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宵闇の鴉と英雄譚




 英雄譚<宵闇の鴉と雪竜王>の舞台。森の都キーン。

 百年を超える休眠期を経て遥か北の山脈より下界に降りた雪の竜王ヴァノックは、人の手で醜く拓かれたオブグスタンの大森林を眺め酷く悲しんだ。

 木こり達の集落から始まったキーン。連綿と続く時のなか、集落から村、町、そして都市へ。そのうちに人類の版図を誇示するよう、東西南北をぐるっと冷たい城壁で囲った。伐採された木々は、大きな屋根の家屋となり、切り出された岩々は神殿に商店、そういった寒々しい建物に姿を変えた。


 ヴァノックはその様子を「人類とは大地に蔓延った病なのだ」と、かぶりを振った。


 竜王の庇護下にあった白狼達も月詠の湖より遥か南に追いやられ、野兎に鹿といった先住民も随分と南に追いやられてしまった。伐採された木々の合間には人の手で植えられた本来ここにはなかったコバノトネリコやナナカマドが歪に育ち、景観を損ねている。人の手が入った自然に竜王は顔をしかめ、大地を侵食する人類に鉄槌を下すことを決める。

 そうやって数十年前、森の都キーンを急襲したのだが、偶然に居合わせた英雄アッシュ・グラントと対峙したのだ。


 雪原の王、月光溜まりへ静かに舞い降りる。

 その姿は竜。

 旗めく六翼は羽衣のようで、

 山の如き体躯にひしめき合う鱗は蒼白く、

 全てを打ち砕く尾は天まで届かん。

 白銀の瞳は鋭く叡智を滲ませ、

 留まる壁塔より眼下を見下ろした。

 その姿は月光を背負い神々しく、

 後光の蒼はそれを神の降臨だと、人々を平伏させた

 あるものは祈りを捧げ

 あるものは恐怖に震え蹲った。

 竜王は云う。

 嗚呼、常磐木達の、そして小さき命達の拠り所はこの大地。

 木々や草花のむせび返る青い香りが一面を覆う頃には、

 実もなり命の円環が繰り返されていくのだ。

 人々よ。四番目の獣よ。

 お前達はその摂理、円環をこうも容易く醜くしてしまう。

 今や叡智は地に堕ち澱む欲望だけが渦を巻く。

 病のように大地に蔓延るのは何故か。

 雪の竜王を見上げたのは黒き鴉。

 鴉は静かに竜王の鍵爪の傍に立ち、応える。

 円環にあるのは人々も同じ。

 汝の眷属は人々を獣とよび、人々も汝らを獣と呼ぶ。

 目に映るものの違い、どちらも正義でどちらも悪だ。

 ならば、この理は巡り円環を成す。

 命は繰り返され外環の神の筆跡は今日この日のことも描きださん。

 人の身で神を語るとは。その応えは不遜なり。

 雪原の王は不服の溜息をつく。

 鼻腔の奥から硫黄の匂いが抜け出し、その濃さ故に憤りを知る。

 ならば問おう、宵闇の鴉よ。

 大地の円環を打ち破りし第四の獣よ、其の願望は侵食かそれとも破壊か。

 鴉は背中に背負った黒刃の大剣を放ち足元に突き立て応えん。

 其は新たな円環なり。

 なんとも傲慢な。

 竜王は焔混じりの吹雪を上げそして天に向かって叫ぶ。

 四番目の獣よ。いや大地の病理よ。

 ならばこれは摂理に従い淘汰されるもの。

 天誅を覚悟せよ。



 ——森の都キーン 大雪像祭。


 豪奢に飾られた舞台でアオイドスが唄い始める。

 遅い時間にも関わらず随分と多くの聴衆が、思い思いに木製のカップで暖かい飲みものを手にし、肉にかじりつきながら集まってきた。最も盛り上がるヴァノックと<宵闇の鴉>アッシュ・グラントとの対話の節に差し掛かると、聴衆は息を呑み、アオイドスの抑揚のある歌声に耳を澄ました。そして、それに合わせ段々と強くなる旋律に興奮すると、顔やら耳やらを赤くしながら前のめりになるのだった。


