「それ、暑くないの?」
机の天板に体温をなすりつけていたら、そんな声がして体を起こす。
バスを二つほど逃すのが日課になってしまった、そんな放課後。徐々に暑くなる今日この頃、部室に行く気も起きず、教室でダレていた。
相方の
そんな四十内さんが前の席を引き、腰掛ける。ふわりと制汗剤の、嘘みたいな柑橘系の匂いがした。うーん、夏が近い。
「
「んー……自分が"したいな"って仕草? それとも他人がしてて"イイな"って仕草?」
少し陽が傾いてきたお陰で、熱が引いてきた。まだ少しぬるいけど、風も出ている。このまま窓を開けておけば、頭の中に籠っている熱も引いていくだろうか。
そんな脳みそが思ったまま言葉を返したけど、頭を冷やすべきだったかな。
「あら。それは違うの?」
「そりゃあ別物ってもんだよ。わたしはタバコを吸いたいと思わないけど、喫煙する人を見て大人っぽいな〜と思うし」
配信サイトで少し昔の映画なんかを観ると、よく喫煙シーンが出てくる。別に、子供が真似をするなんて頭の悪い主張はしないけど、確かに憧れちゃうのは理解できる。
「……たしかに、緩利さんがタバコをふかすイメージは湧かないわね。咥えタバコでもしてようものなら、棒付きキャンディと間違えそうだもの」
棒付きの飴ちゃんとは、なんとも舐められている。わたし自身、紫炎をくゆらすほどアダルトになれる気はしないが。
「そうね。今回は互いに似合いそうなポーズを挙げましょうか」
うん? 当初の趣旨から少しズレたような。
まだ頭が茹だっているのか、今日の議題が何だったか
「四十内さんは……振り向くシーンとかすごく映えそうだよね。髪長いし」
一時期のライトノベルでよく見た『だけれど系ヒロイン』だし。
ガタン、と椅子の足が音を立てた。
「こんな感じかしら」
首を傾げ振り向く四十内さん。なぜか重力すら彼女を演出するよう、ふわりと水中のように髪を躍らせた。風が吹いていた。
「……ちょっと完璧すぎて声出なかったや」
アニメーションのワンカットのように決まっていた。首も髪も動的であるのに、ハマりすぎて静止したように見えた。
「それは何より。次は私のターンね」
言うなりシチュエーションを軽くこなした四十内さんは、何もなかったようにスカートを折り込んで座り直す。
これってターン制バトルだったんだ。てっきりテキストで進行するゲームだと思っていたんだけど。
「ニヤけて」
「へ?」
口から空気の抜けたような、間の抜けたような音が漏れた。声にもなっていなかった。
ニヤケテ? なにか、踊りだろうか? ニ・ヤケテ? 区切りも判然としない。
懊悩するわたしに、四十内さんは更に続ける。
「顔文字みたいに記号的に、だらしなく、卑しく……ニヤけて」
いや、顔文字って、どの…? 目はきっと、くの字みたいな感じだろうか。
「こ、こんな感じ?」
ぎゅっと目を細め、口を半開きにする。
作り笑いのままでは、四十内さんの反応を窺うことがかなわない。……片目だけそっと開けようかな? まだ動かない方がいいかな?
──暑い。
遠くで鳴く虫の音がなぜだか大きく、痛いくらい耳にうるさい。きっと目を閉じているせいだ。開けてしまおう。
ややあって、嘆息するような呆れるような声が聞こえてくる。
「ハァ……卑しくと言ったのよ? 誰もいやらしくなんて言ってないわ」
「えぇ……そんな表情してないよ……」
ただ目を瞑って口を開けていただけで。うん、してない。してないよね?
