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1_Let The Bad Times

吟遊詩人と森の都




 白狼が森を駆け抜けた。

 すっかりと雪化粧をすませた常磐木の森林ではツガにモミ、シラビソの葉がこんもりと粉雪を積もらせ、森の都キーンと王都エイヤをつなぐ唯一の街道を純白のアーチで覆い隠す。見上げても葉を茂らせる木々が月を隠し、この街道にはその灯は届かない。


 ここは永遠と続く白と黒の木々のトンネルだ。

 わだちが雪に隠された街道を、白狼が横切り東に渡ると比較的に低いツガの木が身を震わせ葉先の雪をパサっと落とした。白狼はそれに少し驚き辺りを見回し、鼻を突き上げ空気を嗅いだ。中天に月が昇っているであろう深夜だったが、空気が僅かに震えているのに気が付いたからだ。


 ドドダッドドダッ——蹄鉄が雪を踏み固め駆ける鈍い音が響く。耳をそば立てた白狼は街道を見据え暗闇に身を潜ませる準備をする。そうして蒼白い鋭い眼光は、南に白馬の騎影と白い外套とフードの騎手を捉えた。

 灯も掲げず不用心な恰好の獲物をだ。白狼はひらりと暗がりに飛び込み、少々小高い所で立ち止まると遠吠えでこのことを周囲の仲間に知らせた。



 美味そうな馬が縄張りに紛れ込んだぞ。





 吟遊詩人のアオイドスは旅路を急いでいた。

 それは寝る間も惜しむほどだ。


 明日は満月で、そこから一週間、森の都では大雪像祭が開催される。彼女はその初日のセレモニーで楽曲を披露しなければならない。旧友のアイシャとグラドに毎年頼まれている恒例の仕事だったから、何を差し置いても完遂しなければいけない。


 無理をさせてしまってごめんね——白い吟遊詩人は白い軍馬の首に腕を回し頬を当て、そう耳元で囁いた。


「あともう少しだから」


 囁かれた言葉の一文字一文字が軽やかに弾み耳元を掠めると、しゃらしゃらと風に流されてゆく。軍馬は耳触りの良い音に気を良くしたのか、ぶるんと声を漏らすと更に力強く足を進めた。


「良い子ね——もう少し頑張って」

 吟遊詩人は軍馬の首元を軽く叩くと何やら小声で呟き始める。

 風に流されよく聞き取れはしなかったが、それはきっと魔導の<言の音>だ。吟遊詩人の中でも世界中の民衆文化や伝承の担い手となり、世界を遍歴する<ミンストレル>のアオイドスは旅の友に魔導を携えた。

 <言の音>の静かな響きが風に流れると全身から薄い緑の輝きが湯気のように沸き立ち風に流されてゆく。その姿は緑色の風が街道を吹き抜る様を彷彿させた。


 遠くで狼の遠吠えが轟いた。


 東の暗がり、西の暗がり。南からも、無数の遠吠えが互いに応えあい獲物を囲む陣形を狭める。このオブグスタン大森林に生息するダイアウルフは優秀な狩猟者であり捕食者なのである。一度狙った獲物はよほどのことがない限り仕留め損なう事はない。


 アオイドスはこうなる事を承知していた。



 ※



 緑の風が雪の街道を走り抜ける——

 それに並走し捕捉する中堅どころの若い白狼は、暗がりの中を縫うように駆け抜け獲物に飛び掛かる切っ掛けを見計らった。


 仕留める必要はない。


 獲物を混乱させ判断を鈍らせるだけで良い。あとは家長が仕留めてくれる。しかしだ、その獲物はなぜか不思議な光を放ち疾走する。明らかに何かが起きている。果たして、自分が飛びかかって成功するのだろうか。

 白狼はいっそう速度をあげ獲物の先に周り、小高い丘で鋭い警戒の遠吠えをあげた。向かいの森の中を走る仲間の応えが響いた——同時に飛び掛かるぞ。

 北上する緑の風は狩猟者の存在に勿論気がついているだろう。それは手に取るようにわかる。しかし速度を上げるわけでも警戒をするわけでもなさそうだ——考えられる事は二つ。


 狩猟者達よりも馬上の人間が戦闘に長けているのか、もしくは、全くの馬鹿か。再び捕捉し追走をする白狼は軍馬の向こうに仲間の姿を認めた。先ほどの呼びかけに応えた兄弟だ。そして焦点を軍馬に戻すと馬上に鋭い視線が垣間見えた。フードの中で細められた黒瞳が左右を確認し速度を落とし始める。