 しばらくの後にヴァノックの頸を斬り落とした<宵闇の鴉>がその場から神隠しにあったように姿を消してしまう場面まで唄いきると喝采が巻き起こる。

 鍛冶屋ギルドの下働き達は疲れを他所に分厚い皮の袋の口を開けて歩き回り、聴衆から硬貨を集めて回るのだった。アオイドスは後日談の節を別の吟遊詩人へと託し、喝采のなか舞台を静かに降りていった。大盛況だった。これまでの大雪像祭の中でも一番の盛況ぶりに下働き達は足をもつらせ転げるものもいた。


「ぶちまけた金は死ぬ気で拾えよ!」


 グラドはそんな様子に目をやりながらギルドの面々に発破をかけて回った。そして舞台を降りてこちらに向かって歩いてくる白い吟遊詩人に軽く手をあげ、ひょこひょこと小走り気味に走り出した。アオイドスは笑ってはいけないと分かりながらも、その愛くるしい姿に——といってもグラドはもう五十を越えそろそろ六十が視野に入った初老だったが——微笑んでしまう。軽く手を振り、走り寄ってきた彼を迎えた。


 いい唄いっぷりだったな、アイシャなんか軽く泣いてたぜ——グラドは第一声を上げると「お前のリュートはアーティファクトか何かか?」と腕を胸の前に組む。


「ああ、そうね——

 アオイドスはそう云うと右の指を軽く鳴らした。蒼い光がパッと輝き次の瞬間には、上半身をすっぽり隠してしまうくらいのリュートが右手に収まった。そして、それをグラドに手渡す。

 ——お目が高いわね。南を旅している時に参加した仕事で頂いた報酬よ。このリュートで奏でられた音は直接耳元に届けられるの。だからどんな広いところでもちゃんと演奏を聴いてもらえるって仕組み」


 ほうほう——グラドはリュートを手に取り舐めるように見回しながら云った。


「演奏はそうでも、歌声はどういう理屈なんだ?」

「それもこの子のおかげ。奏者の歌声も同じように届けてくれるのよ」

 なるほど——グラドはリュートの腹に開いた穴を覗きこみながら、おお!と小さく感嘆の声をあげた。

「凄いな。中にビッシリと<言の音>が彫られていやがる。これはあれだな、聖霊の産物ってやつだな?」

「そのようね。鑑定に出した訳じゃないからわからないけどね」

「そうそうか。扱いにくくはないのか?」

「ええ。どちらかというと私がその<言の音>に従って動いている感じだから、とても楽よ」

「なるほどな」グラドは慎重にリュートを扱いアオイドスに差し出した。吟遊詩人はそれを受け取るとリュートはパッと蒼く輝き無数の粒子を放ち手元から姿を消した。


 ところで——グラドは皮袋を手にした下働きを手招きしながら云った。

「今晩の報酬を先に渡しておくぜ」下働きから皮袋を受け取ると「ありがとうな—— 一杯やってきな」と下働きに金を投げ渡した。そして観客席の向こうの屋台を指差し送り出してやった。


 ギルド長さん——改まってアオイドスは自分を見上げる恰幅の良いグラドを見つめて云うと、グラドは「おいおいおい」と両手を振り上げた。

「ちょっと待て、なんだ改まって。お前がそう呼ぶときは大体ろくな話になりゃしねえんだ。黙って報酬を……」


 アオイドスは右の人差し指を綺麗な形をした唇に当て片目をつむると「アイシャにね、一つお仕事を頼んだのよ」と小声でグラドの言葉を遮った。

 そりゃ知ってるが——遠くで屋台の管理をしてまわる彼の妻を眺めながらグラドは顔をしかめながら云った。

「あいつ、何も言ってなかったぞ」

「そりゃそうよ。だって女同志の約束だもの、あなたにだっておいそれと話さないわよ」

「ああそうですかい」とグラドは両肩を竦ませた。

「で、その仕事ってなんだ。もう話したっていいだろ?」

「そうね。でもその前に今晩の稼ぎはいかほどになったのかしら?」

「あー。フリンフロン金貨34枚にアークレイリ銀貨が514。といったところだな。ギルドの取り分は抜いてあるぜ」


 グラドは金の入った皮袋を「ほれっ」と吟遊詩人に渡そうとしたが、彼女は一向にそれを受け取る気配がなかった。そしてアオイドスはまた片目を瞑って「いいのよ」とグラドに云った。