「まぁ画像はありがたく保存させて貰うけれど」
「撮ってたの!? あー、まぁいいけど」
やっと開放された心地で、両手で仰ぐ。ロクに風を起こせなかったが、心の温度は幾分か落ち着いた。
写真を撮られたとて、四十内さん相手ならネットに放流されることもないだろう。水槽に入れられてじっくりと鑑賞されることはあれど。──あれど、で済ませてよいのだろうか。
「でもさ、四十内さんだけ撮るのズルくない?」
矢も盾もたまらず逃げてばかりではいられない。盗撮された事実を盾に、せめて一矢くらい報いよう。
「……欲しいの? 私の写真」
「まぁ、リクエストとかあれば構わないけれど」
さて、だいぶ恥ずかしいところを撮られてしまったから、どんなポーズをお願いしよう。
同じようなニヤけ顔……は四十内さん的でない。いや、かと言ってわたしに似合うというのも遺憾の意を表明したいけど。
なんだろう、キス顔……? えっわたし女友達にそんなモノをリクエストするの?
どうなんだろう。普通の女の子って、そういうの欲しいんだろうか。クラスの陽の気を多分に含んだ子は、ちょっとアレな雰囲気の写真を撮ったりしてるけど。ノリ? というか勢いとしてやってるんだろうし。
「────眼鏡」
「え? 」
「わたし一応眼鏡をね、持ってるんだ。そんなに度も入ってないから、それを掛けてもらいます」
鞄からケースを取り出す。中には執筆の際に使う、度の弱い眼鏡がある。
これだよ、と両のツルの部分をつまみ、眼前に見せつける。
「大丈夫? 眼鏡って他人が掛けるとフレームが歪んだりするって聞くけれど」
「……四十内さんのほうが小顔だから問題ないよ。むしろサイズ的に掛けられるかな」
なんでこんな悲しい事実を口にしなきゃならんのだ。
「そう? 緩利さんとあまり変わらないと思うけれど」
ズイっと近づけられるご尊顔。鼻先が触れそうな距離に、四十内さんが。
四十内さん、実は自分の顔のよさに無自覚。
いや、正確には無自覚というより自覚が足りない。きっと『どうやら人に疎まれるような容姿でないらしいわね』程度にしか思ってない。世が世なら争いを生むようなお顔なのに。
「もう一枚撮っていいかしら。緩利さん、なんとも言えない表情してるから」
横向きに構えたスマホが下からスライドしてくる。こんな暑い日は特に至近距離で撮らないで欲しい。どこかの誰かのように常在戦場のコンディションなわけではないから。むしろ戦場みたいな肌をしてるから。
「はい、眼鏡」
押し付けるように眼鏡ケースごと手渡す。今度こそ攻守交代でこちらのターン。カメラアプリを立ち上げて、スナイパーが如く構える。
「あら、思ったよりキツくないわね」
やはり、というか案の定ズリ落ちてしまう。不幸中の幸いは、四十内さんの言う通りそこまでは変わらなかったようで、眼鏡が落ちることはなかった。
「あっイイ」
言うが早いか、親指はシャッターを切っていた。
これはイイ。"あの"四十内さんが眼鏡を浅く掛け、上目遣いでこちらを見つめている。それはどこかあどけなく、そう装っているかのように蠱惑的で。普段のイメージから離れているわけではないのに、あまり想像できない表情だった。
「……なるほど、撮られる側の心地はこんな感じだったのね。これはいい気分にはならないわ」
四十内さんの顔が赤らんでいたのは、暑さだろうか、それとも照れだろうか。いずれにせよ紅顔ではある。
あれ? 紅顔って男の子以外も使うよね? なんて国語の便覧を思い返していると、四十内さんと目があった。
二度、三度まばたき。
「はい、どうぞ。お返しするわ」
「はい、どうも。ありゃ、ケースは?」
四十内さんにはケースごと押し付けたはず。眼鏡を買った時の付属品だから、そんな欲しがるようなケースでもなかったと思うけど。
「まだ仕舞わないわよ。だって、緩利さんが掛ける番だもの」
次の四十内リクエストだったらしい。
「普段、緩利さんは眼鏡をかけていないでしょう? 」
だから見せてってことだろうか。先の"ニヤけて"よりは容易い。腰を据えて執筆する時には眼鏡をかけてるし。わたしからすればそんなに特別なことじゃない。
「別に面白いものじゃないよ? かけるだけであいの?」
うぬぼれ。目の前のハードルの低さがそうさせてしまった。
余計な一言だった。先に描き終わったからと、蛇に足だけでなく尻尾やら鋏まで加えて蠍になってしまった感がある。
「そうね……。見下してもらえる? あと舌を出して、
「え?」
反射的に出た声より早く、四十内さんは既に片膝立ちの体勢で身構えていた。
「いやいや? 冗談だよね?」
「冗談じゃないわ。冗談で済んだら契約はいらないもの」
「ごめんと警察でもどうにもできないんだね」
四十内さんの意思は固いみたい。
なんだか、だんだんと腹が立ってきた。
なんで眼鏡をかけてもらっただけのわたしが、そこまでこっ恥ずかしいことをしなきゃならないんだ? この目の前で今か今かとパクつかせている将来昇り竜内定の美しい鯉にサービスしなければならないんだ?
