏璃さん。倉庫の方が人の目がありませんよ」


 八仙は声を潜めるように囁くと、杏璃をそっと廊下へと導いた。

 繍坊の廊下は広く、静まり返っている。天窓から差す淡い光の下、二人の足音だけがコツコツと響く。

 ときおり開け放たれた襖の向こうから、糸を引く音や低く抑えた話し声が聞こえてくる。ここに妹がいたのかもしれないと思うと、歩みは自然と速くなった。


「わたくし、倉庫で受け取る物があるのです。少しかかると思いますので、杏璃さんは好きに周りを見てきてくださって構いませんよ」


 八仙はにっこりと笑い、まるですべて見透かしているように言い部屋に入った。


 ——八仙様は私に事情があると察して、一人にしてくれたんだ。


 深呼吸をひとつして、杏璃は長い廊下を歩き角を曲がる。その先に、控えの間のような一角があった。数人の若い宮女たちが火鉢を囲んで、お茶を飲んでいる。

 杏璃は一歩踏み出し、思い切って声をかけた。


「あの……お仕事中にすみません」


 声をかけると、少女たちは一斉に顔を上げた。

 皆、灰青の長袍に馬面裙スカートを纏っている。雑務を担う下女よりも上位の、れっきとした宮女たちだ。どこか上品な佇まいを感じるので良家の出かもしれない。

 杏璃の姿に少女達の目が一瞬丸くなった。

 短く切られた髪に驚いたのだろう。お互いに目配せを交わしながら、どことなく警戒したような空気が漂う。


小雪シャオシュエという少女をご存知ありませんか? 繍坊しゅうぼうで勤務していた職人見習いです」


 少女たちは顔を見合わせしばらくの沈黙のあとに、ひとり華奢で利発そうな目をした娘が、ぱっと顔を上げた。


「雪姐でしたら知ってます。私の先輩でした」


 思わず声を上げそうになるのを堪える。

 杏璃は身を正し、逸る気持ちを抑えながら、なるべく平静を装って言葉をつないだ。


「まだ繍坊しゅうぼうにいますか?」


 少女は首を振った。


「半年ほど前に配置変えで見なくなりました」


「ど、どこに配置変えされたかご存知ですか?」


 杏璃の問いに、少女たちは顔を見合わせた。

 やがて、誰からともなく首を傾げ、困ったように小さく首を振る。


 それが、答えだった。



*



「まあ……期待はずれだったようですね」


 暗い顔で廊下に佇む杏璃に、八仙はそっと声をかけた。

 杏璃は俯いたまま、静かに頷いた。


「駄目でした」


 声はかすれていた。気がつけば、指先が冷たくなってきている。

 ほんのわずかな手がかりにすがって来たけれど、また行き止まりだった。

 宮女達がいうには、手先の器用さを買われて下女から繍坊しゅうぼうの宮女見習いまで昇格したらしい。本来なら元々身分の低い下女の立場では考えられない特例のことだ。

 だがその後、小雪はふっつりと姿を消した。あまりに突然姿をしたので少し噂になったようだが、理由を知る者は誰もいないようだった。

 肩を落とした杏璃に、八仙がふいに微笑みかけた。


「慰めにもならないかと思うけど、これをどうぞ」


 差し出されたのは、鮮やかな翠色の上衣だった。透けるほどに薄い絹は指のあいだから滑り落ちそうた。胸元には精緻な鳥の刺繍が施されている。


「……美しい服です」


「ふふふ、そうではなくて、杏璃さん。あなたに差し上げますの」


 杏璃は目の前の衣を見つめ、ぽかんと口を開けたまま動けなかった。


 これを? わたしに……?


「あの……八仙様、わたしにはもらう理由がありません」


「あら、十分ありますよ。素敵な香を作ってくださったじゃない。明珠嬪ミンジュエン様とのやり取りも見応えがありましたし」


 明珠嬪ミンジュエンとのやり取りを思い出して、杏璃は少し顔を赤らめた。

 八仙は衣を広げ、そっと杏璃の肩にかけた。透けるほど薄く、光を通す絹の上衣は杏璃の髪によく映えた。

 まさか、絹の衣を着れる日がくるとは思ってもみなかった。滑らかな感触が指先に伝わり、ふと自分が媛になったかのような気分に包まれる。

 しかし、藍色の簡素な袴姿に、絹の上衣がなんとも言えずちぐはぐだ。


「やっぱり、若い子の方が似合うわね。わたくしにはちょっと鮮やかすぎだったから、ちょうどよいわね」


「わたし……この衣に合う服をもっていません」


「これから仕立てればいいじゃない。大切な方を探しているのでしょう。でしたら、着飾らなきゃ。そして諦めないで」


 八仙はそう言って、そっと杏璃の背を撫でた。


 ——諦めない。


 ここまで来られたのは、自分ひとりの力じゃない。なんの得にもならないのに、理由も聞かずに手を貸してくれた人たちがいる。

 杏璃はそっと上衣を撫でると、息を吐いて背筋を伸ばした。


 ——絶対に諦めない。

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