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第17話 香は剣にあらず

 白屋敷の工房の一隅。見慣れた調香棚の前で白蛇ははっきりと言った。


「香で呪いなど祓えぬよ。どうにもならん」


 後宮での出来事を一通り話した後、白蛇が放った言葉は簡潔だった。

 瑾月妃ジンユエヒは言った。瑶華宮ようかきゅうには呪がはびこり媛を殺しているのだと。

 黙って聞いていた白蛇だったが、清夏宮せいかきゅうにいる呪術使いの貴人、のところで眉をひそめ。芳蘭妃ホウランヒも呪い殺されたらしい、と杏璃が言ったところで目を閉じた。

 どうやら、くだらない噂話と思ったようだ。

 さすがに杏璃も、芳蘭妃ホウランヒの死が呪いだとは信じていない。瑾月妃ジンユエヒの言葉をそのまま伝えただけなので、白蛇の反応は心外だ。


「葬礼の儀で香を焚くではありませんか。あれは穢れを祓うものですよね。でしたら、呪いも祓う香もあるのでは?」


「喪香は穢れを祓うものじゃない。生者のためのものだ。生き残った者が、少しばかり神妙な気分になるための香だよ。あの香りを嗅げば、誰だって自然と弔う心を思い起こさせる――私に言わせれば先人の知恵だな」


 白蛇は長い髪をかき上げ、呟くように言う。

 今日は仕事の予定がないのか、いつもの袴姿に髪は簡単に三つ編みにして流している。簡素な髪型でありながら、それがかえって彼女の持つ優美さを際立たせていた。


「呪いから身を守りたければ、呪術者を頼るがいい。内府に言え、内府に」


「そうでしょうか。香には身体を癒やし強くする力があります。もしかしたら、その力が呪いを祓うことにも繋がるかもしれません」


「そんなものはまやかしだ」


 白蛇は普段からはっきりとした物言いをする人だが、ここまで否定するのは珍しい。

 杏璃は納得いかず、貝殻に入れた薄荷の軟膏を取り出した。

 八仙にも分けた、ひんやりと肌に馴染み頭痛を和らげる軟膏だった。


「この軟膏を塗ると、頭痛が和らぎます」


薄荷ハッカ薫衣草クインソウ……か。杏璃、香に薬効などないよ。少なくとも食わねば効かぬ。鼻から吸って、肌に少々塗って病が直るなら医者などいらないじゃないか。ましてや呪いなどには効果はない」


 確かに。

 それでも杏璃は食いついた。

 香りによって人が安らぐのは事実だ。花の香、土の香り、雨上がりの空気、人は香りに触れてほっと息をつく。だからこそ人は香を求めるのだ。


「呪いは祓えなくとも……それでも、白蛇様の香によって、瑾月妃ジンユエヒ様の心を穏やかにはできます」


「穏やかにしてどうする。何も解決していないだろうが。穏やかな心で呪殺されるのを待つのか?」


「……」


 確かに香で気分を変えたところで、根本的な解決にはなっていない。となれば……呪術者を葬る香? 香より剣の方が役に立ちそうだ。


迷迭香マンネンロウ……」


「え?」


迷迭香マンネンロウという香草は、異国では空気を浄化し病や邪が蔓延るのを防ぐといわれている。死者や生者を悪鬼から守る力があるそうだ」


 白蛇はゴソゴソと棚をあさり、巨大な壺から束になった香草を取り出した。


 これが迷迭香マンネンロウ……?


 松のような見た目ながら、紫蘇のような清々しい芳香が鼻をくすぐる

 杏璃には濃い碧に見え、他の色を塗りつぶすほど色が強い。これほど凄烈な香りなら、邪気のひとつやふたつ吹き飛ばしてしまいそうだ。

 白蛇は背を向けると、机に向かってなにやら始めている。話を聞いているのかいないのか、相変わらず読めない人だ。


「そのような言い伝えがあるという事は、やはり効果があった証拠なのでは?」


「うむむむ……」


 白蛇は唸ったきり、黙り込んだ。もしかすると心変わりして呪いを祓う香を調合しようとしているのかもしれない。

 杏璃は構わずに自分の調香を始めた。

 八仙バシェンの香に続いて、明珠嬪ミンジュエンの香も作らなければならない。

 『艶やかに咲き誇る大輪の白百合』と持ち上げてしまった以上、それに見合う華やかさと凛とした香りを仕立てなければ。

 明珠嬪ミンジュエンの香には、麝香ジャコウを基調にした。

 白蛇も纏っている麝香ジャコウには、どこか高貴な人にふさわしい気品がある。

 蜜柑の花に茉莉花ジャスミン、白百合を加えて白い花の華やかさを引き出し、さらに柑橘と野苺の甘酸っぱさを足す。

 黄色の霧の中で白い筋がスッと伸び、花粉のような粒がキラキラと舞って見える。なんとも豪奢な香りになりつつある。ただ、まだどこかちぐはぐでまとまりに欠けるように思えた。

 香の仕上がりに迷いながら、杏璃はぽつりと呟いた。


「……白蛇様は、呪いを信じていないのですね」


「信じていない」


 白蛇は短く言い切った。


「そもそも呪いがあるとすれば、帝など即位したと同時に呪い殺されているだろう」


「忌み事は口にするのを慎むべきかと」


「事実だ。そうはなっていないということは……ない証拠と私は考える」


 それは……李都リト天瑞宮てんずいきゅうは四方を門で囲い、結界によって守られているからでは?と杏璃は思ったが、黙っていた。

 これも古い言い伝えだ。


「お前は信じているのか」


「信じています……。とはいえ、芳蘭妃様の死が呪いだと考えていません。そもそも、私の知っている噂では、廃殿にいるのは幽霊で呪術使いの貴人ではありませんでしたし。人死があったから、呪いの噂が広がったのかもしれません」


 なんだか、白蛇の言う通りかもしれないと思えてきた。

 呪いの証拠はどこにもない。確かなものがなければ、呪いなど存在しないのと同じだ。

 だとすれば、廃殿に呪術使いの貴人もいないだろうし——幽霊は?幽霊の騒ぎは噂で聞いたことがある。


 ……幽霊は本当にいる?

 いや、それよりも……


 杏璃の胸にひとつの疑念が浮かんだ。


 ——廃殿の幽霊や呪術使いの噂を流し、騒ぎを大きくして得をする者がいる?


月下香げっかこうだ」


「え?」


 杏璃の中で巡っていた思考がふっと途切れた。白蛇の言葉に意識を引き戻され、はっと顔を上げる。


月下香げっかこうを入れよ。たいそう華やかな香を作りたいらしいな。そういった時には、徹底的に強く甘い香りを足したほうが収まりがよくなる」


 白蛇の言葉を受けて、月下香げっかこうを足してみる。

 月下香げっかこう自体は花蜜のような甘い香りで、官能的だが、のぼせるほど強く生々しい香りを持つ花だ。

 杏璃の香に、濃厚で甘い香りがさらに加わり、柑橘の爽やかさと共に華やかで堂々とした香りになった。

 陽光のもとに艶やかに咲き誇る大輪の白百合。まさに杏璃が思い描いていた高貴な媛の香りだ。


「できました」


「うむ、いいだろう」


 白蛇が背を向けたまま言った。声色は嬉しそうだった。





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 薄荷ハッカ……ミント

 薫衣草クインソウ……ラベンダー

 迷迭香マンネンロウ……ローズマリー

 麝香ジャコウ……ムスク

 月下香げっかこう……チュベローズ

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