「何がだよ」とグラド。

「それだけあれば」

「しばらくは遊んで暮らせるな」

「良いわね。丁度いいわ」

「なにがだ。何に丁度いいっていうんだよ」

「アイシャにお願いしたお仕事によ」

「こんな大金の仕事ってなんだ、ちゃんと説明しといてくれ」

 そうよね——アオイドスは楽しそうに笑うと外套をひるがえし屋台へ歩き出し一杯奢ってくれるかしら? と悪戯にグラドに微笑む。グラドはそれに「嫌な予感しかしねえよ」とクルクルとした赤髪を掻きながら吟遊詩人を追った。





 リードランの中でも最後に建国を果たしたフリンフロン。

 その始まりは、交易都市セントバを中心に東西南北へ伸びる貿易路の安全を守るため結成された旅団<太陽のない街>の急成長によるものだった。

 南方からやってきたと噂されたジョージ・シルバ将軍は未知の文化を持ち込み勢力の増強を計ると周辺諸国を圧倒した。その代表的なものが黒鋼くろはがね玉鋼たまはがねの精錬方法だ。元来フリンフロンの地は豊富な鉱産資源を有し、産出された鉱石の中から黒鋼の原料となる玉鋼を精錬するのに適した。


 玉鋼は鋼鉄よりも軽く、そして強い。

 薄く引き延ばすことも容易で、例えばそれを皮鎧に打ち付けてやれば非常に軽量化されたブリガンダインが仕上がる。

 玉鋼へ更に火入れをし鍛え上げたものは黒鋼と呼ばれた。今ではその精錬過程の難度ゆえ後継者に恵まれず廃れてしまってはいるが秘匿された儀式然と技法は受け継がれた。

 鍛え上げるのに成功をすると黒鋼には神が宿るとされ数ヶ月の間、祭壇へ祀られる。

 黒鋼は魔術師が術式を彫り込む際、同じ面積へ彫れる文字量に差が出るのだそうだ。故に神が宿るとされたのだそうだ。


 この他にもジョージ・シルバが持ち込んだ洗練された戦術は、ひたすら物量で押し切る戦を一変させた。個人の力量と軍勢の物量だけが勝敗の鍵だったこれまでの戦は、技量の集約と編成、そして運用といった効率的に人の命を奪う知恵こそが勝敗を決する鍵となったのだ。

 岩をも砕く剛の両手剣術<クラスラッハ>は今でも主流ではあるが、ジョージは機動力に優れた片手剣術<タルホ>を多く起用。騎馬に乗せ運用をする騎馬隊を編成した。

 更にこれまで各国の戦に不干渉を表明していた魔術師ギルドに魔導各派の教会を説得、戦に持ち込んだのだ。弓よりも高射程の魔術による遠方射撃、魔導で飛躍的な身体能力を得た騎馬に、疲れを知らない戦士、そして充実した装備。これらは名実共に<太陽のない街>を最強の旅団として各国に知らしめた。

 交易路での安全は、旅団の護衛を得ることで約束され、セントバを中心に各国の文化が積極的に交流された。この文化交流は多くの人々からリードランの益として認められるに至り、ジョージ・シルバを王としたフリンフロンの建国が望まれることとなる。


 この他にも関税の導入やリタージ学派の魔術師を招聘しょうへい一般魔術コモンマジックを都市生活文化に取り入れるなど革新的な市政を行った。

 そして遂にジョージ・シルバはセントバを各国の交流の要として活用することを提案、旅団の本拠地を現在のフロンへ移動、後にフリンフロン王国の建国を宣言したのだ。こうしてリードランは、東のブレイナット公国、西のフォーセット王国、南のフォルダール連邦共和国、北のアークレイリ王国、そしてその中央に位置するフリンフロン王国の五国で構成された。



 永世中立都市ダフロイト。

 執政官のヘルムート・ベルンハルトが建国間もないフリンフロンの王位を譲り受けると建国を良しとしなかったアークレイリ王国がダフロイトを攻め落としてしまう。

 ダフロイトはかつてアークレイリの南の大門として機能をした城塞都市であった。しかし、フリンフロン建国時、ダフロイト評議会はフリンフロンへの帰属を望み、それは強引に行われた。これに激怒をしたアークレイリは、これを侵略だと糾弾するが、世界会議はそれを認めなかった。この采配は大きく遺恨を残しフリンフロン国王の王位移譲の不安定な時期につけ込みアークレイリが再びダフロイトを奪取するに至ったというわけだ。