 白狼はそれに直感をした——答えは前者だ。この人間は





 ヴォオオオオ——風を受けるフードが煩く音を立てた。

 純白の外套は重たく背後でバタバタと空気を震わせる。煩わしい音に紛れ何度か狼の遠吠えが聞こえると、東西に並走する気配を感じた。何度目かの遠吠えでアオイドスは、この狼の旅団は自分を逃してはくれないだろうと判断をした。左右の暗がりに高速で移動をする蒼白の光を近くに認めたのだ。


 さて——手綱を軽く引き相棒に速度を落とす合図を送ると、アオイドスは上体を起こし背筋を伸ばす。


「時は金なり。こんなところで時間を喰うわけにはいかないのよね」


 手綱から両手を離した吟遊詩人は両膝を内側に強く絞り込み身体を固定した。右手でフードを取り払い左手を肩の高さで前に突き出し、そして少し下げる。上体を右に捻ると短く何かを唱えた。<言の音>ではない何かの詠唱だ。





 仕掛けてくる——東の暗がりを疾走する白狼を目掛け伸ばされた騎手の手。それは火を見るより明らかに何かの意図を感じる。東の白狼はそれでも狼狽えることはなく、次第に走路を並走から接敵に変えると、獲物との距離をジリジリと縮めた。例えこの騎手が手練れだろうとも、数で勝る我々の優位が変わる訳ではない。これまでこの縄張りで仕留め損ねたことはないのだから。

 西の白狼も同じく接敵に転じている。気付かれてはいるが、二頭で迫れば足止めはできるだろう。上手くいけば軍馬の喉笛を噛み切ることも可能だ。

 しかし次の瞬間、その考えは思い上がりであったと知る。白狼達は自分達が捕食者、狩猟者で、軍馬と人間は捕食される獲物だと勘違いをしたのだ。逆だ。見事に自分達は街道に誘き寄せられた。向けられた左手が強く蒼く輝くと騎手の手中には弓が握られ、どこにその瞬間があったのか皆目見当がつかないが矢をつがえていた。

 そして——ビュン! と風を切る音がするのと同時に東の白狼の視界は暗転をした。





 騎手が背を向けた——この瞬間を逃す手はなかった。

 西の白狼はその機を逃さず接敵に転じた。走路を大きく変え軍馬に寄っていったのだ。直角に向かっては相手を逃すから、大きく右斜め前にかぶりを向け詰め寄る。軍馬の腹の下に東の白狼の姿が見える。向こうも接敵に転じた。これならば行けるはずだった。

 しかしだ。頭上で蒼い閃光が弾けると腹の下に見えていた東の白狼が前のめりに崩れ落ち、南に流れ転がた。


 眉間を射抜かれていた。


 しまった——しかしもうここで引き返す事はできない。背を向けてしまえば、次は自分が射抜かれる。残された白狼は前に躍り出ると軍馬を翻弄し、混乱に乗じて暗がりに逃げ込もうと考えた。

 かぶりを正面に向け、ぐっと前脚に体重を乗せ強く蹴り出そうとした瞬間。頭上で冷たく寒々しく何かがいななく音がした。ヒュウンともヒィーンとも聴こえたそれは、鉄の薄刃が軌跡を描いた音だった。それが耳元を掠めると白狼は前脚を踏ん張り身体を左に捻ろうとした。





 アオイドスはいつの間にか握られていた弓で東の白狼の眉間を射抜くと、弓をぐっと力強く握りしめた。すると弓は一瞬蒼く光を放ち粒子を散らしながら疾走する風の中に霧散した。突然、糸の切れた操り人形のようにガクンと前のめりになった白狼は、白と黒の闇に転げ、そして流れる風景に溶けてゆく。

 肩越しにそれを見届けた吟遊詩人は——あと一頭、後ろの本陣は振り切れそうね——顔にまとわりつく黒髪を気にすることなく身体を左に捻り、眼下で離脱を始めた白狼を捕捉した。

 右手で手綱を握り直し吟遊詩人は左に大きく身体を動かした。そして鞍にぶら下げられたショートソードの柄を逆手に軽く握り呟く。すると剣は仄かに蒼く輝きを放った。魔力を付与したのだろう。


 レディーのお尻ばっかり追いかけてると——そう云って、左肘を軽く畳み抜刀をした吟遊詩人は手首を効かせ剣を順手に握り直し、蒼く輝く刀身を素早く振りあげた。


「痛い目に遭うわよ」


 真っ直ぐ綺麗に振り下ろされた切先は、環の四分の一分、蒼く軌跡を描くと白狼の眉間を縦に叩き割る。膝を折って前のめりに沈んだ白狼は投げ捨てられた人形のように転げ、蹄鉄の餌食となった。血飛沫をあげて転げていく白い塊。断末魔をあげる間も無く飛び散る命は彼岸花のように血の華を咲かせた。


