白屋敷の工房の一隅。見慣れた調香棚の前で白蛇ははっきりと言った。
「香で呪いなど祓えぬよ。どうにもならん」
後宮での出来事を一通り話した後、白蛇が放った言葉は簡潔だった。
黙って聞いていた白蛇だったが、
どうやら、くだらない噂話と思ったようだ。
さすがに杏璃も、
「葬礼の儀で香を焚くではありませんか。あれは穢れを祓うものですよね。でしたら、呪いも祓う香もあるのでは?」
「喪香は穢れを祓うものじゃない。生者のためのものだ。生き残った者が、少しばかり神妙な気分になるための香だよ。あの香りを嗅げば、誰だって自然と弔う心を思い起こさせる――私に言わせれば先人の知恵だな」
白蛇は長い髪をかき上げ、呟くように言う。
今日は仕事の予定がないのか、いつもの袴姿に髪は簡単に三つ編みにして流している。簡素な髪型でありながら、それがかえって彼女の持つ優美さを際立たせていた。
「呪いから身を守りたければ、呪術者を頼るがいい。内府に言え、内府に」
「そうでしょうか。香には身体を癒やし強くする力があります。もしかしたら、その力が呪いを祓うことにも繋がるかもしれません」
「そんなものはまやかしだ」
白蛇は普段からはっきりとした物言いをする人だが、ここまで否定するのは珍しい。
杏璃は納得いかず、貝殻に入れた薄荷の軟膏を取り出した。
八仙にも分けた、ひんやりと肌に馴染み頭痛を和らげる軟膏だった。
「この軟膏を塗ると、頭痛が和らぎます」
「
確かに。
それでも杏璃は食いついた。
香りによって人が安らぐのは事実だ。花の香、土の香り、雨上がりの空気、人は香りに触れてほっと息をつく。だからこそ人は香を求めるのだ。
「呪いは祓えなくとも……それでも、白蛇様の香によって、
「穏やかにしてどうする。何も解決していないだろうが。穏やかな心で呪殺されるのを待つのか?」
「……」
確かに香で気分を変えたところで、根本的な解決にはなっていない。となれば……呪術者を葬る香? 香より剣の方が役に立ちそうだ。
「
「え?」
「
白蛇はゴソゴソと棚をあさり、巨大な壺から束になった香草を取り出した。
これが
松のような見た目ながら、紫蘇のような清々しい芳香が鼻をくすぐる
杏璃には濃い碧に見え、他の色を塗りつぶすほど色が強い。これほど凄烈な香りなら、邪気のひとつやふたつ吹き飛ばしてしまいそうだ。
白蛇は背を向けると、机に向かってなにやら始めている。話を聞いているのかいないのか、相変わらず読めない人だ。
「そのような言い伝えがあるという事は、やはり効果があった証拠なのでは?」
「うむむむ……」
白蛇は唸ったきり、黙り込んだ。もしかすると心変わりして呪いを祓う香を調合しようとしているのかもしれない。
杏璃は構わずに自分の調香を始めた。
『艶やかに咲き誇る大輪の白百合』と持ち上げてしまった以上、それに見合う華やかさと凛とした香りを仕立てなければ。
白蛇も纏っている
蜜柑の花に
黄色の霧の中で白い筋がスッと伸び、花粉のような粒がキラキラと舞って見える。なんとも豪奢な香りになりつつある。ただ、まだどこかちぐはぐでまとまりに欠けるように思えた。
香の仕上がりに迷いながら、杏璃はぽつりと呟いた。
「……白蛇様は、呪いを信じていないのですね」
「信じていない」
白蛇は短く言い切った。
「そもそも呪いがあるとすれば、帝など即位したと同時に呪い殺されているだろう」
「忌み事は口にするのを慎むべきかと」
「事実だ。そうはなっていないということは……ない証拠と私は考える」
それは……
これも古い言い伝えだ。
「お前は信じているのか」
「信じています……。とはいえ、芳蘭妃様の死が呪いだと考えていません。そもそも、私の知っている噂では、廃殿にいるのは幽霊で呪術使いの貴人ではありませんでしたし。人死があったから、呪いの噂が広がったのかもしれません」
なんだか、白蛇の言う通りかもしれないと思えてきた。
呪いの証拠はどこにもない。確かなものがなければ、呪いなど存在しないのと同じだ。
だとすれば、廃殿に呪術使いの貴人もいないだろうし——幽霊は?幽霊の騒ぎは噂で聞いたことがある。
……幽霊は本当にいる?
いや、それよりも……
杏璃の胸にひとつの疑念が浮かんだ。
——廃殿の幽霊や呪術使いの噂を流し、騒ぎを大きくして得をする者がいる?
「
「え?」
杏璃の中で巡っていた思考がふっと途切れた。白蛇の言葉に意識を引き戻され、はっと顔を上げる。
「
白蛇の言葉を受けて、
杏璃の香に、濃厚で甘い香りがさらに加わり、柑橘の爽やかさと共に華やかで堂々とした香りになった。
陽光のもとに艶やかに咲き誇る大輪の白百合。まさに杏璃が思い描いていた高貴な媛の香りだ。
「できました」
「うむ、いいだろう」
白蛇が背を向けたまま言った。声色は嬉しそうだった。
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