 しかし、フリンフロンはアークレイリの圧政からダフロイトを解放するという大義名分を掲げ戦へ突入したのだった。

 しかし、開戦まもなくアークレイリは北の蛮族との戦も抱え疲弊を露わにした。これにヘルムートはダフロイトの主張も立て永世中立都市としての独立を提案、受け入れなければアークレイリが本国を侵略される番となる。疲れ切った当時のアークレイリ王クルスは、あっさりとそれを受理をした。


 これが<北海の和約>の成立であった。

 かくしてダフロイトはアークレイリとフリンフロンの緩衝地帯としての役割を背負うことを条件に独立を果たした。それからのダフロイトは各国の貴族、財をなす商人達の別荘地としても、風光明媚な観光地としても、急速に大きく発展をする。

 しかし——光のあるところに闇があるよう、光が強ければ強いほどに闇は濃く暗がりに淀みを吹き溜めた。


 暖かな灯火が落ちる農民達の家屋。

 月明かりの差し込む城館の一室。

 酔った酒客が寝転ぶ酒場の床。

 冷たく灰色の地下牢。

 木漏れ日の中。

 そして、打ち捨てられた砦。

 あらゆる場所、あらゆる時間の中へ澱み溜まったものはいつしか獣に喰われ同化し、それを蝕んだ。澱みを吐き続ける獣は自身を呪詛で縛り、虚とし、呪詛じゅそ溜まりから怨嗟の声を聴いたのだった。





 ——大雪像祭当日 永世中立都市ダフロイト。


 今夜は満月だ。遠く離れたアークレイリ王国キーンでは大雪像祭が行われているはず。数週間前、ここダフロイトに逗留中の貴族や大商人に、大勢の吟遊詩人達が一斉に北の大門を通りキーンに旅立って行くのを目にしたのだから間違いない。

 今夜の門番を勤めるランドルフは、夜更けの暗がりに目を配りながら、そんなことを考えていた。そして遠くへ人影を認めた。


「待たれよそこの戦士」

 北の大門を警備するランドルフは南から歩いてきた黒ずくめの男を呼び止めた。

 その男は、暗く黒くどこまでも深く染め上げられた外套にすっぽりと身を隠した。フードから見え隠れする双眸の瞳もやはり黒曜石のように黒く、左腕の鱗籠手は黒鋼で背中の両手剣の刀身、柄、全てが黒鋼だ。

 幾重もの剣戟のなか白刃を受け流し叩き返してきた籠手。その傷跡は死合う相手に幾度も死を呼び込んだことを伺わせた。槍襖やりぶすまを食い破るよりも多く頸を跳ねたであろう黒鋼の大剣は切先から柄まで鋭く、黒光の珠が滑り落ちた。ランドルフはその男の出立ちに心当たりがあった。


「外環の狩人アッシュ・グラント殿とお見受けするが」


 黒ずくめの男は警備兵の精悍な顔に鋭く一瞥をくれると、短く、どこか壊れそうな儚げな声で「そうだ」とフードを取り払う。そしてランドルフへ訊ねたいことがあると告げた。

 ランドルフはアッシュの素顔を見たことはこれまでなかった。肩甲骨あたりまで伸びた乱雑な黒髪は深く青みがかり、黒瞳はどこまでも漆黒で、見つめられると吸い込まれそうだ。どの印象もすっかり英雄譚<宵闇の鴉と雪竜王>で謳われたままだ。目の前の男が宵闇の鴉であることに疑いはなかった。


「勿論何なりと」

 助かるよ——アッシュは革の手袋を外し右手を差し出した。ランドルフは最初何を求められているのか意図を計りかねたが、それは握手を求められているのだと気がつき、慌てて籠手を外しアッシュの右手を取った。


「アッシュ・グラントだ」

「ランドルフ・ラトべリエ、ダフロイト自治領警備大隊所属です」


 ランドルフは答えると右手に伝わるアッシュの体温になぜかほっとした。

 英雄譚に謳われるアッシュは竜王の頸を単騎で落とす鬼神のようだったから、きっと人の姿をした鬼かなにかなのかと思っていたのだ。そうでなければ竜を単騎で沈めるなどという芸当は説明がつかないと、よく酒の席でも力説したものだった。だがしかし、今感じている右手の温もりは確かに人のそれで自分となんら変わりのない人間なのだ。


