ここは彼女が仕事をするカフェテリアがある階ではない。オフィススペースにまさか麗奈がいるとは思わず、驚きで呆然としてしまう。
床はお菓子がぶちまけられ、ガラスのポットが割れてコーヒーが水たまりを作っていて酷い有様になっている。
「大丈夫か! どうした⁉」
麗奈の泣き叫ぶ声を聞きつけてオフィス内から人が駆けつけてくる。コーヒーでずぶぬれになっている姿を見て、皆が慌てて彼女を助け起こす。
何があったのかと問う人々に、理沙が口を開く前に麗奈が叫んだ。
「りっ、理沙ちゃんが私を突き飛ばしてきて……! ひどい、これ会社の備品なのに……っどうしてこんなひどいことするのっ」
「は? え、なにを」
突然ぶつかってきたのはそっちだと言おうとしたが、わああんと声を上げて泣く麗奈の声にかき消されて皆の耳には届かない。
「だっ、大丈夫? 麗奈ちゃん! ああ、ひどい……なんで君がこんな目に」
「うっ、ぐすっ。ごめんなさい……床、汚しちゃって……」
「いいよそんなの! それより怪我はない? 熱いコーヒーじゃなくてよかった」
「服がびしょ濡れだ。君はこのままじゃ帰れないね……誰か、着替えとか持っていないかい?」
「あっ、俺ジムに行く用の服ありますよ!」
「じゃあ女子更衣室使って着替えていきなさい。君の会社には私から連絡をしておくから。あー、百田君はまず割れたガラスを片付けなさい」
主任に片付けを命じられポカンとしているうちに、同僚男性たちが麗奈を抱えるようにしてあっという間にその場からいなくなってしまった。
割れたコーヒーポットとこぼれたコーヒー。
そしてお菓子が散乱したお菓子を呆然と見下ろしていると、集まってきた同僚の女性たちが怒りながら理沙を助け起こしてくれた。
「何あれ、なんで百田さんに片付け押し付けていくのよ。おかしいでしょ」
「理沙ちゃん大丈夫? 何があったの?」
「いい大人がうえーんって泣く? つか、会社の備品ならあの子が片付けろっての」
麗奈ことだけを気にかけていた男性陣と違い、女性社員は理沙のことを気遣ってくれる。
「ごめん、ありがとう。私も何が何だか……。急に給湯室から出てきてぶつかったんだけど、ひどいひどいって叫ばれてわけがわからないよ」
ドアから突然飛び出してきた麗奈とぶつかったと説明すると、皆すぐに納得してくれて、あちらの不注意なのにあたかも理沙がわざとぶつかったような物言いをした麗奈に怒ってくれた。
清掃の人はこの時間いないので、掃除道具を持ってきて皆で協力してその場を片付ける。
余計な仕事をさせてしまった女性たちには本当に申し訳ない。何度も頭を下げてお礼を言っていると、先ほど麗奈を連れて行った男性たちがぞろぞろと帰ってきた。
麗奈の姿はない。
彼女はひどく泣いていて今日はもう仕事にならないから、有志の男性社員が送っていったと説明される。謝罪もせず帰るのか……と冷めた目でその話を聞いていたら、その態度が気に入らなかった男性たちが怒って理沙に怒鳴りつけてきた。
「百田が悪いんだから壊した備品はちゃんと弁償しろよな!」
「あっちは仕事で来ているんだから、私情を持ち込むなよ。アイスコーヒーだったからよかったものの、大怪我してもおかしくなかったんだ。お前最低だな」
「百田くん、あちらの会社にもちゃんと謝りを入れるようにね。まったく、会社で暴力沙汰とか困るよ、ホント。本来なら反省文を書いてもらいたいとこだけど、麗奈ちゃんが大ごとにしたくないって言うから見逃すけど、許されたわけじゃないからな」
口々に責められて、唖然としながらも事実と違うと反論する。
「ちょ、ちょっと待ってください。ぶつかったのもあちらが急に飛び出してきたからで……不注意というなら彼女のほうでしょう。なんで私が一方的に悪いことになるんですか」
どちらかというと廊下を歩いていた自分よりも勢いよくドアを開けて飛び出してきた麗奈のほうに非があるはずだ。
ドアは一部ガラスになっていて外に人がいれば見えるのだから、ただ廊下を歩いていただけなのに全面的に悪いと責められるのはおかしいだろう。
「何言ってんだ。いきなり因縁つけて突き飛ばしたのはお前だろ」
「荷物で手がふさがっていたから麗奈ちゃんは避けられなくて、コーヒーを全部かぶることになったんだから、誰がどう見ても百田が突き飛ばしたって分かる」
「みっともない言い逃れすんな。彼氏に振られた腹いせに暴力振るうとか、人として最低だ」
彼らの口から聞かされるのは、全く事実と違うとんでもない話だった。
麗奈が涙ながらに訴えた内容によると、給湯室から出たところで理沙と鉢合わせしていきなり罵声を浴びせられたのだと言う。
『アンタのせいで彼氏に振られた』
『幸生くんを返してよ』
『アンタなんか死ねばいい』
などという暴言を吐きながら突き飛ばしてきた……というのが麗奈の主張。
両手で荷物を持っていた麗奈は避けることもできず押されて床に転んでしまったのだと言われたが、理沙からすれば全く身に覚えがないし、完全に作り話である。
「そんなことしてないです! 突然あっちが飛び出してきたって言っているじゃないですか! ぶつかったのは最初だれだか分らなかったし、会話をする暇もなかったですよ」
「いや、双方ぶつかったなら百田だってコーヒーがかかっているはずだ。でも麗奈ちゃんに全部かかっているんだから、お前が突き飛ばしたって証拠だろ」
「前から麗奈ちゃんを逆恨みして嫌がらせしていたくせに、ごまかせると思ってんのかよ」
「そうだよ、やったことを素直に認めて謝罪するならマシだけど、嘘をついて誤魔化そうとするのはいただけないね。あんまりごねるならコンプライアンス部に報告しなきゃならなくなるよ」
上長含め男性陣に寄ってたかって責められ理沙の言い分は全く聞いてもらえない。あくまで理沙が加害者であるという話にされて途方に暮れていると、見かねた女性社員たちが怒りだした。
「ちょっと! あまりにも一方的じゃないですか! ぶつかった拍子にこぼして自分にかかるとか普通にあるでしょ! なんでそれだけで理沙が突き飛ばしたことになるんですか!」
「駆けつけた時、二人とも転んでいたでしょ。お互いぶつかったって考えるほうが自然じゃない。そう思い込んでいるだけか、備品壊したのを理沙ちゃんのせいにしようと嘘ついたかもしれないじゃない」
「麗奈ちゃんが嘘ついているっていうのか! あの子は服もびしょ濡れで泣いていたんだぞ!」
「だったら理沙が嘘ついているっていうの? どっちがぶつかっていったか誰もみていないのに、なんで一方的にアッチの言い分だけ信じるのよ」
「あの子が嘘をつくはずないだろ! ひどいショックを受けて泣き崩れていたんだぞ!」
「そんなの理由にならないでしょう! 泣いたら主張が通るんですか!」
男女で言い争いが始まって、収拾がつかなくなる。