 ごめんなさいね——アオイドスは血を振り払い剣を鞘に戻すと手綱を握り直した。

 遠吠えはもう耳に届かない。きっと自称レディーの逆鱗に触れた若き二頭の躯を旅団は発見したのだ。そして彼らは思ったのだ。


 あの魔女に手を出してはならない。





「見えてきたわ」

 軍馬の首を軽く触りアオイドスは軽く手綱を引いた。次第に輝きを失った緑の風は森を抜ける頃にはすっかり霧散し、軍馬はゆっくりと速度を落とした。森を抜け切ると、西に落ち始めた蒼白い月がアオイドスと愛馬を出迎えた。随分と月は大きく呑み込まれてしまいそうだ。


 ここまでありがとう——と軍馬から降りると、労わる様に首を撫でながら「これで体力が回復するわ」と軍馬の口へ何かを運んだ。

 月光に照らされた人馬の風景はまるで神話を描いた何枚もの絵画のようで、その最後は純白の軍馬が青白く輝き無数の粒子となり、風に流される場面で締め括られた。


「ゆっくりやすんで」

 アオイドスは消えゆく粒子を優しく触り手で追いかけた。

 真っ白に染められた鞣革なめしがわのグローブをはずし、乱れた黒髪をまとめると外套に押し込んだ。そしてフードを目深に被り、いつのまにか手にしていた携行バッグを斜めがけにした。


 迷惑な話で——アオイドスは雪を踏み締め歩き出すとそう呟いた。

「リアリティもここまで来ると、しんどいわね。いくら理論立てられないからって移動手段は豊富にして欲しいわ。腰が痛いのよ、まったく」


 何かに悪態を吐いたアオイドスはフードの中から目を凝らし北を眺めた。

 抜けたと思った森は実際のところは森の中を切り開いた広大な平地で、彼女が立つ小高い所から西に東へ目をやれば、まだまだオブグスタン大森林が広がる。街道は銀色に輝く平地のど真ん中を北に真っ直ぐ、画布にひかれた薄黒い絵具の線のように伸び、森の都キーンの南大門に吸い込まれていた。

 街道は北大門を出る頃には北北東に道を曲げ西に横たわるオブグスタン湖を見ながら北東の漁港エリンまで続いているのだ。

 アオイドスは北から吹き荒ぶ、肌を刺す風に顔をしかめ歩き始めた。街道沿いへ掻き集められた雪に足を取られないよう気をつけながら南大門に向かった。



 さて、本当に上手く行くのかしらね——ナキト。



 明日の夜は満月だ。そして、キーンの大雪像祭が始まる。

 すっかり深夜だというのに大門に近づくにつれ、ざわざわとした街の息遣いが感じられる。きっと、祭りに向けて親友のグラド達、鍛冶屋ギルドの面々が準備を進めているのだろう。その空気を感じ吟遊詩人はフードの中でやんわりと微笑み、歩みを早めた。

 この時季には国土の殆どが雪に覆われる北の大国アークレイリ王国。王都エイヤの遥か北東へ広がる大森林オブグスタンにキーンは存在する。

 森の都キーンは、多くのアークレイリ人が愛する英雄譚<宵闇の鴉とゆき竜王>の舞台として広く知られた。十数年前に鍛冶屋ギルドが主催、開催した雪像祭は今やキーンの顔として、豪雪地帯の都市へ世界中の旅人を呼び込んでいる。



 大雪像祭前日——鍛冶屋ギルドの長グラドは大忙しだった。


 北大門を出て更に北へ向かったオブグスタン湖畔で幾つもの業務を監督している。グラド曰く煙草がいくらあっても足りないほどだそうだ。

 今年の出し物は、宵闇の鴉と雪竜王ヴァノックが対峙し、いよいよヴァノックの首が落とされる寸前の場面を雪像にするという大作だ。

 夜半を過ぎいよいよ完成間近となった雪像の出来具合を確認しながらグラドは、吟遊詩人達が次々と唄い繋ぐ雪のステージの準備に客席や出店者の屋台の確保、人流が予想される経路の確認と多岐に渡り監督をした。


 そもそもこの大雪像祭は、グラドの発案で発起されたものだったから、この仕事を苦には思っていない。しかしそれでもやはり体力には限界がある。

 今年はちょっと——闊達さを滲ませるずんぐりむっくりとした身体を、木製の椅子に預けながらグラドは云った。

「派手にやり過ぎたかな。まあでも、アオイドスが唄ってくれるからな。これくらいやってやらんとな」


 完成をした雪像——<宵闇の鴉>こと外環の狩人アッシュ・グラントが両手剣を片手で担ぐ姿へ吹雪を口角から立ち昇らせる雪竜王ヴァノックが顔を近づける雪像。それを見上げた鍛冶屋のギルド長は前掛けのポケットからパイプを取り出した。口に咥え煙草をひとつまみし火を点けると、フーとひと吐きし、くりくりの赤毛を軽く掻いた。