「俺が鬼か何かとでも思っていたか?」


 ま、まさか——ランドルフは気取られたことに焦ってしまい、どもりながら右手を離しそう云った。


「それで宵闇の」

「よしてくれ、アッシュでいい」

「はい。アッシュ、それで訊ねたいこととは?」

「ある男を探しているのだが……<月のない街>という野伏の組織に心当たりは?」

「ああ……はい、噂でしか聞いたことがありませんが。フリンフロンの暗部組織とかなんとか……あれは実在するものなのですか? 酒の席の噂話だとてっきり」

「そうか。では抽象的で申し訳ないのだが、俺たち外環の狩人と同じような術を使う金髪のもじゃもじゃ頭で長身の男を見かけたことは?」


 んー……。ランドルフは少しの間、小首をかしげて考え心当たりはなさそうだったが、ポロッとコービーがそんな感じだけれどと溢した。


「コービー?」

「ああ、はい。私の古くからの友人です」

「そうか。コービー?」

「コービー・ルエガーです。でもあいつはフリンフロン軍を退役し、今では北の棚田で娘と二人で農園をやっています。嫁さんを早くに亡くして大変そうですが、元気に農園をやってます。まあ、ちょっと変わっているというか、寡黙というかクセのある奴ですけど外環の狩人とは程遠い感じです」

「そうか、ありがとう」

 邪魔したな——と、アッシュはフードを目深に被り、もう一度ランドルフと握手をかわすと、「良い夜を」と声をかけ北に歩き始めた。


「アッシュ、国境を越える時は気をつけてください。解放戦線とアークレイリ軍の小競り合いが最近は激しいようです。眉唾ものですが、先の戦いで戦死した解放戦線将軍ネリウスが復活したとかなんとかで、アークレイリ軍が浮き足立っているそうです」


 ランドルフは言葉を投げると、軽く手を上げて振っているアッシュの背中へ最敬礼し、暗がりに溶け込む様子を見守った。

 あれが宵闇の鴉か——ランドルフはしばらくの間、右手を眺め何度か握ったり開いたりをすると、アッシュとの邂逅が現実のものだったのだと改めて噛み締めた様子だった。





 ——コービーね。そう名乗ってもおかしくないけれど、妻にいるというなら可能性は低いか。それよりもネリウスが復活って話の方が気になるな。


「あれこれ考えても——

 アッシュの手元が蒼く輝くと宙から細やかな粒子が現れ何かの形をなしていく。

 ——仕方ないから本人達に直接訊ねるのが早いな」と、形をなしたそれは立派な毛並みの軍馬で、アッシュはそう云いながら鐙に足をかけ勢い良く乗馬した。


 黒い毛並みの軍馬は小さく嘶くとブルブルと身体を震わせ、右にかぶりを振る。

 そうやってアッシュに愛撫を求めた。なめし皮の手袋を外したアッシュは求められるままに首と鼻面を優しく撫でてやると、夜に悪いなと囁いた。

 そして、手綱を握り無言のまま走り出すと、街道を西にはずれ満月の月明かりを頼りに小高い丘を登っていった。


 満月を背負った騎影は闇夜の中、輪郭を白く浮き彫りにしながら駆けてゆく。

 風になびく外套は上下にはためき黒い翼のようで、月光に閉ざされたフードから覗く黒瞳の輝きは神の炯眼を思わせた。そう、やはりこの男は英雄譚に語られる宵闇の鴉で、ただその姿を目にしただけで畏敬の念を抱かせる何かを持っているのだ。


 もっとも、当の本人は英雄やら鴉やらといわれるのを嫌っている。


 ※


 フリンフロン建国の少し前、ジョージ・シルバを神輿にのせ建国を求める機運が高まった時期に勃発した<勃興戦争>は、最古の歴史を誇る北の大国アークレイリが急先鋒となった。かつての<北方旅団>の末裔であるアークレイリ人達は、軍事港都市クルセルスから闇夜に紛れ大船団を出航させると真っ直ぐ南に位置するラングヴァルダー湾を目指す。しかし、<太陽のない街>のヘルムートの慧眼はその奇襲作戦を看破する。ヘルムートはダフロイト西のガライエ砦へ魔術兵団と砲兵兵団の派兵を進言し、見事に砦を奪取、味方が見守る砦であると油断をして通過する大船団の横っ腹に風穴を開けてみせたのだ。

 その砦は今では放逐され、急造の桃源郷ダフロイトが産み落とした暗部の吹き溜まりとなり、そして淀み、勝利に沸き立った頃の威風堂々とした姿は見る影もない。


 切り立った崖にその姿がそびえるガライエ砦は、アッシュの眼前に広がる急勾配した草原の先で黒々とした姿を露わにした。




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