「圭司とのキスは気持ち悪いと思わなかったんだよね。なんでだろ」
「それは俺が紳士だからだな。相手の反応無視してサカるヤツのキスは気持ち悪かったんだろ。それか、単純にソイツの鼻息が荒くてドン引きしていたかのどっちかだな」
「あはは、覚えてないけどそうだったのかな」
確かに好きだったはずなのに過去の彼氏には嫌悪感を覚えてしまったくせに、付き合ってもいない圭司とのキスを気持ちいいと感じてしまった。
自分はこんなに節操ナシな女だったのかとちょっと落ち込む。
なんだか急に気まずくなって、ごまかすように顔を逸らした。
「……長居しちゃったし、そろそろ帰るね」
「なんだ、もう帰るの? もう遅いし泊まっていけば?」
「いやいやそれは……明日も仕事だし、着替えもないから無理かな」
「えー、そっかー。じゃあ今度の週末に泊まりな」
「週末? じゃあ萌絵も誘っていい?」
「萌絵かあ。アイツが来るとすげー飲まされるから話し合いがグダグダになりそうなんだけどな。まあいいか」
萌絵からも進捗について訊ねるメッセージが来ていたから、近いうち会いたいと思っていた。
週末に圭司の家で作戦会議ということで話がまとまり、電車で帰るという理沙に、圭司がタクシーを呼ぶと言ってくれたが、体調は問題ないしそこまで迷惑はかけられないと固辞する。
偶然、圭司のマンションはちょうど理沙の家の沿線だったので、電車で帰るのも苦ではない。アパートの最寄り駅はここから二駅程度だからと言うと、駅までおくってくれた。
電車に乗って、なんだか火照った顔を冷やしつつのんびり最寄り駅から住宅街を歩いて帰る。
深夜の住宅街はもう人通りが少ない。
家々の明かりがあるから怖いとは思わないが、一応周囲に気を付けつつ歩いて、もうすぐアパートに着くと言う頃に、コインパーキングにたたずむ人影が目に入った。
何をするでもなくたたずんでいる男というのが少々気になり、目を合わせないように急いでアパートの階段に向かう。
男が近づいてくる気配がして、急いで通り過ぎようとした瞬間、腕をつかまれた。
「……触らないでください! 警察呼びますよ!」
「お、おい。俺だよ。変な声出すなよ」
理沙の腕をつかんだのは、元カレの幸生だった。
いきなり腕をつかまれたことも、俺だよというセリフも全てが腹立たしくて、力いっぱいその手を振り払う。
「アパートの前で待ち伏せとか何考えてんの? 何の用か知らないけど、非常識すぎない?」
「待ち伏せって……そんなんじゃないよ。ちょっと話したいことがあったから来ただけで……」
「私は話したくない。用があるなら社内メールとかで送って」
こんな夜中に元カノの元へいきなり来て、当たり前のように話ができると思っているのだろうか。というか、麗奈とデートをしていたのにそのあと元カノの家で待ち伏せするとかどうかしている。
イラっとして背を向ける理沙の手を、再び幸生がつかんで引き留める。
「だってお前、俺の電話着拒してるじゃないか。つながらないから仕方なく直接くるしかなかったんだよ。会社のメールじゃ私用のメッセージ送るわけにいかないしさ」
「もう他人なんだから、個人的に連絡取る必要もないでしょ。なんなの本当……非常識にもほどがある」
蔑むように言うと、幸生は愕然とした表情で理沙から手を離した。
手が触れていた部分がひやりと冷たいことに気がつく。よく見ると顔色も真っ白で、かなりの時間ここに立って待っていたのかもしれない。
「他人って……そりゃ別れたけどさ、同期なのは変わらないし俺たちが険悪だと他の同期も気まずい思いさせて申し訳ないしさ……もうちょっとお前も大人になってくれよ」
「そんなこと言いにわざわざ待ち伏せしていたの? 都合のいいことばっかり言わないで。最低なこと言ってるの分かってる?」
二人が別れて、それ以来同期会も開催されなくなってしまったのは確かに申し訳なく思うが、すべての元凶はこの彼である。理沙にもちょっと責任があるみたいな言い方をされて、いい加減腹立たしくてこれ以上会話をする気になれず背中を向けた時、再び幸生が引き留めてきた。
「そうじゃなくてさ! きょ、今日一緒にいた男って、理沙の新しい彼氏? ずいぶん仲良さそうだったけど、いつから付き合ってるんだ? 麗奈もすごく気にしていたから……その……」
その言葉でピンときた。
待ち伏せしていた理由は、苦情を言いに来たわけじゃなく恐らく麗奈に圭司のことを聞き出してこいとでも言われたのだ。いつから待っていたのか知らないが、忠犬のように麗奈の指示に従う元カレが心底気持ち悪い。
いつ帰ってくるか分からなかったのに、こんな時間まで麗奈のためにご苦労なことだ。
「それ、あなたに関係ある? 別れた相手がそのあと誰と付き合おうとどうでもいいじゃない。麗奈が気にしていたからって待ち伏せしてまで聞きに来るとか、おかしいことしている自覚ない?」
「いや、その……」
「帰って。二度とこないで。次来たら警察に通報するから」
「け、警察ってそんな……」
言葉につまる幸生を置いて、今度こそ理沙は急いでアパートの階段を駆け上り家の中へ入った。
しばらくドアの前で様子をうかがっていたが、幸生が追いかけてくることはなかったのでホッと息をつく。
麗奈が圭司に接触してくることを想定していたが、幸生が単身で理沙の元へ現れるとは考えていなかった。
麗奈に夢中な幸生は理沙に未練などあるはずもないし、彼女に何か言われてきた可能性が高いが、よっぽど圭司のことが気になったのだろう。
理沙の彼氏を奪うことを目的としているのなら、すでに攻略した幸生は用済みになり、新しい彼氏の圭司にアプローチするために幸生とはさっさと別れるかもしれない。
あれだけ愁嘆場を披露しておいて、もうすぐ麗奈から捨てられそうな元カレの末路を想像すると、少しだけ同情心が湧いてくる。
「まあ、私の知ったことではないけれど……」
全ては麗奈と付き合う選択をした彼の問題だ。勝手にすればいい。
こうして考えると、自分は幸生に対しては積極的に復讐してやりたいほどの情熱を持っていなかったのだなと気が付いた。付き合っている頃は確かに大好きだったはずなのに、麗奈に乗り換えた時点で、彼のすべてに失望して好きという気持ちが消え去ってしまったのだ。
対して、麗奈への憎悪は膨らみ続けている。
幸生と付き合い始めたばかりなのに、理沙にもう新しい彼氏ができたと知ったとたんあからさまにアプローチしてくる姿を見て、震えるほど怒りを覚えた。
だからもう二度と理沙に関わりたくないとあちらから言い出すくらいに恥をかかせてやりたい。
幸生から待ち伏せされた件は、余計に理沙の怒りを煽る結果になったと麗奈は気づいているのだろうか。いや、麗奈のことだから、それも含めてこちらの反応を楽しんでいるのかもしれない。
これまでは結局麗奈に対して何もやり返さずに黙って引き下がっていたが、今日のことでわずかに残っていた麗奈に対する幼馴染の情みたいなものが完全に吹っ切れてしまった。