痛む腰をさすりながらデスクに戻ると、すぐそばのゴミ箱に今日理沙が提出した書類が捨てられているが目に入ってしまった。
田中主任にまとめておくように言われて作成した資料。
それをわざわざ理沙のデスク横のゴミ箱に放り込んできた。
明確な悪意をぶつけられ、それを拾う気力も湧かずその後はほとんど仕事が手につかなかった。
同期の菫が気遣わし気に話しかけてきたが、喋る気力も湧いてこなくて、終業のチャイムが鳴ったら挨拶もそこそこに会社から出た。
この件は電話でも圭司に話してはいたが、今日はどうしても直接話を聞いてもらいたくてすがるような気持ちでメッセージを送ると、すぐに返事が来た。
『すぐ仕事切り上げて行く』
指定された駅のそばにゆったりした席のあるカフェがあるからそこで待っていてとメッセージが続き、一時間くらいで行けるから絶対待っててと言ってくれて、少し気持ちが楽になる。
多分無理に時間を作ってくれたんだろう。いつもならこんな無理は言わないのだが、誰かに頼らないと心がつぶれてしまいそうだった。
指定されたカフェでコーヒーを頼み、半分ほど飲んだ頃に圭司が来てくれた。
少し髪が乱れていて、急いできてくれたのがうかがえる。
圭司は最初から深刻そうな顔をしていて、会った時から理沙のことをとても心配してくれていた。メッセージが普段と様子が違ったらしく、絶対に何かあったんだと思って急いできてくれたらしい。
今日会った出来事をなるべく冷静に話していたが、つい涙ぐみそうになる。
「やられたな。こうなると、あっちがわざとぶつかってきたって思えるな。理沙の評価を落とすために突き飛ばされたと騒いだんだろうが、その状況で信じる奴らがいるのが信じられない。事前に何か吹き込まれていたんじゃないか?」
「確かに嫌がらせをしてくるのは、麗奈とよく話していた人たちだと思う。でも確かめるすべもないし……私の言い分を信じてくれている人もたくさんいるんだけどね」
「理沙の会社はコンプライアンス部があるんだろ? だったら嫌がらせされている件はちゃんと報告したほうがいい。いずれ収まるとか思っていちゃダメだ」
「で、でも嫌がらせって言っても、通りすがりに暴言を吐かれるとか証明するのが難しいし、私の被害妄想とか思われたら余計に事態が悪化しないかな?」
「いや、コンプライアンス部なんだから理沙は困りごととして相談すればいいんだ。事実確認はあっちがやる仕事だ。そもそもさあ、会社に営業に来ている外部の人間が問題を起こして、謝罪もせずそこの社員に責任をなすりつけようとした事案だろ? 理沙は本来守られるべき立場なんだよ」
「うーん……そう言われると……確かにそうかも」
「相手会社は自分とこの社員が悪いって謝罪してきているのに、社内の人間がいつまでもその件で理沙に嫌がらせしてくるなんておかしいだろ。暴言はできれば録音できたらいいけどな……とにかく起きたことを時系列にまとめた書類を作ろう」
「そっか、そうだね。状況を説明するのに必要だよね」
まずは会社に相談。
それでもすぐには収まらなかったら、次の対処を考えようと冷静に言われ、重かった心がすっと軽くなる。
感情論ではなく、やるべきことを示されるほうが楽になるのだと理沙はコーヒーをすすりながら思う。
「やっぱり圭司に相談してよかった。ごめんね、いつも頼ってばかりで」
「全然。俺は話聞いているだけで何もしてないよ。反撃するのは精神的にキツイだろうけど、この件はしっかり対処したほうがいい」
これは単なる揉め事ではなく、麗奈が仕組んだものだとすると、この件はこれで終わらないかもしれない。何もせず放置していては、更なる嫌がらせに発展する可能性もある。受け身でいては事態が悪化すると圭司に指摘され、ぞっとして身を竦ませる。
「味方をしてくれる人にも嫌がらせの件を話しておいたほうがいい。理沙のことだから、相手の立場とか考えちゃってまだ誰にも言えていないんじゃない? でもさ周囲の人って案外見ているもんだよ。変な噂になる前に事実を伝えておきなよ」
「あ、いや……なんか悪口になっちゃいそうで、会社の人には相談しづらくて。同期の子とかは気づいてかばってくれたりするんだけど、巻き込んじゃうのも悪いし」
皆知らんぷりしているわけじゃないと否定すると、圭司は優しい顔をして理沙の頭をそっと撫でた。
「もっと周りを頼ったほうがいいと思うけど……でも自分よりまず相手のことを考えるのは理沙らしいよな。俺、理沙のそういうとこ好きだよ」
ここ最近酷い言葉ばかりぶつけられていた理沙にとって、圭司の言葉は自分を肯定してもらえた気がして自然と涙がにじんでくる。
ぎゅっと唇を噛むと、涙をこらえていることに気づいた圭司が周りに見えないように理沙の頭を抱き寄せた。
一瞬戸惑ったが、すぐに力を抜いて圭司に身を預ける。
何も言わない時間が続く。
寄りかからせてくれる。受け止めてくれる。この人は信じていいんだと思える。それだけでまだ頑張れる気力が湧いてきた。さっきまで会社を辞めてしまおうかとすら思っていたのに、圭司の言葉と慰めでそんな気持ちはもう吹っ飛んでしまっていた。
そのまましばらく彼の胸に顔をうずめていると、ふいに聞き覚えのある声が頭上から降ってきた。
「あれっ? 理沙ちゃん! こんなところで偶然だね!」
全身に冷水を浴びせられたような感覚がして、バッと顔を上げた。
茶色の巻き髪が目の前でふわふわと揺れている。
今、一番見たくない人の姿がそこにあった。
「麗奈……」