中庭を中心に囲むように建てられた巨大な建物で、一番大きく日当たりのよい南のに大部屋がある。
廊下からすでに色とりどりの絹糸が山となり、几帳面に積まれた絹布と、杏璃の名の知らぬ道具の数々が所狭しと並んでいた。おしろいの粉の麝香の香りがほんのりとただよっている。
こんな所にあったのか……。 門をくぐる時は多少の緊張があったのに、八仙とともに驚くほどあっさりと中に入れ、杏璃は拍子抜けした。
お目付け役の狐面の宦官は入口で待っているらしい。
「八仙様、入ってよろしいのですか?」
「わたくしは刺繍の図案も描いていましたし。まぁ大丈夫でしょう」
ほほほと呑気に笑ったまま八仙はどんどん廊下を進み、誰に咎められることもなく大部屋に入った。
高い天井の天窓から光が煌々とふりそそぐ広々とした部屋で、五十人程の宮女が黙々と衣を仕立てたり、刺繍をしている。
八仙によると、
「どうかしら? この部屋が一番大きいけれど」
八仙が珍しそうに見渡しながら小声で言った。しんと静まり返った部屋にサクサクと針の音だけが響いている。
見渡す限り、赤毛の少女はいなかった。
妹の
それきり、小雪からの音沙汰はぷつりと途絶えてしまった。
たしか、あれは半年前——夏の終わりのことだった。
視線を感じて振り向くと、女官がじろりと冷たい目でこちらを睨んでいた。吉祥文様の刺繍がはいった絹の制服は高位の女官の証だ。あの方が繍坊長だろうか。ただ、歓迎されていないようだ。
「行きましょう、杏璃さん。倉庫の方が人の目がありませんよ」
八仙は声を潜めるように囁くと、杏璃をそっと廊下へと導いた。
繍坊の廊下は広く、静まり返っている。天窓から差す淡い光の下、二人の足音だけがコツコツと響く。
ときおり開け放たれた襖の向こうから、糸を引く音や低く抑えた話し声が聞こえてくる。ここに妹がいたのかもしれないと思うと、歩みは自然と速くなった。
「わたくし、倉庫で受け取る物があるのです。少しかかると思いますので、杏璃さんは好きに周りを見てきてくださって構いませんよ」
八仙はにっこりと笑い、まるですべて見透かしているように言い部屋に入った。
——八仙様は私に事情があると察して、一人にしてくれたんだ。
深呼吸をひとつして、杏璃は長い廊下を歩き角を曲がる。その先に、控えの間のような一角があった。数人の若い宮女たちが火鉢を囲んで、お茶を飲んでいる。
杏璃は一歩踏み出し、思い切って声をかけた。
「あの……お仕事中にすみません」
声をかけると、少女たちは一斉に顔を上げた。
皆、灰青の長袍に
杏璃の姿に少女達の目が一瞬丸くなった。
短く切られた髪に驚いたのだろう。お互いに目配せを交わしながら、どことなく警戒したような空気が漂う。
「
少女たちは顔を見合わせしばらくの沈黙のあとに、ひとり華奢で利発そうな目をした娘が、ぱっと顔を上げた。
「雪姐でしたら知ってます。私の先輩でした」
思わず声を上げそうになるのを堪える。
杏璃は身を正し、逸る気持ちを抑えながら、なるべく平静を装って言葉をつないだ。
「まだ
少女は首を振った。
「半年ほど前に配置変えで見なくなりました」
「ど、どこに配置変えされたかご存知ですか?」
杏璃の問いに、少女たちは顔を見合わせた。
やがて、誰からともなく首を傾げ、困ったように小さく首を振る。
それが、答えだった。
*
「まあ……期待はずれだったようですね」
暗い顔で廊下に佇む杏璃に、八仙はそっと声をかけた。
杏璃は俯いたまま、静かに頷いた。
「駄目でした」
声はかすれていた。気がつけば、指先が冷たくなってきている。
ほんのわずかな手がかりにすがって来たけれど、また行き止まりだった。
宮女達がいうには、手先の器用さを買われて下女から
だがその後、小雪はふっつりと姿を消した。あまりに突然姿をしたので少し噂になったようだが、理由を知る者は誰もいないようだった。
肩を落とした杏璃に、八仙がふいに微笑みかけた。
「慰めにもならないかと思うけど、これをどうぞ」
差し出されたのは、鮮やかな翠色の上衣だった。透けるほどに薄い絹は指のあいだから滑り落ちそうた。胸元には精緻な鳥の刺繍が施されている。
「……美しい服です」
「ふふふ、そうではなくて、杏璃さん。あなたに差し上げますの」
杏璃は目の前の衣を見つめ、ぽかんと口を開けたまま動けなかった。
これを? わたしに……?
「あの……八仙様、わたしにはもらう理由がありません」
「あら、十分ありますよ。素敵な香を作ってくださったじゃない。
八仙は衣を広げ、そっと杏璃の肩にかけた。透けるほど薄く、光を通す絹の上衣は杏璃の髪によく映えた。
まさか、絹の衣を着れる日がくるとは思ってもみなかった。滑らかな感触が指先に伝わり、ふと自分が媛になったかのような気分に包まれる。
しかし、藍色の簡素な袴姿に、絹の上衣がなんとも言えずちぐはぐだ。
「やっぱり、若い子の方が似合うわね。わたくしにはちょっと鮮やかすぎだったから、ちょうどよいわね」
「わたし……この衣に合う服をもっていません」
「これから仕立てればいいじゃない。大切な方を探しているのでしょう。でしたら、着飾らなきゃ。そして諦めないで」
八仙はそう言って、そっと杏璃の背を撫でた。
——諦めない。
ここまで来られたのは、自分ひとりの力じゃない。なんの得にもならないのに、理由も聞かずに手を貸してくれた人たちがいる。
杏璃はそっと上衣を撫でると、息を吐いて背筋を伸ばした。
——絶対に諦めない。