「あら、だったら私も最善以上に頑張らないとね」

 不意に背後からかけられた声にグラドは驚くことなく、ぐいっと頭を後ろに倒し聞き馴染みの声を確認した。そこにいたのは純白の外套に身を包んだアオイドスだった。


「よお、アオイドス。いつ着いたんだ?」

「少し前にね」

「そうか。アイシャには?」

「ええ、こっちへ来る前に会ってきたわ。ちょっとお願いしたいことがあったから先にね」

「そうか。元気そうだな。といってもお前達、外環の狩人は歳を取る様子もねぇからな、実際どうなんだ?」


 壮観ね——吟遊詩人はボソッと零しグラドのすぐ横で同じく雪像を見上げた。


「そうね、もちろん元気よ。私達はあなた達よりも少し時間の流れが遅いの。説明が難しいのだけれど——」と、アオイドスは宵闇の鴉の雪像に向かい歩き始めた。

「それこそ外環ね。あなた達の命の円環の外に私達の本質はあるの」


 パン!


 グラドは赤瞳が輝く大きな目を見開き勢いよく膝を叩くと、「すまん難しい話はやめてくれ!」と両手を挙げ、肩をすくめて見せた。グラドはそのままアイオドスの傍へ、ひょこひょこと追いかけると「ところで、コイツとはもう会えたのか?」と宵闇の鴉の雪像に触れた。


 いいえ——吟遊詩人は黒瞳でグラドを見つめた。

「会えたとしてもね、向こうは私を覚えていない。まだ知り合いでもないというか」吟遊詩人は寂しそうな顔に微笑みを浮かべ、のだけどねと言葉尻を細めた。

「なんだって?」

「いいえ、こっちの話。アッシュとはまだ会えてないのよ」

「そうか、早く見つかるといいな」

「ええ。きっとグラドが用意してくれたこの雪の劇場に釣られてフラっと戻って来るかもね。ヴァノックが復活したのか!? ってね」


 まさか!? ——吟遊詩人の胸のあたりまでしか背がないグラドの戯けた振る舞いはいつ見てもアオイドスの笑みを誘う。まるで大きな小人みたい。と、この吟遊詩人は楽しそうに笑うのだ。


「まあ、だとしたらこりゃ責任重大だ。せいぜい俺の出来ることで頑張らせてもらうぜ」

 グラドは両手を挙げると「どこに泊まってるんだ? こっちが片付いたら顔を出すぜ」と雪のステージに登っていった。

「冬のヤドリギ亭よ」アオイドスが軽やかに応えた。

「なんだ、シケたところに宿をとったな」

「アイボルトに云っておくわ」と楽しそうに笑い遠ざかるギルド長の背中へ声をかけたアオイドスは軽く右手を振った。

「勘弁してくれ、明日の打ち上げ会場がなくなっちまうよ」グラドは振り返りもせず片手を挙げただけだった。


 気風の良いこの男はどうも人が困っている顔を見てしまうと手を差し延べたくなってしまうようなのだが、困ったことにそれは人に悟られたくないらしい。だから照れ隠しのように素気ない態度を取る。最もそれを隠せていると想うのは本人だけで、周囲の人間にはそのお粗末な隠蔽術は見破られている。だからこそ、この男の周りには人が集まるのだろう。


 相変わらずねグラド。


 吟遊詩人は寒々しい空っ風に吹かれ乱れた黒髪を両手で整えた。踵を返し、そのシケた<冬のヤドリギ亭>へ向かった。今晩は森での大立ち回りもあった。長距離移動もこなした。だからもうヘトヘトなのだから、名物のホットワインをひっかけて寝てしまおう。

 吟遊詩人は足取り軽く、つまみに頼むものを考えながら宿へ急いだ。きっと叩き起こされるグラドの旧友、吟遊詩人の定宿の主人、アイボルトは口癖の「追加料金だぞ!」で捲し立てるのだろうなとクスクスと笑みを零す。もっともそんなもの取られた覚えはアオイドスには無い。

 普段であれば街はそろそろ寝息をたて深い眠りに着く頃だったが、まだまだ其処そこらじゅうで祭りの関係者が石畳を駆け回っている。彼らにとっては今はまだまだ長い夜の始まりなのだろう。




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