眉間に皺が寄る。眼鏡をしているのに目の前の四十内さんがよく見えない。
奥歯が鳴る。苦虫をすり潰すあまり歯が欠けてしまうかと思った。
「あぁ……女優ね、リクエストとはちょっと違うけれど、緩利さん。別人みたい」
威勢がいいのは最初だけで、シャッター音が鳴るたびに、気恥ずかしさが顔を覗かせていく。生来の気性である小心者に戻されていく。
今更要求通り、照れ隠しのように舌を出すと、マシンガンみたいなシャッター音に蜂の巣にされた。
優しい微笑みのまま渡された眼鏡ケース。四十内さんが満足したようだ。
「さて、そろそろ終わらせようか。次はわたしの番だよね?」
わたしの心は決まった。辱められたからには、復讐する。絶対に羞恥で染め上げる。
「四十内さんさぁ、カワイイやってみよっか」
「カワイイ? 具体的には?」
あまりに漠然としたわたしのリクエストに疑問を持ったようだ。すぐには応えず、中指でクイと眼鏡をあげる。
「それを考えるのも四十内さんの仕事だよ」
数秒フリーズしていたが、自分なりのカワイイを持った四十内さんが動く。
「こう?」
腕を伸ばしたまま天板に突っ伏し、顔だけをこちらに向ける。
なんだか
「が、残念。リテイクです」
四十内さんはショックを受けてのけぞる。想定していなかったんだろう。このターン制バトルの必勝法、その
「んー? どうしたのかな。このルールはあくまでターン制。わたしはリテイクをお願いしてるだけだよ?」
つまり手番は依然わたしのまま。変わりなく。これはルールを明言していなかった四十内さんのミスだ。戯れにとしか思っていなかったが故の落とし穴にはまったのだ。
「……えぇと、じゃあこんな感じかしら?」
わたしのかけている眼鏡を取り、ツルを持って双眼鏡みたいにこちらを覗く。
ポスターにすべきだね。眼鏡屋さんの壁一面に貼り出して然るべき透明感。
「くっ、リテイクで」
なんとか絞り出した。まだ音をあげるわけにはいかない。四十内さんの照れも焦りも見られていないから。
「これでも緩利さんの眼鏡に敵わないのね」
「わたしの眼鏡姿よりはカワイイけどね」
妙な感じで意味が二重にかかっている。眼鏡だけに。
「そうかしら? カワイイがわからないから、緩利さんを参考にしていたのだけれど──」
カシャカシャカシャっと、ゴング代わりの三連射。
カワイイを考えるにあたって、わたしを参考にした。そんな事実が、すこし──いや、かなり恥ずかしい。顔どころか目から口から火が出そうだ。自爆寸前なのかもしれない。
「…………いやー、暑いねぇ」
「──そうね。まだまだ暑くなりそう」
とうに夕陽も遠く、絵筆に水を含ませ薄く伸ばしたような夜空。仄暗い教室では頬の赤さは気取らない。
今回の議決『憧れるより恋焦がれるお年頃』。